第85話 とても普通のことです。-6
結局、エリザベートの不安の吹き溜まりは無くならなかった。マリア・ペローが上手くはぐらかしたおかげでいくらか小さくはなっていたものの、それは時間稼ぎとしても不足するものだった。
特に学園でアイリーンの名前が売れ出してからは、その不安を止める術など一つもない。
懇親会のあとすぐに行われた中間考査で、アイリーン・ダルタニャンの名前は更に売れた。名実ともに、彼女が口だけではないと示されたのだ。さすがに国政をしながらも考査で満点に近い点を取っていったシャルル王子には敵わないが、数いる有力貴族を抑えて、堂々の三位。二位のエリザベート・デ・マルカイツとはわずかに三点差。言ってしまえば、一問差しかなかった。
マリアは自慢げにその話をするハンスに相槌を打っていた。騎士舎でのことだった。エリザベートに詰められて以降も、マリアはハンスとの訓練だけは続けていた。アイリーンが忙しいのか、騎士舎にあまり現れなくなったためだ。アイリーンと会うことがないなら、その騎士と訓練することに問題はあるまいと考えていた。
それにエリザベートの不安は、もっと別のところにあるとも考えていたのだ。それは一部正しく、一部間違っている。
問題があるない以前に、誰かに訓練をつけることに楽しさを見出していたというのもあるだろう。ハンスは未熟だったが、それゆえによくマリアの技術を吸収した。何年かかっても抜かされないだけの自信はあるが、そのうち手ごわくなるだろうと思わされる程度には、評価している。以前は伸びしろもないと断したが、間違いだった。
マリアが訓練を始めようとした矢先、騎士舎の入り口にエリザベートが現れた。
すぐにわかった。騎士舎にドレスで来るとすれば、エリザベートだけだからだ。今日は講義をサボったのか、時間は昼前である。他の生徒は授業中の筈だ。
エリザベートは周りの視線をかまわず、真っすぐ一段低い位置の訓練場へ降りていった。
そこからはマリアから近づいた。訓練場は土がもうもうと舞っているためドレスを汚してしまうのがわかっていたし、マリアはエリザベートとの会話を聞かれたくはないのだ。アイリーンが台頭し、学院の規範が守られつつある今、エリザベートに対して過剰なゴシップや陰口が囁かれている。それは本人の身から出た錆びでもあるが、多くはただ流されているか、ただ身分差に不満を覚えていたものたちの、ルサンチマン的な根性の悪さなのだ。
「こんなところに来るとは思いませんでした」
「私は、あんたがまだあいつの騎士といることに驚いてるけどね」
「前も言った通り、ただ孤立している二体が同じところに集められているだけですよ。引力というよりは、斥力のなせる技というわけですね」
「口が減らない」
エリザベートは面白くもなさそうに笑う。
そして、ハンスを指さし、言った。
「じゃああれ、ぶちのめしてくれる? 立てないぐらいに」
「はい?」
マリアははじめ、エリザベートが冗談を言っているのだと思った。
「なんの感情もないんでしょ。ならぶちのめしてよ」
エリザベートが言う。マリアはやはり冗談だと思う。
「どういうことです?」
「なに、できないの?」
エリザベートと目が合う。それで、彼女が本気だと悟ると、浮かんできたのは困惑だった。
なぜ? そんなことしてなんになるというのだ?
しかし、エリザベートは本気だ。そしてその意味は、もういちど、またしてもマリアを計ろうとしている。懇親会で誤魔化しきれなかっただけではない。まだマリアを信じていないのだ。
かといってエリザベートの要求は容易に飲み込めるものではない。ハンスを打ち負かすのは簡単だ。しかし彼女が言っているのはただ勝てばいいということではないはずだ。
文字通り、いや、文字通りと、比喩として立ち上がれないほど”勝てない”と思わせなければならないのだ。
それも然程難しくはないが。
だからこの状況をためらわせるのは、自分の判断だ。自分がどうしたいのか。マリア・ペローとしては喜ばしい行いではない。誇ることもできない。
エリザベートが迷っているのなら、マリアは断った。目が揺れ、ただ不安感を紛らわせるためにこんなことに付き合わせようとしているなら、マリアはエリザベートを丸め込んで観劇に連れて行ったはずだ。
そうではないと判断させるだけの眼をしていた時点で、マリアに選択肢はなかったのである。
「いいんですね?」
「いいもなにも」エリザベートが言う。「こっちがやれって言ってるのよ」
マリアは肩をすくめ、皮肉っぽく笑った。これが精いっぱいのユーモアだと言いたげに。
そして彼女はこちらを不信の顔つきで窺うハンスを振り返り、そちらへ向かって歩き出した。「おい」とかけられる声を無視して訓練場を横断して、立てかけられた木剣へ手をかける。
はじめに、空洞の多い木剣に手を触れた。それが最後の躊躇だった。エリザベートの顔を見て、マリアはすぐ隣の真芯まで詰まった木剣を手に取った。「アイリーンはきっと許さないだろうな……まあ、仕方ないことだ」その点は中途半端に関わったこちらにも落ち度がある。木剣をハンスに投げ渡した。
「どういうことだよ」
「どうもこうもない。互いの主君の名誉をかけて、決闘もどきをするんだ」マリアはハンス越しにエリザベートを見やった。「……多分、そういうことだろう」
マリアの態度は、いつもと同じものだった。挑発的で、どこか優しかった。それはマリアが訓練に必要だと考えている二つである。相手は怒り、こちらは受け止める。そしてそれは、本心蔑んだものではならない。師範代としての経験はなきに等しいが、そうやって訓練してきたのだ。
エリザベートに対しても同じだ。向こうは怒り、こちらは受け止める。違うのはマリア自身もその怒りを共有していたこと。マリアはエリザベートの一部となり、それを受け止め、発信する。ここまで来たなら、それに付き合う覚悟はある。
「構えたな? 言っておくが、マジだぞ」
マリアが言う。
ようやく状況が飲み込め始めたハンスが、木剣を構える。エリザベートが気に入らない。彼女に恥をかかせることができれば――そして、目の前の騎士にこれまでの蓄積をぶつけることができれば――そのような考えで。
マリアは手の中でくるくると木剣を回している。
「構えたぞ」
「そうか」
言うや否や、マリアはハンスの肩口へ向けて強烈な突きを見舞った。




