第76話 架空の狂気-5 (マリア)
アイリーン・ダルタニャンに話しかけると、彼女がこちらに反応するよりも先に、金髪のハンス・アーレントの翡翠色の刺々しい目がこちらを捉えた。そして彼が「失せろ」と言う前に、アイリーンが振り返って、口を開いた。
「ああ、あなた……路地裏で会った騎士さんね。あと時々、私のことを見ているでしょう」
マリアは再び驚かされた。自分がそこまでわかるほどに見ていたということではなく、気づかれていたことにだ。
「まあ、時折ね。君は目につきやすい。何故だか」
「《《何故だか》》。そうね。私もそう思ってた。ここでもそうみたいだし」
アイリーンは冗談めかすと、ずっと睨んだままのハンスの頭を軽く手で押した。
「いつまで睨んでるの。失礼でしょ」
「こいつ、知ってる」ハンスが言う。「有名な女騎士だ。よく陰口を叩かれてる」
マリアはまたぞろ”女騎士は旗振りをする騎士だ。私は旗を振らない”と指摘しそうになったが、イマイチ通じないように思えたので、黙っていた。
アイリーンがハンスを嗜める。この光景を見ていて、マリアは思い出す。エリザベートがコンスタンスに怒るときとそっくりだ。
「ごめんなさい。ハンスはちょっと疑り深いところがあって……」
「いや、別にいい。あー……マリア・ペローだ。よろしく」
マリアが手を差し出した。
「アイリーンよ。アイリーン・ダルタニャン。貴女はもう知っていそうだけど」
アイリーンがマリアの手を握る。それをハンスが睨んで見ている。
「仲良くなったところで、少し突っ込んだことを聞いてもいいかな。なぜ二人で訓練を? 他の騎士はどうした?」
「わかり切ったこと訊くなよ」と、ハンスが言う。「お高く留まった連中だ。俺なんて相手したくないのさ」
ハンスは精いっぱいに啖呵を切ったが、どこか声に情けなさを滲ませていた。問題がこちらでなく、騎士たちのほうにあるのはわかっていたようだが、それでも今、自分たちが嘲笑の的になっているのが悔しいのだ。マリアもかつて同じ境遇に陥ったことがある。ただマリアには、それを跳ねのけられるだけのルサンチマン的精神が備わっていた。ハンスにはそれが無いか、このアイリーンに甘えているか。
「ハンスの言うことはともかく、相手がいないのは本当よ。それで仕方なく……といっても私から提案したんだけど、私が打ち合いの相手になっていたの。剣術は少し嗜んでいたものだから。でもダメね。ちょっと打ち合っただけで疲れてしまうし、ハンスもここに来た時よりは上達したと思うけど……私じゃダメみたい」
まあそうだろうな、とマリアは思った。アイリーン相手ならハンスは体の能力だけで押しきれてしまうから、型を覚えてもそれを発揮できない。押し切ってしまわないよう力をコントロールすることが出来れば話は別だが、けがをさせないようにするので精いっぱいなようだ。
ここでマリアは周囲を窺った。自分と、この二人が一緒に立っているのが珍しいのか、先ほどより鬱陶しいオーディエンスが増えている。ハンスは俯きかけているが、アイリーンは毛ほども気にしていない。大した度胸をしている。
「そうだ!」アイリーンが手を叩いた。「あなたが相手をしてくれない? 有名な騎士なのでしょう? それなら少しは、相手にできる余裕があるかもしれない。お礼はするから、お願い。ハンスを鍛えてあげて」
「私と? どうだろうそれは。私より適任はいくらでもいると思うけどな」とマリアが言う。自分と訓練を始めれば、完全に異端者サイドに入るということだからだ。今ならまだ、歩み寄れば引き受けてくれる騎士はいるだろう。特にアイリーンがチャーミングな笑顔で微笑めば、なおさらだ。「なにより本人の意思が重要だろう」
「でも、お願い」
アイリーンが食い下がったところを、ハンスが口を挟む。
「こんなやつ必要ないよ。アイリーン。俺は一人で大丈夫だから。校舎のほうに戻ってくれ」
「そうした方がいい。そろそろ始業だ」
アイリーンは時計を見て、消沈した。ハンスとマリアに会釈をして、訓練場を去っていく。それでいい。自分で言うのもなんだが、近づいて得をする手合いじゃないのだ。自分は。
それに自分には他にもやることがある。エリザベートの問題はまだまだ解決していない。わかっていた。マリアの視線の先でアイリーンが小さくなっていく。すると、マリアのなかにどうしようもないじれったい感情が生まれた。マリアはその背中を見て、思わず言ってしまった。
「アイリーン!」
アイリーンが振り返る。マリアが続ける。
「引き受けた!」
アイリーンが笑顔になって、こちらに走ってきた。マリアの首に抱き着いて、頬にキスをすると、体を離す。
「ありがとう! それじゃ!」
スキップをしそうな勢いで去っていくアイリーン。マリアは驚きで固まっていた。彼女の姿が見えなくなると、マリアはハンスのほうを見やった。
「知ってるのか?」
「なにをだよ。言っとくけど、アイリーンはしょっちゅうやるからな。最近は控えてたみたいだけど、思わず出ちゃったんだろ」
ハンスが訓練場の、マリアのちょうど向かいにあたる位置に立つ。
「やるんだろ。構えろよ」
「ああ、うん……いや、驚いた。あれは魔性かもな」
アイリーンはマリアを知らないと言っていた。マリアを知らないなら、性的志向だって知らないだろう。だが全て知っていてやってるなら? あれは嘘をついているようには見えなかった。マリアがあれで投げ出しづらくなったとしても、全て計算ではないのかもしれない。逆に知っているなら、随分な令嬢だ。
エリザベートが警戒しているのは、王子がとられやしないか心配しているのだろうか。その心配はないと思うが、まあ、知っているなら心配になるだろう。
かくいうマリアも、少し恐ろしくなった。計算でも、天然でも。
ハンスが木剣を投げ渡した。中身が空洞の、安全なものだった。




