第73話 架空の狂気-2 (エリザベート)
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ロマーニアス王立学院は、恐らく大陸でもっとも進んだ教育機関だ。立地は王都の中心部。中庭から城を眺望できる位置にあった巨大な美術館を改築して建てられている。王侯貴族が連なって金を出して建てたため、はじめは建物ごとにお金を出した有力貴族の名前が冠される予定だったが、フェリックス王が”威圧的で、平等という重要なテーマに反しているから”という理由で廃止したため、今はそれぞれ講義棟だとか、時計塔だとか、学生寮その一、その二だとか、そういう名前に別れている。
エリザベートが入る予定の寮は、偶然か取り計らいか、元は”グザヴィエ・マルカイツ寮”という名前になるはずだったらしい。しかし今は、鳥の名前が付けられている。カケスだ。まあ、そんなことはどうでもいいことだが。
エリザベートが学園の入学してから、しばらくが経っていた。エリザベートはカケス寮の最も大きな部屋に一人で生活している。それでも元の部屋よりはずっと小さく、ベッドも簡素だ。
そのせいか眠りが浅く、朝早くに目覚めることが多い。ここ最近は講義の予習を簡単に終え、読書をすることが習慣化している。
その日は朝から廊下の外が騒がしかった。部屋の外から誰かと誰かの言い合う音が聞こえてきていた。無視してエリザベートが椅子に座って静かに戯曲の本を読んでいると、部屋の扉がノックされた。
「入っていいわ」
扉が開かれ、コンスタンスが現れた。
「おはようございます。お嬢さま」
「ええ。朝からなにが起きてるの?」
「言い争いです」
「それは聞けばわかる。なにで言い争ってるのかって話」
コンスタンスは首を傾げた。こうなると、この子は使い物にならない。腹立ちまぎれにエリザベートは卓上の参考書を音を立てて重ね、小脇に抱えた。
「どうでもいいか」
廊下で言い争っているのは、どちらも知っている人物だった一人はベルナデッタ・ド・オライリー。伯爵令嬢でエリザベートの《《取り巻き》》だ。
もう一人はレーナ・カーデンスという、南方の子爵家の令嬢だ。川魚を使った料理で有名な地域出身である。
同じ制服姿でも生きてきた背景の違いを感じさせる二人が、言い争っている。どちらが優勢かはわからないが、ベルナデッタのほうが後ろに二人令嬢を抱えているので、取り敢えず人数は多いようだ。
二人ともヒートアップしているのか、エリザベートにその気がないだけか、なにを言っているのかよく聞き取れない。エリザベートは二人の背後を通って寮から出ようとした。
レーナがそれに気づき、ベルナデッタ越しに大声をあげる。
「エリザベート・デ・マルカイツ! 聞こえてるんでしょ! あんたに何も関係ない話をしてると思うわけ?」
レーナが言う。
「この学校は歪んでる! けっきょくあんたみたいな侯爵家の令嬢はいい部屋を貰って学院のボス気取り。何様なわけ?」
エリザベートが立ち止まって、振り返る。
そして言う。
「力を持ってるならそれを使って何が悪いと言うの? 力を持っていないからそんな風に言うんでしょう。不幸を嘆くのはいいけど、私に八つ当たりしないで」
ベルナデッタと取り巻きがエリザベートを称賛し、レーナを嘲った。レーナは信じられないという面持ちで絶句する。エリザベートはまた歩き出す。
エリザベートにとって取るに足らない相手の言葉などは、凪のようなものだった。なににもならない。腹を立てること自体が馬鹿馬鹿しい。レーナはその点で運がよかった。エリザベートが無視をして外に出て行こうとするのを、そのまま見送ってしまえばよかった。だがそうしなかった。去り行く背中に向けて、こう叫んだ。
「あんたも他の貴族もそう! みんな中身のないクズ! でもシャルル王子は違う。あんたは王子に相応しくないわ。聞いてるでしょ? 噂になってる。アイリーンとシャルル王子はあんたより互いに通じ合ってるって!」
エリザベートが振り返り、レーナの顎をぶん殴るところを、コンスタンスは顔を背けて見ないようにした。耳を塞ぎ、なにも聞こえないようにした。
寮から出ると、道の前で一人の騎士が立ってこちらを待っていた。
「おはよう。お嬢さま。今朝も機嫌が悪そうだな」
その金髪の偉丈夫の名前は、マーヴィン・トゥーランドットという。エリザベートの騎士だった。エリザベートはうんざりした顔で持っていた参考書をマーヴィンに押し付けた。
三人は学院の誰とも話さず、校舎まで歩くと、三者三様の場所へ離れていった。
学院のルール。
いかなる階級にあるものも、この学院ではみな平等。寮や学業の時間外であれば、お付きのメードと騎士を傍に置いてもよいが、それ以外のときは使ってはならないことになっている。
