第79話 架空の狂気-8 (マリア)
こうして再びエリザベートは、癇癪を取り戻したのである。……冗談めかしてはいるが、冗談ではない。
ただでさえ毎日市民運動の連中に浴びせられている雑言に苛ついているというのに。クレアの不在やマリアの尽力もあって、落ち着きつつあったエリザベートは、アイリーンとの再会によって再び怒りを取り戻した。
エリザベートの中でそれは、時計の針が動き出したような感覚だった。自らの心持だけの話ではない。自分を取り巻く――学院や、古代遺跡、予言の民などを含んだ、全ての状況が、エリザベートの癇癪から動き出すように思えたのだ。
血の巡りは早くなり、頭に血が上りやすくなった。アイリーンの名前が大きくなっていくたび、エリザベートは忸怩たる思いでそれを聞いていた。
そんな異変にお付きの騎士が気づかないはずがない。
エリザベートが以前のように癇癪を起し、まわりに当たるようになっていることは、騎士舎にほとんどこもりきりのマリアの耳にも入って来ていた。
なんでもアイリーン・ダルタニャンという女子生徒と諍いを起こして以降、彼女にしつこく絡んでいるだとか、子爵男爵令嬢を中心に、辺りかまわずねちっこくマナーを責め立てるだとか、取り巻きの令嬢たちさえ例外ではないらしい。
悪いのはエリザベートが直接そうしなくても、忖度した令嬢令息までもがアイリーンに嫌がらせをしたり、エリザベートの意を汲んだような行動に出たりしているようだ。それに市民運動のカオスが手伝って、反対に強く反発する生徒たちも現れ始めている。最近じゃ有力貴族の令嬢令息がどちらにつくかが、学園中の注目になっているようだ。
エリザベートの婚約者でありこの学院で一番階級の高いシャルル王子は、この問題にはまだ触れていない。それどころか王子としての仕事が忙しいのか、まともに学院に来てもいないようだ。つまり、状況を収拾できるものが、エリザベート以外にいない。シャルル王子を除けば、学院で最も地位があるのは彼女なのだ。
その彼女とマリアが過ごすのは、朝の通学の際と、放課後から夕餉にかけての短い間だ。夜にも会おうと思えば会えるが、互いにその機会を設けていない。合計しても十分に満たないが、それだけでもエリザベートにその辺りを求めるべきでないのはわかる。むしろ率先して混乱を引き起こす側なのだ。ただそれは、波に乗っていくようなものでもなければ波の中心にいるわけでもない。彼女の純粋な独り相撲、純粋な癇癪なのだが。
厳密に言うとマリアはエリザベートの癇癪を、その眼で見たわけではない。マリアがお付きの騎士となった頃は、ちょうど何もない時期だったために、例えば遡行直後のような苛烈さはなかった。本当のことを言えば、マリアは癇癪を抑えたのではなく、エリザベートの癇癪が再発するのを防いだのだ。それまで彼女の心を落ち着けていたのは、他でもないクレア・ハーストである。
その彼女は、いったい今どこにいるだろうか。あの手紙がなければできなかったことを考えると、今、この瞬間に苛立ちを覚えているエリザベートになんと声をかけていいのか、マリアにはわからなかった。マリア自身にも学院の混乱の余波は届いていた。
マリアがエリザベートの騎士であることは周知の事実だ。そのため騎士舎ではしょっちゅう両派閥の騎士から絡まれることも少なくない。そのたびにマリアは「ここでのことは外とは関係ない」と、空言のスタンスをとって誤魔化している。
アイリーンのこともわからない。不思議なことに対立が激化しても、アイリーンとマリアの関わりに変化はなかった。マリアが自分に嫌がらせを続ける侯爵令嬢の騎士であることは、知っているはずだ。にもかかわらず、なにも言わない。言えないというのではなく、まったく気にしていないようなのだ。
エリザベートのことを考えれば、関わるべきではないのだろう。そう思う反面、関わってもっとよく知らなければならない、そう思うこともある。二つの選択肢をなあなあにして、結局ハンスと修練を続けているというのが、現状だった。
マリアはいつものように一日の講義がすべて終わって、ハンスの様子を見に来たアイリーンのつむじを見ていた。
小さな渦のようになったその部分を見られていると気付いたのか、アイリーンが頭を抑えて、わざとらしく責めるような視線でマリアを見上げる。
その視線に他意はなく、ただじっとつむじを見つめられることが恥ずかしいらしい。
「なんでそんなにじっと見るの?」
「いえ、特には。奇麗なつむじだと思いまして」
「それ誉めてる? あんまり自分じゃわからないけど。でもありがと」
こんな他愛もない話しかすることが出来ないでいる。
ハンスがこちらを見ていた。
アイリーンはそうではないが、ハンスはマリアの立場を気にしているようだ。だがアイリーンがなにも言わないので、こちらも突っ込んだ質問はしてこない。マリアに話せと軽く圧をかけてはいるが。
「いつか一番ひどい目に合うべきなのは、私だろう……」
誰にも聞こえないところで、ひっそりと、呟く。
そしてそんな状況下でも、時間は進むのだ。停滞は停滞したまま、いつか解決する物事が、時間内に解決するとは限らない。
一週間後、マリアはエリザベートのエスコートに駆り出されていた。入学したときから決まっていた。国の要人を招いての、懇親会。言ってしまえば新入生歓迎パーティのようなものだ。通常ならこういう場で彼女をエスコートするのは、シャルル王子の役目だが、あいにく彼は主賓側で忙しくしているらしく、他の生徒たちよりも会場入りが早かった。
とはいえエリザベートと関わることはあるはずだ。だからそのときに、シャルル王子にはエリザベートの平穏を取り戻す手助けをしてもらいたい。
「マリア、なにをしてるの。行くわよ」
エリザベートが言う。
彼女は深緑色のドレスを身に纏っていた。髪を後ろで複雑に編み上げ、レースのついた手袋をしている。学生を中心としたパーティに参加するにしては、フォーマルな服装だ。国の要人も参加するとあれば、彼女としては当然だろう。
マリアはいつも通り、男装姿に豪華な飾りのついた剣を腰に提げて、エリザベートを会場まで送り届ける。
コンスタンスはパーティで給仕の手伝いをするらしい。マリアとエリザベートが参加する側だとしって、少し不貞腐れていた。
マリアがエリザベートに手を差し出す。彼女はその手を取ることを一瞬、躊躇したようなしぐさを見せ――それから、マリアのエスコートを受け入れた。
「マリア」
エリザベートが言った。
「頼んだわよ」
ええ、と返したマリアの口の中は、緊張でひどく乾いていた。




