第83話 とても普通のことです。-4
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エリザベートは再び、微睡のなかでエグザミンとのことを思い返した。
「確かめてみるべきだ」と、エグザミンは言った。エリザベートが他人をどこまで信じられるかという話をした時のことである。
「信じられるのは正真正銘のバカだけだよ」診察台に横たわったエリザベートがそのように言う。「こっちを騙すこともできないぐらいの知恵遅れだけさ。それ以外の奴らは……誰かになにかを言われて、傷ついたりするような感性を持っている人間は、こっちの足を掬おうとしてくる。”義憤”だとか、そんな言葉を使ってこっちを裏切ろうとするんだ」
例えば、マーヴィン・トゥーランドットがそうだった。彼はエリザベートの騎士であり、絶え間ない忠誠を誓ったはずなのに、エリザベートよりもアイリーンを優先するようになった。エリザベートのやっていることに苦言を呈し、ときにあからさまな皮肉でこちらを嘲った。
あの舞踏会の日、誰もエリザベートを助けようとしなかった。否、ずっと前からエリザベートを助けるものなどいない。自分に虐げられたものは勿論、《《自分と共に虐げたものさえ》》! はじめから酌量の余地を考えるのなら、嗜虐的になどなるべきではないのだ。それはきっと、欲求不満を生む。
だがそれをエリザベートが責めたとしても、意味はない。彼女もまた、誰かについて来てほしいなら、率先して悪徳でいるべきではないからだ。
しかし、エグザミンはその欲求を肯定する。
「それは無理からぬ話です。お嬢さま。だって貴女も、社会が産み落とした子供なのですから。孤独でいられない遺伝子を持っているのです。遺伝子から逃げる方法は、一つしかありません」
「それはなに?」
エグザミンが錠剤を差し出す。エリザベートはそれを受け取る。
「以前にも話したはずです。忘れて、そして、はくちになるのです。馬鹿になってしまえば、悩むこともない。嫌なことにはミストをかけてしまえばいい。私の薬がその一助となるでしょう」
「ええ。憶えてる。忘却がよりよい前進を生むと……でも、それでいいのかしら」エリザベートは薬を目の上にかざした。「わからないけれど、私はそうは思って……いないような……」
「お試しになりますか?」
「え?」
エグザミンの顔を振り返る。しかしそこにあったのは、エグザミンではなく、父の顔だった。
父はエリザベートを、失敗作を見る眼で見下ろしている。ジュスティーヌのように才能にも恵まれず、努力でも一番になれない。自分のことを。父と、そして母がエリザベートを見下ろす。エリザベートをぐるりと囲っている灰色の人間たちは、次々と顔を変え、エリザベートの知る全ての人間になる。彼らはエリザベートをバラバラに引き裂いて、何者でもないただの肉塊にしてしまおうとしているのだ。
「誰も信じられないと言ったが、それはこちらも同じだ。お前は誰にも信じられることはない。お前はピエロなんだよ。誰もお前と真面目な話などしない。真面目に話も聞かない。お前に重要な価値などない。だからみんなお前とともに最後までいたりはしない。お前は長々とバズワードを繰り返すだけのロボットなんだ。ゼンマイを巻いて動かす、子供のおもちゃさ」
「黙って。黙って! マリアはそうは言わなかった! マリアがまだいる! 私の前の時間に彼女はいなかった! 彼女は違う!」
「アイリーンのほうが魅力的だ。アイリーンと会えば彼女だってお前を見放す」
恐怖で声が出なくなる。喉が引きつり、呼吸がおかしくなった。元の顔に戻ったエグザミンが酷く優しい声で言う。「失望することはありませんよ」愛しているとでもいうように。「あなたが特別脆いんじゃありません人間それ自体が脆いんです。孤独に耐えられないことに、恥じ入る必要なんてない。さ、薬を飲みましょう?」エリザベートの身体が拘束される。薬をつまんだ手が彼女の口元に近づく。その寸前に、彼女は天井から舞ってくる一枚の紙片に気が付いた。
エリザベートは我に返った。自分は懇親会の開かれているホールの、誰もいない廊下に一人でいる。立ち眩みがして、壁に手をついた。
「なに、今のは……」
エリザベートは一つ、深呼吸をする。そして、床に落ちている紙を見つけ、ギョッとした。
さっきまで見ていたのは、夢だったのか? 手紙の魔術師がまた、あの時と同じように悪夢を見せたのだろうか。恐る恐る手紙を開くと、そこあったのはたったの一行だけだった。
”お前は誰だ?”
「お前は誰だ? ですって? 私は……」酩酊する。頭がぐらついている。つばを飲み込み、落ち着いた。「エリザベート・デ・マルカイツ。エリザベート。私は肉塊なんかじゃない。肉塊なんかじゃ……」
エリザベートは口の中でそう繰り返した。そして足早に会場へ戻る。出来るだけ平常心で、他人に弱みは見せない。
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会場へ戻ったエリザベートは、遠くのほうにマリア・ペローの姿を見つけ、ほっと胸を撫で下ろした。
声をかけようと近づく。人混みがあって、なかなか前に進めない。体中のあちこちが色んな誰かにぶつかった。
「ちょっと」「ぶつからずに歩けないの?」「あの騎士は一人でいたいんじゃない?」「あの騎士がアイリーン・ダルタニャンと話してるのを見た」「それってどういうことなんだろうね」
そんな声があちこちから聞こえてくる。あざけり、嘲笑、自分を娯楽のひとつとしか思っていない声や、自分を嫌う声が、眠っている間に耳管へ入ってくる死出虫のように、鼓膜をかりかりと引っ掻いて来る。
エリザベートは逃げたくてたまらず、人混みをかき分け、かき分け、その中から抜け出た。目の前には皿が一枚だけ載ったテーブルがあり、その上には薬が載っている。
エリザベートは迷わず飲み込んだ。
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マリアは遠くの扉から、主人が会場へ帰ってきたことに気が付いた。マリアはナッツを指で潰さない程度に圧して、弄んでいた。テーブルのうえに飲みかけのフルートグラスを置いていた。
「……なんだ?」
エリザベートは明らかに様子がおかしかった。足元がおぼつかず、立っている生徒に何度もぶつかっている。マリアは急いで主人のもとへ駆け寄った。今にもキスしそうなほど近づいている男女の生徒をおしのけ、エリザベートの肩を掴む。
「大丈夫ですか?」
エリザベートがマリアの顔を見上げる。
「問題ない。問題ないから」
エリザベートがマリアを睨みつける。
「問題ないって」
エリザベートはマリアの手を離れ前を歩く。マリアは後をついていくほかない。
と、エリザベートがまたふらつき、前の生徒とぶつかった。顔をあげると、軽くそばかすの散った女生徒と目があった。
エリザベートは彼女を無視してまた前進した。マリアが通り過ぎようとしたとき、そのそばかすの女生徒がマリアを引き留め、囁いた。
「彼女、大丈夫? とても気分が悪そうだわ。医務の方をお呼びする?」
「私が見ている」
そう言ったとき、首筋がヒヤリとした。口調がフレンドリィ過ぎたか、もっと冷淡にすべきだったか。
マリアは会釈してアイリーンと別れる。エリザベートはその後、一言も声を発さなかった。懇親会はつつがなく進み、あんなに大揉めしていた司教はスピーチのあと意気揚々と菓子を食べていた。
アドニス・ケインズがスピーチをするその時、二人は横並びになって立っていた。エリザベートはマリアに向けて言った。
「知ってるのよ、あんたがあのアイリーンと仲良くしてるの」