お付きのメードは学院の使用人として昼間は働き、騎士は校舎に隣接した騎士舎にて訓練に勤しむ。
「それじゃあお嬢さま。また午後にでも」
マーヴィンが学院の廊下でそう言って去っていく。あの男のことがエリザベートは気に入らなかった。なにも言わず、しかしこちらを戒めているような目で見てくるところが。そして気に入らないからといってやめさせられないことが最も腹が立つ。
エリザベートは心の中に黒いものが沸き立つのを感じた。それは最早、学院に近づくだけで発症しかけるほどだった。エリザベートの学院生活は、暗澹たるものだった――この時間において。
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エリザベートは、窓の外の喧騒を耳にして、その記憶を思い出した。遡行前にあったこと――丁度、この時期にあったことだ。
時間は早かった。眠れないのは、部屋が小さく、落ち着かないから。けれども以前のように講義の準備をしたり、文学を読んだりはしない。枕で頭を覆い、耳に布を押し付ける。
学院に入学してから、しばらくが経っていた。思ったような波乱は今のところ、なにもない。アイリーン・ダルタニャンとも一度も会っていないし、シャルル王子とはぼちぼち会う機会も増えて、近々政府要人も招いた学院のイベントで、一緒に登壇する予定だ。
前ほど悪くはない。そう思う。しかし世の中はそうでもないようだ。
部屋がノックされる。なにか言う前に、がちゃりと扉が開けられ、コンスタンスが現れた。
「《《またなの》》?」
エリザベートが訊く。外の喧騒についてだ。答えはわかっている。またなのだ。
「そのようです」
コンスタンスが頷く。
エリザベートはため息をつき、荷物を纏めて寮を出た。
「学院は一般にも開放しろ! フェリックス王は偽善者だ! 平等を謳いながら、貴族の為の学校をつくった! 断絶をさらに深めるつもりでいる! 俺たちは騙されたんだ!」
出るや否や、言葉が投げかけられる。
塀の外。しかし学院の塀は金属製の棘のついた槍が並べられたような形をしているので、向こうからもこちらからも互いを見通すことが出来る。
市民団体の連中が、ここ何週間かずっと学院の外で抗議運動をしているのだ。
つまり毎朝、最悪の寝覚めを体験することになる。
「はあ。前はここまで激しかったかしら……」
エリザベートが言う。
「ここ最近です。街でも抗議運動が盛んになってる。以前は憲兵に捕まらない程度だったのが最近は、貴族に空瓶を投げつける勢いだ」
エリザベートの独り言に返したのは、寮の門柱に寄り掛かっていたエリザベートの騎士だった。名前はマリア・ソ・フォン・アレクサンドル・ペロー。女性で、ソドムの騎士。
言った独り言と、それが求める答えはマリアの解答とは少しずれていたが、エリザベートはそう指摘しなかった。彼女はエリザベートが遡行していることを知らないのだ。言えるわけがない。
貴族であれば誰でも嫌な気分になるであろう、労働者たちの演説を聞きながら、校舎への道を歩く。道行く貴族の子供たちは、ひそひそと彼らの悪口を言っている。
こんな状況じゃなかった。前も市民運動自体はあったが、ここまで激化した覚えがない。フェリックス王がうまく扱っていたはずなのに。
エリザベートは考える。
(これも遡行の影響……? 遺跡で手紙の魔術師と話した。もう一人いるに違いがない遡行者が、原因をつくってるのだろうか……。”予言の民”のことも。私が遡行した大本の理由も関係がある?)
”手紙の魔術師”からまた接触があれば、また新しいことがわかるかもしれないが。ここのところなにも言ってこないので、こちらとしてもなにもできない。それにエリザベートには、それ以上にやらなければならないことがあった。
アイリーン・ダルタニャンをシャルル王子と近づけないこと。そのためにエリザベートは、入学式の日にも彼女に話しかけなかった。シャルル王子とアイリーンが出会うのは、エリザベートが彼女に詰め寄ったのがきっかけだったからだ。
アイリーンが友人の子爵令嬢を伯爵の息子から守っているのを、そして見ているだけのものを含めた全員を糾弾した場面で向かって行かなければ、シャルル王子もアイリーンに近づかない。
(あとは学生自治会か……)
エリザベートは校舎の二階を睨みつけた。そこにシャルル王子がいるとも知らずに、だった。
エリザベートは以前のように、校舎の廊下で二人に別れを告げた。コンスタンス、マリアはそれぞれ別の方向に向かい、エリザベートは一人になった。
遠くからはまだ抗議運動の声がきこえる。
「はあ。うんざり」
エリザベートは独り言ちて、廊下を歩き去った。




