第62話 禁じられた部屋の中 後
「お前、お前、お前が……」
エリザベートは床に手をついたまま、言葉を吐き散らかした。感情も情緒もぐちゃぐちゃで、なにを言えばいいのかがわからない。適切な傷つける言葉、適切な相手をやり込める言葉。思いつきたいものがなにも思いつかず、ただ当惑にも似た意思だけが伝えられている。
「本当に時間がない。聞くべきことだけを聞け」
「お前。はーっ」エリザベートは深く息を吐いた。「お前、あんた、あんたはなぜ私を”過去”に飛ばしたの」
黒い影。手紙の魔術師は、エリザベートの言葉には答えず、部屋の中を見渡した。
「この部屋は――メウネケスが作った。禁書が外から見つからないようにするための部屋。だから”禁じられた”という。入っていい人間以外は入れない。入ることを”禁じられている”んだ。ここだから僕はこうして出てきた。ここならやつらに見つからず干渉できる。あの穴がなければずっといられた」
手紙の魔術師はマンティスが空けた穴を指して言った。
「質問に答えなさいよ」
黒い影がエリザベートを見る。表情もなにもない。だがその超然的な態度からは、エリザベートに対する煩わしさが感じられる。
「僕が君を遡行させたのは、ある目的のため――そうとだけ、言っておく。それは君にはある部分では、関係がない。君が訊こうとしているのはその関係がない部分なんだ。たまたま君だっただけで、君をそうしたいわけじゃなかった。でも後の理由は前にも伝えた。《《今までの行いを省み、悔い改めろ》》。今のところそれは、ほとんど達成されていない」
「あんたと話してると……めちゃくちゃ苛つく」
「よくそう言われるが、僕にはよくわからない。僕が言えることはつまり、質問が間違っているということ。君は僕についてなにか聞き出そうとしてるみたいだが、優先されるべきはそれじゃないはずだ。この状況についてだけ質問するんだ」
「この状況?」
エリザベートは独り言のようにつぶやく。
「あの連中、何者? 外の奴ら」
「あれは”予言の民”と呼ばれる連中だ」
「はあ? 予言の民? それ、あれでしょ? カルトでしょ? トリスタラムとかいう詩人が書いた妄想を本気になって信じてた。誘拐事件を起こして憲兵隊に壊滅させられてたはずよ」
「およそ三か月後だ。誘拐されたのはある子爵令嬢。確かにお前の考えている通り、やつらは大した力は持っていなかった。少なくとも外にいるあの生命体のような手合いはいなかった。それは正しい。だが母体は”予言の民”だ。トリスタラムの予言書を持っているのも事実」
「そんなことがどうして……」言ってから、気づく。「遡行か。私の遡行――あるいはあんたの。私は関わってないから、あんたが関わってる。まさかカオス理論でそうなったなんて言わないでしょう」
「半分は、当たっている」手紙の魔術師が言う。「物事は概ね冗長性を孕んでいる。だからほんの少しの変化が大きな変化を生むということは、まずない。変化が起きたのなら、それは”ほんの少し”の変化ではなかったということだ」
手紙の魔術師が続ける。
「予言の民に僕が関わっている。これは間違いだ。信じないかもしれないが、はじめから終わりまで僕はなにも関わっていない」
「でも、それじゃあ……そうか、私たち以外にも遡行したやつがいる。それは誰?」
「……言えない」
「どうして!」エリザベートが責めるように言う。「時間がないなら、余計な引き延ばしはやめなさいよ!」
「そうじゃない」手紙の魔術師が苦虫をかみつぶしたような声で言う。「僕は今、不正にこの時間に干渉している。その情報を開示すれば、状況に大きな揺らぎが出てしまう。君がこの時間を生きていることもそうだが、君には魔術の素養がないから、気づかれないだろう。でも僕は駄目なんだ。修正されてしまう。だから言うことが出来ない」
黒い影を相手に表情を読もうとしても仕方がないが、嘘をついているようには感じなかった。だからこそ、つけ込めるならここだと思った。
エリザベートは、試すようにその名を出した。
「アイリーン・ダルタニャン?」
「違う! それだけは違う……」
手紙の魔術師が声を荒げる。そしてすぐ、感情を乱されたことに気づいてか、声が小さくなった。
エリザベートが言う。
「そう。これで確信した。あんた、アイリーン・ダルタニャンのためにこんなことをやってんだ。アイリーン、アイリーン、アイリーン、アイリーン……。みんなしてあの女を助けたがる。本っ当に、忌々しい!」
エリザベートは顔を醜く歪めた。思い出しているのは在りし日の苦い記憶。自分が裏切られた。見限られた。屈辱を味わわされた。あの女によって!
「結局そうか。そういうこと。私があの女に嫌がらせをしないようにしたかったわけ? ふざけんな! 絶対に、あの女は許さない。なにを言われようとそれは変わらない。殺したきゃ殺せば? 私は絶対に、言うとおりにはならない」
エリザベートはそう宣言した。頭には完全に血が上っていた。
「以前、友人からこう言われた」手紙の魔術師は苦渋を込めて言った。「君は悪人じゃない。悪人というのは簡単になれるものではない。悪人はあらゆる不当さや理不尽から身を護る盾を持たない。心の平穏を持たない。目の前の泣いている子供を殺すような神経を持っていないといけないと。君はその区切りで言えば、悪人じゃない。でも君は、嫌な人間だ」
手紙の魔術師は続ける。
「君みたいな人間を助けなければならないなんて、本当に嫌気が差す」
「なに?」エリザベートは手紙の魔術師を睨みつけたまま、そう訊き返した。
「”分脳と辣腕”。あの騎士が持っていた本と同じタイトルの本をここで”探し求めるんだ”。そうすれば、ここから脱出できる可能性がある。今のままじゃ、二人そろって出るのは無理だ。見せないようにはしてるが……あの騎士は、怪我をしている」
「わかってる。そんなこと」
エリザベートが言う。
マリアの動きはどこも変ではなかった。でも無理しているのはわかった。無理させているというのも、理解している。
黒い影が息をのむ。ほんの少しの怒りを込めて、言う。
「お前は、それでなぜ……いや、いい。今はいい。お望み通り出てきたんだ。これ以上私を詮索するな。それから、アイリーンには、手出しをさせない。君がどうしても彼女を傷つけるというなら、その時は今回のようにはしない。君は僕が君を傷つけないと思っているようだが、それは間違っている」
その言葉を最後に、黒い影は消えた。
「……うるさいんだよ。いちいち」
エリザベートは手紙の魔術師の最後の言葉に対して、そう感想を漏らした。
私が誰にどんなことを思っていたって、そんなの私の勝手じゃないのかよ。私に間違っているというやつと私のなにが違うんだよ。
エリザベートは両手で頭を挟み、ぐりぐりと両面で締め付けた。頭の中が絞られ、余計な感情を追いやる。それでも呑み込めない気持ち悪さが脳髄から胃下垂にかけて累積しているのが、自分で分かった。
苛立ちを退けるために、この状況を進めたかった。
「マリア!」
エリザベートは自分の騎士の名を呼んだ。




