第84話 とても普通のことです。-5
マリアは動揺しなかった。それは褒められて然るべきことだろう。ここで動揺してしまっては、エリザベートのペースが掴めないまま、ずるずると状況が進んでしまったはずだ。
マリアは動揺しなかった。動揺せず、エリザベートの頭を見下ろした。そして、どこまで知っているだろうか? と考えた。
アイリーンとのことは、全て騎士舎で起こったことだ。外では顔を合わせたことは一度もない。日中はマリアも騎士舎から出ないため、機会自体がないのだ。そして、エリザベートは騎士舎には来ていないはず。であれば、直接目にしたわけではあるまい。悪意ある誰かに吹き込まれたか。おせっかい焼きがエリザベートを本当に心配して伝えたということはあるまい。このタイミングまで引っ張ったということは、伝聞してきたその相手が、遠回しにエリザベートが傷つけばいいと思っていたということを、彼女も理解しているのだろう。
そのうえで、どうして今、自分にそれを明かしたか。マリアにはその理由もわかる気がしたが、それを考えることさえ、エリザベートは許さないだろうと思った。
「言うほどの仲じゃありませんよ」
マリアが言った。そして、少し居心地悪そうに肩を揺らした。頬にキスをされたことを思い出したからだ。それに、まったく好意を持っていないわけじゃない。――そこが厄介なところだった。責められる謂れはないとはっきり言えないのだ。
それに、マリアは未だにエリザベートのなかのアイリーン・ダルタニャンのポジションを見誤っていた。
「彼女の騎士と訓練してるらしいじゃない」
エリザベートが嫌味たらしくいう。懇親会の檀上ではアドニス・ケインズが”今という時代を生きることを、真剣でいると同時に、楽しむべきだ”と言っている。
「頼まれると断れませんで。大した意味のあることじゃない。はぐれ二人がなんだか同じ空間にいるだけです」
「どうだか」エリザベートがほんの少しだけ、笑った。笑ってから今度は、不安気な顔になった。まるで笑顔になったのが、なんらかのエラーであるかのようにだ。本当にしたいのは、不安な顔だった。
「アイリーンのこと、どう思った?」
マリアはエリザベートと目を合わせた。答えを待っているシチュエーションで、彼女は答えを待っていない。マリアのほうも、《《素直すぎる受け答え》》はしない。とりとめのない言葉で、アイリーンを誉めるにとどめる。そして、こう付け加える。
「なんとなく、ですけど。あなたも彼女が魅力的なのを知ってるのでは?」
「そんなんじゃない」
あまりに低いトーンで反論するので、マリアは驚いた。
「嘘ですよ」
マリアは嘘をついた。
「嘘です」
そう繰り返す。
「嘘じゃない癖に」
「ええ」
エリザベートはため息をついて肩を落とした。
混乱から抜けて、今。頭が疲れていなければ、マリアに怒鳴りつけていたかもしれない。疲れていたからそこまでは思わなかった。脳が眠たいのだ。
シャルル王子と話せず、エグザミンの薬を幻覚の中で飲んだ。あの時のようなカオスのなかにはいない。だがそれでも、アイリーンのすべてを冷静に受け止められるわけではない。
「アイリーンに近寄らないで。魅力的とかそんな話じゃないのよ。あいつは私から全部を奪っていく。それは事実なのよ。お願いだから関わるのをやめて。でないと……」
でないと、の後はなかった。脅しつけるようなことを言ってもマリアには効かない。それにエリザベートは幻覚や、多方から聞こえてくる嫌な言葉よりも、今のところはまだマリアを信じていた。
マリアはなにも言わなかったが、それでもよかった。二人は並んで立ってスピーチを聞いて、その後はシャルル王子の元へ二人で向かった。シャルル王子は先ほどあまり話せなかったことをエリザベートに謝り、来賓方に彼女を紹介した。シャビエル司教はマリアの姿を見て露骨に眉を顰めたし、エリザベートもそれに気づいていたが、下がらせるようなことはしなかった。
この場にまだジョン・ミューラーがいれば、マリアとなにか話したかもしれないが、シャルルのほうも自分の騎士を傍にいさせていたため、そうはならない。王子の婚約者として紹介されて、エリザベートは気持ちがよい。
この晩に起こったことについてマリアの推測は概ね当たっていた。エリザベートが自分に明かしてきた理由タイミング全て、マリアは見抜いていた。だが唯一見抜けなかったのは、アイリーン・ダルタニャンのポジションについてだ。マリアは自分のイメージとエリザベートの持つイメージに齟齬があること自体には、気が付いていた。自分には理解しきれない感情があるということだけは、わかっている。だがその点について深堀せず、はくちでいる。
エリザベートのなかの、アイリーンの位置は、自分が思っている重要だろう。しかしその考えには理解が致命的に不足していた。単に高低の問題ではない。アイリーンはマリアが思うより遥かに重要で、一歩間違えば全てを崩すほどの地雷なのだ。
それが表出するまで、そう多くの時間はかからない。
▽
懇親会の床には、一枚の紙片が落ちていた。そこに書いてある文字はたった一列だけ。
”お前は誰だ?”
一人の女生徒がその紙に近寄り、拾い上げた。長いぼさついた髪の、陰気な見た目の少女である。メアリー・レストと呼ばれているその少女は、文字列に眼を通すことなく、口のなかでそれを唱えた。そして、手でぎゅっと潰した。
「……邪魔者がいる。早くしないと」
彼女の視線の先には、エリザベート・デ・マルカイツがいた。彼女は自分の騎士と談笑していた。その顔には不安が浮かんでいるが、他の誰も気づいていない。




