第68話 この場にいる気がしていない。 中
いいと言った手前、拒否するわけにもいかず、エリザベートはマリアの後ろをついていった。
マリアが見せた鍵――オルガン部屋は屋敷の二階の、小さな応接間だった。本来は他の応接間が使えないときのために用意された応接間さえも使えないさいの余剰として用意されている部屋で、オルガンはずっと昔に、マリアとジュスティーヌの二人で持ち込んだのだった。緊急時には運び出すよう言われているが、ここ何年もオルガン部屋を使わなければいけないような事態になったことはない。従ってオルガンは部屋に置いたまま。オルガン部屋はオルガン部屋のままというわけだ。
エリザベートはその部屋を長いこと見ていなかった。ジュスティーヌも同じだろう。今より小さい頃に持ち込んだオルガンなので、小ぶりで精度もよくない。当時は朝から晩まで入り浸ったこともあるし、最高の玩具を持っていたつもりだが、今弾こうとすれば欠点のほうが目立って見えるに違いない。
「あの部屋のこと、ジュスティーヌから聞いたの。趣味悪いね、あの子も」
「いいえ、あの部屋自体は、ただの思い付きです」
二人で階段を上る。廊下を左に曲がってバルコニーの近くまで歩いていけば、オルガン部屋はすぐそこだ。
月夜の明かりで照らされた仄暗い廊下を、騎士の背中を目印に歩く。鎧を外した状態のマリアを、エリザベートは背後から観察する。
マリアが自分を誘い出した理由を、エリザベートは考えていた。
クレア・ハーストのことだろう。
マリア・ペローは自分を励まそうとしている。
エリザベートはそれが気に食わない。誰かが自分の心情を理解していると思い込むこと、それこそ彼女にとって一番の屈辱なのだから。他人がなにを考えているかなど、完全に理解できるわけがない。だのに善人は、時折他人の心情がわかったと思い込んで、勝手な同情をして、手を差し伸べようとする。
エリザベートにとって助けるという動作は、ノブレス・オブリージュの概念と似ている。上から下へ。水が流れるように、余裕のあるものが余裕のないものへ救いの手を差し伸べることが、助けるという動作なのだ。
マリアはそういう手合いではないと思っていた。エリザベートにとってマリアは、他人が嘘をつくと知っている数少ない人間の一人だ。社会的なハンディキャップをいくつも背負いながらもここまで生きてきたのは、運がよかったのではなく、知恵が回ったからだ。
――あるいは、マリアは自分を操るつもりなのでは?
エリザベートは考える。無根拠で、笑い飛ばしてしまえるような説だが、マリアを一辺倒に信じることをするつもりはない。この馬鹿馬鹿しい疑いは、その宣言と言えた。
マリアの背を睨みつける。心を許すつもりはない。はじめて会ったとき、彼女と会話したときに確認し合ったように、裏切りは誰の中にもある。強くあろうという決意を固める。何度も何度も。
けれどもそんな心情は、月光がマリアの髪の奥に見える腫れた素肌を見て、しゅるしゅると萎んでいってしまう。マリアが全力で走り、全力で守ろうとした、事実を受け止めきれない。
これと同時に、エリザベートはクレアのことも思い出していた。具体的な記憶も、曖昧な感覚もどちらも、肯定的なものがにじみ出そうになるのをエリザベートは床を見て歩くことで耐えた。
「そういえば――なんですが」オルガン部屋の鍵を開けたマリアが尋ねた。「聞いた話では、昔は楽器を弾くのが好きだったんですってね。それがなぜ、今はまったく弾かないんですか? 話を聞くまで弾けないのかと思っていました」
「……ジュスティーヌでしょう。その話をしたのは。いらない気を回したのもあの子。違う?」
「どうでしょう……。誤魔化しでなく本当に、《《それ》》に正しく答える方法を、私は知りませんので」
マリアはオルガンを開いた。エリザベートとジュスティーヌが使っていない間も、誰かが手入れをしていたらしい。軋むような音もせず、埃も被っていなかった。
「誤魔化しが下手ね」
「そんなんじゃありませんって」
「あそう。言ってれば」
マリアが持ってきた椅子にエリザベートは腰を下ろした。目の前にある鍵盤を見たとき、エリザベートは緊張している自分に気が付いた。鍵盤につくかつかないかというところまで、両手を開いて持っていく。
そこで、もう一つの事実にも気づく。
「ねえ、今さらだけどこれ、連弾なんて出来ないでしょ。子供用よ、これ。私一人でもやりづらいのに、二人とか」
指摘すると、マリアは簡単に、こう返した。
「ああ、本当だ。それじゃあお嬢さまが弾いて、それから私が弾きましょうか」
マリアの台詞は、用意されたようだった。
つまり、初めからそうするつもりだったのだ。
嵌められた、と思いつつもエリザベートは、どうしてだか抗議する気にならなかった。鍵盤を前にして、見たときの緊張が薄れ、代わりに弾きたい欲求が生まれていた。
そしてエリザベートはオルガンを弾き始めた。はじめは、まったく上手くいかない。オルガンの弾き方は覚えていたが、マリアの用意した楽譜はかなり難しい曲だった。
