第64話 ミスアンダーストゥッド:誤解しないで 前
翌日の昼まで寝て、馬車で王都に帰ろう。エリザベートは眠りばな、そのように頭の中で計画したが、そうはいかなかった。エリザベートの神経は幼いころから侯爵令嬢として鍛えられてきたために昼まで寝過ごすということはなく、むしろ普段よりも少し早い時間に起きてしまった。
また朝になって彼女は、重要な目的を思い出した。
「お父さまのところに行く」
エリザベートはホテルのレストランで朝餉をとりながら、自分の騎士とメードに向けてそう宣言した。
「マジですか」と騎士が返した。
そんな状態で? と言いたげに。
昨夜の疲労は当然のように抜けきっておらず、エリザベートはパンを口に運ぶ仕草もおぼつかない。マリアは流石に騎士だけあって表面上を取り繕うだけの体力は残していたが、痛めた背中を庇って少し妙な歩き方になっている。コンスタンスは元気がありあまっていたが、他の二人に元気がないので身体だけそれに合わせてあまり動かず、鳥のように首だけきょろきょろと忙しない。
早朝のレストランは大抵閑静なものだが、彼女たちは閑静というではなかった。動きが鈍重でなにかを行動に移すたび体のどこかからきしむ音がするようであった。
エリザベートもそこに何も思うところがないわけではなかったが、元々父に会いに来たという名目でここにいるわけで、それを果たさなければ後々面倒な事態を引き起こすかもしれない。
それに昨夜の一件。あれがもう父の耳に入っているのか、入っているとすればどのように処理されるのか、それは絶対に知っておきたかった。
見たところディミオンの街にまで異変は届いていないのか、少なくとも観光に来ている貴族たちの間で、昨夜メウネケスの遺跡であったことは語られていない。
だがしかし、父の監督下で起きた問題――あのあと”予言の民”たちとあの紙でできたゴーレムがどうなったかはわからないが、間違いなく発掘現場の警備兵は殺されているだろうし、遺跡のなかもかなり荒れているはずだ。それこそ大問題を引き起こす程度には、そうだろう。
だからエリザベートとしては、父の別宅に行くことは既定路線として、あとは父が帰ってくる時間と、こちらが行くときの装いについて準備をしておくのが、彼女の現在の使命だった。
「あんたは来なくていい。マリア」
エリザベートがフォークをサラダに刺しながら、そう言った。緑色野菜の表面に刃を突き立てるまではいいものの、それがきちんと刺さるまでに少し、持ち上げる気になるまでに少し、実際に持ち上げるまで少しかかった。
マリアはパンを千切る手を止め、エリザベートの顔を正面に据えた。
「ま、それがいいでしょうな。あのバトラーはどうしたって私を入れないでしょうし」
「それもまったくないと言うわけじゃないけど」と、ここでエリザベートはコンスタンスに眼をやった。これから話す情報を開示してよいものか迷ったようだ。「背中、痛むんでしょ。あんたは病院に行きなさい。それで診てもらったらここで休んでて。私の騎士なら万全でいて」
拒否するであろう、騎士の心情を読み取って、最後にそう付け加える。マリアはエリザベートが途中まで話した時点で、返事を決めていた様子だったが、それで言葉に詰まってしまう。癖かなにかなのか、こちらはエリザベートとは違う理由でコンスタンスの顔を一旦見た。
「わかりました……。ただ前はここの医院は教会がやってる慈善院に行ったもので。そこの連中にはあまり好かれていないんです。できればこの辺りの貴族向けにやってるお高く留まった医者がいいんですが」
「知らない。そんなの」
「ですよね」
あまりの一刀両断ぶりに騎士は苦笑いを零す。一足先に食事を終えると、コンスタンスの髪を撫で、「私が不在の間、お嬢さまをお願いしますね」と言って退出した。
「なにかあったんですか?」
全ての会話が終わったところで、ようやくコンスタンスはそう口を開いた。マリアは答える気力などないと思っていたのに、いざそう訊かれると話して見たくなっている自分に驚いた。
といっても、それは必ずしもポジティブな理由ではない。その証拠に、口には出さなかったが出てきたのは、かなり不適切な冗談だった。笑い飛ばしたいのか、笑いに包み込んで悪意をぶつけたいのか、彼女にはわからない。
マリアがホテルの受付で病院の場所を訊いてすぐ、そちらへ向かったため、馬車が到着するまでエリザベートはコンスタンスと二人、ホテルの部屋で過ごしていた。
一時間ほどで馬車は来た。マルカイツ家の馬車で、ここへ来たときと同じ御者、同じ馬だった。
エリザベートは父の別宅へ向かう途中、マリアへの一言について考えていた。
「私の騎士なら、万全でいて」
昨夜の一件でなにか感情に変化があったか、これまでであれば先ず出ない言葉だ。エリザベートはそんなことを言った自分に戸惑っていた。なぜだろう。こんな言葉が、必要になったのは。自分は以前、マリアが裏切るかどうかはわからない、と言ったとき、その考え方を肯定した。どれだけいい人間も赤ん坊の首を掻っ切ることがあると、そう返答して。
その価値観に変わりはない。エリザベートは今も、誰かが同じことを言えば、内心で肯定するだろう。だがあの言葉は、誰かを気遣うかのようなあの言葉は、その考えとは相いれない、余計な一言のように思えた。胸糞が悪い。複雑な問題に直面すると、いつも頭が熱を持ち始める。
「私はもしかしたら……少しは人を……信じているだろうか……」
いや、駄目だ。それ以上はいけない。エリザベートは想い直す。人にもたれるような人間であってはいけないのだ。根拠もなく、誰かを信用するなどと。エリザベートはずっと前からその考えを否定してきた。両親もまた、社交場では誰も信じてはいけない。自分の使用人にさえも隙を見せてはいけない。その隙を狙うものがどこかにいるのは、間違いのないことだからと、そう教えられてきた。
そして”悲惨な未来”から遡行してきたエリザベートからすれば、それは真実だ。人は裏切るもの。人は裏切られるもの。どちらかを選ぶなら、いつも後者でなければならない。
感情の揺れ動きを抑えるために、エリザベートは胸を強く圧迫しなければならなかった。そして馬車が一刻も早く父の別邸に辿り着き、父と会わなければならないと信じた。無駄で、余計で、邪悪で、邪魔で、無謀で、クソで、クソッタレで、有害なその考えが早く捨てられてしまうように祈り、そして自らの弱さを鞭打つ何者かを、頭のなかに創り出しながら。
馬車が予定通りについたとき、エリザベートはそれを啓示と捉えた。自分の正しさを補強する神の奇跡なのだと、柄にもないことを考えた。
「お嬢さま、今日はお二人ですか?」
入口までやってきたバトラーが皮肉を込めてそう言った。
「そうよ。そうすべきだったから」
エリザベートがそう言った。
これは間違いじゃない。そう言い聞かせていた。




