第71話 序幕 ある精神科医との会話
時期はわからない、いつかの出来事である。
エリザベートは異文化風の部屋にいた。観葉植物が部屋の隅におかれ、御簾の隙間から西日が差している。彼女は部屋の中心にある椅子に座らされており、正面から貴族風の男がエリザベートを見下ろしていた。見下ろされるのは嫌いだ。抗議の声を上げようとしたが、口が開かなかった。どうやら、それほどまでに疲れているらしい。
「問題ないかな? 椅子が硬くて痛いだとか、呼吸がしづらいだとか……そういうことはない?」
男が言う。
いったいなにを聞かれているのだろうか。意識はまだあるが、なぜそんなことを訊かれているのかわからない。どうしてここにいるのかも。
エリザベートは思い出した。
この男の名前はエグザミン。王都の有名な医師だ。専門は心理医学。遡行前にも会ったことがある。ヒステリー研究で有名な人間だ。
遅かれ早かれ、こうなる予定だったか。エリザベートは思い返す。この男の治療のお陰で、エリザベートは簡単に暴力を振るわなくなった。しばらく様子を見て、もう再発しないだろうと判断されて、体裁もあって断りもなく治療を中断したのだ。
貴族なので、こちらの事情にも通じている。外聞を気にするため患者のプライバシーは外に漏らさない。たとえ匿名にしても、治療内容を論文などにまとめず、引用もしない。
なにより占星術師たちと違い、エグザミンにはなにかを話す必要もない。特別な治療法を確立しているのだ。
遡行前も今も、治療を受け入れているのは、ぎりぎりで許容しているのは、なにも話す必要がないからだ。
これについては以前、エグザミン本人から理由を訊いた。
「必要がない。これが一つ。治療には、必要がないのです。結局のところいかなる問題も欠けているのは安定感であって、それを正せるなら、なんだっていい。占星術師は、吉方を占い、それを信じさせる。私は投薬で。そして私の薬には、話など必要はない」
エグザミンが言った。エリザベートは、意識がおぼろげになってきていた。先ほど飲んだ薬のお陰で眠たくなってきている。
「それ、今まさに私が、思い出そうとしていたことだわ……」
「おや、以前誰かから聞きましたかな? 私に嫉妬する者は言うのです。薬で心を治療するなどと馬鹿なことをとね。先ずは話を聞くこと、問題に対処すること、薬で引き延ばして見ても、いずれ問題と直面するときが来ると。特に、貴族社会のような偏狭な世界観では、逃げる場所もないとね。だが私はそうは思わない。時は過ぎる。それが顧みられることがなくとも」
「そうかもね……」
医師の手渡した薬を飲み込む。
「薄れさせましょう。忘れさせましょう。いずれ来るだろう失敗が、定命の内に来るとは限らないのだから」
忘却する。忘れることで、辛いことはすべて無くなっていく。
「忘却はよりよい一歩を生むと、古代の賢人も言っていますから」
エリザベートはもう一錠、薬を飲み込む。
「忘れましょう」
「忘れましょう」
「忘れましょう」
忘れて、考えないようにする。
エリザベートは自分の口と鼻が無くなっている幻覚を見た。それだけではない。目も髪もなくなり、それはやがて一個の肉の塊になるのだ。なんの器官もない体へと。そのままそして”――――――”は、どこにも存在しなくなる。
のっぺらぼうのエリザベートを、のっぺらぼうのエグザミンが見下ろす。このとき最後に感じるのは安堵ではない。恐怖だ。しかしその後には、安堵がやってくる。
しかしその前に――目が覚めた。
ちょっと短めでした。はじめなのでところです。