二度、三度詰まり、そこで一旦、エリザベートは過去の感覚を探した。この曲はいぜん弾いたことがある。弾くことはできたはずだ。
思い出す。指が動く。今度はさらさらと弾くことができた。
それとともに、苦い記憶も蘇ってくる。演奏が上手くいくほど、それはどんどん強くなっていった。エリザベートは苦しみながら曲を全て弾ききった。
ずっと昔のことだ。マリアはオルガンの講師にこう言われた。”上手くこなそうとしなくてもいいですよ”と。エリザベートには、”上手くこなさない方法”などわからなかった。だが例えばジュスティーヌが自分より素晴らしい演奏をしているのは理解していた。
マリアの控えめな拍手を受けながら、エリザベートは椅子から立ち上がった。
「お嬢さま、上手ですね。流石です。それじゃあ次は私が」
マリアがオルガンを弾き始める。こちらはブランクもないのか、難しい曲でも引っかからず弾いていっている。とても上手だ。そう言えるだろう。
しかしマリアの演奏には、色がなかった。それはエリザベートがかつて講師から言われたのと、まったく同じ問題だった。ただ上手いだけで、なにも刺さってこない。
「ききました」マリアがオルガンを弾きながら、そう言った。「お嬢さまが楽器をおやめになられたのは、ジュスティーヌ様のほうが才能があったからだとか」
「ええ」
「私も以前、言われました。これでも貴族ですのでね、幼少の頃はオルガンの家庭教師がいたんですよ。でも一度も褒められたことはなかった。それなりにひくことはできるんですが、感情がないだとか主張がないだとか、そんな曖昧なことを言われてね」
エリザベートにはその気持ちがよく理解できた。
「下手なりに楽しんでもいないと。あんまり言われるのである日、講師にめちゃくちゃに怒りを込めて演奏したんです。そしたらなんだか知りませんが、それでいいと言われましたよ。ムカついたんでオルガンはその日にやめました」
「それで?」
「それで、なにがムカついたのか考えたんです。どうしてだか結局、その時にはわかりませんでしたが、暫くしたとき、ふと気づきました。私は他人に自分なんて見せられないんだってことに」
マリアが言う。
エリザベートはその言葉がなぜか、ひどくショッキングに聞こえた。そう断されることで、自分の中にあるものが崩れてしまうような、そんな気分だった。
それはきっとリフレインだ。過去に自分が自分に対して思ったことなのだ。
「今はもう別に、関係ありません。私は皮肉っぽくて厭世的、それから女好きの、女の騎士です。みんな知っています。でも昔はそれを誰にも言えなかった。それを言えば拒絶するのに、出さないのが間違いだと言われた気がして、それが嫌だったんです」
マリアはオルガンの鍵盤を鳴らした。
エリザベートの肩がびくりと動く。恐怖を感じている。マリアが自分のもとへ入ってこようとしていることに、そしてそれが半ば上手く行きそうなことに。心臓にナイフを突きつけられる気分だった。殺されるのではないかと思った。
「私はあなたの騎士をやってて、どこか自分と似ているような気がしました。それは多分、オルガンの才能がないことじゃない」
「他人を信用してない。そうでしょう」
エリザベートはそう自分から言い切った。しかしマリアは「いいえ」と否定した。
「それもまあ間違ってはいませんが、根本がそれだとは思いません。似ているのは私もあなたもそこそこに繊細で、そこそこにロマンチストだってことです」
マリアは笑うように息を吐いた。
「だってそうでしょ? 私もあなたも才能の差がわかるんですから。ロマンチストでなければ、こんなにうまく弾けてるのに才能がないだなんて思いませんよ。そこの機微に敏感だからこそ、才能がないんだってわかるんですから。だから私もあなたも、ロマンチスト。そしてそんなもの引きずっているようだから、そこそこに繊細なんです」
「才能がないロマンチストだから、誰も信用できないってわけ」
「ええ。才能のないロマンチストだから、理性屋ぶってみたりするんです」
マリアの言い回しは、人にわかりやすく説明しようとしたものではなかった。けれどもエリザベートにはその意味が分かった。それは間違っていなかった。
エリザベートは考えようとした。マリアの言っていることを否定し、自分に近づいてくるものすべてを拒絶する言葉を。だがそんなもの、簡単にはでてこない。そしてそうしないほうが単純で、快かった。
自然とエリザベートの眼には涙が溜まっていた。顔がひん曲がりそうになるのを堪えながらぼろぼろと涙をこぼすエリザベートへ、マリアがハンカチを差し出した。
「やなやつ。あんた。ほんとにやなやつ」
エリザベートはハンカチに顔を押し付け、ずっと上げようとしなかった。マリアは無言で傍に付き添っていた。
エリザベートは言った。
「裏切らないで。私を。絶対に裏切ったりしないで」
「裏切りません」
「いなくなったりもしないで」
「いなくなりません」
二人はしばらくの間、そのままの状態でいた。




