第67話 この場にいる気がしていない。 前
マリアがクレア・ハーストに対して思うところがあるとすれば、それはこんな手紙を書いたこと自体にだった。
こんな手紙を書いておいて放置してどこかに行ってしまったことに恨めしさを感じていた。あれじゃまるで遺書かなにかのようだ。だというのに彼女は生きていて、王都から離れたわけでもない。拍子抜けさえするような事実。死ぬわけでも永久に会う覚悟があるわけでもないなら、手紙など書くべきでないし、少なくとも火にくべて誰も読めないようにしてしまうべきだったはずだ。
誰かが読めるようにしていたから、こうやって聡い人間に拾われる。こんなもの。読まれたとしったらどう感じるんだ?
クレアならきっと恥じ入るだろう。それも可愛くも、コミカルでもない。出来得る限り最大に近い屈辱に違いない。エリザベートが読んだ場合も、きっと同じだ。
だがジュスティーヌの言ったように、手紙は必要だった。ただし手紙は、マリアの手に渡った時点でその役割のほとんどを終えている。クレアの手紙がなければマリアは、エリザベートの元へ向かおうなどとは、思いもしなかったはずだ。
クレアが手紙の流出によって抱くであろう感情も、エリザベートが抱くであろうも感情も、マリアが今まさに感じているそれも、全ては手紙に嘘がないことが原因だった。
こんな手紙を書くのが悪い。こんなものを書いていなくなったことに、怒りさえ覚える。けれどもマリアとしてはどうしても、こんなものを書いた人間が、なにも報われないままでいるのは、条理に反しているような気がしたのだ。クレアには報われて欲しかったのである。
そのためにマリア・ペローは、ジュスティーヌへ別れを告げて手紙を返し、一路、エリザベートの部屋へと向かった。
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エリザベートは、自室のベッドに寝転び、天蓋を見つめていた。微睡の中で抱いていたのは、安堵の感情だった。
クレアが結局、自分の下から離れていった。それはエリザベートが父の元を訪れた際にやろうとしていたことを補強できるはずのものだった。
遡行前と同じ。アナ・デ・スタインフェルトのパーティで見せたあの涙や言葉は、嘘だったか、本当だとしても、信じるほどのものではなかったか。強く、積極性のある感情は、リスキーな選択をさせる。エリザベートはそう考えた。何者かに身をゆだねず、自分だけの根を持つことが、侯爵令嬢として生き抜くうえで重要になってくるのだと……。
マリアに助けてもらってから揺らいでいた信念を、クレアを毀損することで立て直そうとしている。いつもの癇癪とは遠い心地で、それでも残っているわだかまりは、眠りさえすれば取り除けるはずだ。
「これでいい。もう心を乱されるのは嫌だし、期待するのも疲れたし、なにかやるのも嫌になる……」
目を瞑って耳を塞ぎ、布団を頭まであげる。扉の外に何者かが立つ気配がした。
エリザベートは目をぱちりと開けた。
体を持ち上げる。
「誰?」
「私です」
扉の向こうで彼女の騎士が声を上げた。
こんな夜に、どんな訳で。一気に眼が冴えたエリザベートは、ぶつぶつと文句を言いながらカンテラに火をつける。歩いて扉を開くと、やけに落ち着いた様子のマリアが立っていた。
「何の用? こんな時間に。もう寝ようとしていたところだったのに」
「そんなまさか。眠れなかったでしょう」
図星を突かれて、エリザベートはぐ、と喉を鳴らした。微睡の中にいても意識が遠のこうとしても、どうしても最後まで行くことができなかったのだ。
「お時間がおありでしたら、私に一晩、付き合っては貰えませんか?」
エリザベートは、マリアの顔をじっと見た。心がざわついて仕方がなかった。エリザベートはマリアから眼を逸らし、こう考えた。
(従う理由はない。従う理由はまったくないけれど、安眠するためには、もう少し疲れなければいけないか)
クレアのこと、遺跡でのこと、父とのこと、エリザベートの昔からのこと。一連の流れを完全に断ち切るためには、しょうがない。
エリザベートはこれで最後にしようと決めた。なにかに付き合って、心を乱されるのはもううんざりなのだ。
「いいわ。付き合ってあげる。なにするつもり?」
マリアがわざとらしく丁寧に笑う。後ろにある企てを感じ取り、エリザベートは逃げ腰になった。不安を覚える。これは間違いではなかったか。この女は、自分を害するつもりではないのか。
今のエリザベートは、そこまで疑ってかかるほど疑り深い。
それを見抜いてか知らずか、マリアは笑みを少し自然にすると、後ろ手に鍵を出してきた。小さな鍵。見覚えがあった。
「それ、オルガンのある部屋の……」
「ええ。深夜に連弾でも一つ、どうでしょう。風流ではありませんか?」
エリザベートは早くも後悔し始めていた。




