第56話 遺跡の侵入者たち 前‐1
やや血がでます。
今からほんの二分まえ、マリア・ペローは他の書架の存在をエリザベートより一足先に気が付いていた。エリザベートから指定された本を探す中で、どう探してもこの場にはない本があったからだ。
そこでこの遺跡の縮図を確認してみると、各階層に一つか二つ、書籍の納められた部屋があることがわかった。古代文字は読めないが、この空間と同じ表記の場所が複数あればそれぐらいのことは理解できる。なぜそんな七面倒なことをしようとしたかはわからないが、ともかくそういうことらしい。そしてここから丁度二つ階層を下がったところに、黒塗りで消された空間があることもわかった。その階だけに、図書室を表す表記がないことも。
「地図に黒塗り? ハン、いかにも魔術師らしい」
そう言って地図の黒い部分を指で撫でる。指に黒いものがついた。近くの本の背表紙に擦りつけたが、うまく取れなかった。
脇に抱えていた本を荷物入れに突っ込み、篝火の近くまで出て辺りを見渡す。エリザベートからあまり眼を離したくなかったが、死角にいるのか、姿は見えない。
マリアは胸に熱さを感じた。心情とは関係なく、物理的な熱だ。
「ム」と言って、首に引っかけられた鎖を引っ張って胸元からアミュレットを出した。彼女がかつてアルフレード王兄殿下から賜った品だ。”魔除けのアミュレット”と呼ばれているそれが、発熱しているようだった。
「なにが……うん? おい!」
視界の端にクーリフを見つけたマリアは彼を呼び止めようとした。だがクーリフはその声を無視して書架の陰に消えてしまう。追い縋るとそこにはぽっかりと穴が――いや、木製の大きな扉が開いていた。部屋の外は奇妙に広い空間が広がっている。廊下というよりは、広間だ。
「おいって!」
嫌な予感がする。自分の知らない”状況”が、自分を取り囲んでいる。それも首の周りにだ。こういう感覚を何度も味わったことがあった。そしてその全てが、悪い結果に繋がっている。
クーリフを追って扉を越えかけ――少しばかり躊躇した。エリザベートを置いていくことになるからだ。だが元々護衛の騎士よりも兵士に気質が近いマリアは、エリザベートを置いてその場を離れることよりも、胸騒ぎを優先した。それにこれだけ声を上げているなら、聞こえているだろうとも思っていた。
「勝手に動くな! おいったら!」
エリザベートが扉を越える。すると扉脇の壁に張り付いて隠れていた男が、マリアの額を斧でしたたかに強打しようとした。
マリアはすんでのところでしゃがんで斧の刃を避けた。思い切り斧を振り回したことでできた隙をつき、手甲のついた拳で脇腹をなぐり、怯んで体を曲げたところをもう一度、今度は目と頬の間を殴り抜いた。
マリアの抵抗に気が付いたクーリフが、振り返ってマリアに向かって突進した。すかさず剣の柄に手をかけるが、間に合いそうもない。相手がこちらの至近距離へ入る直前に、先にこちらが一歩、向こうの間合いに入り込み、頭突きを喰らわせた。クーリフの鼻が潰れる音がする。
そこへ背後から、先ほどの斧の男が、斧を振りかぶって、マリアの肩口の辺りへ曖昧に叩きつける。
「ああ! クソが!」
鎧があったために簡単に肉体までは届きようもないが、衝撃に押され、前によろめいた。これに好感触を得たか、もう一度斧が振り回される。だがマリアはこの切っ先を避け、短剣で男の喉を突いた。
ここでマリアはようやく、男が仮面をしていることを知った。木製で、見たこともない模様が描かれている。
「令嬢だ! 令嬢を捕まえろ!」
仲間が殺されたのを見たクーリフが叫ぶ。図書室に走って戻ろうとしたマリアの足に縋りつき、これを妨害しようとしたが、先に感づかれ、顎を蹴り抜かれた。
▽
このように、状況から一歩出遅れていたエリザベートに、サンディが襲い掛かろうとしていた。エリザベートは棒が自分の頭に衝突する直前、眼を瞑り、手を出したが、その手が棒を受け止めることはなかった。棒がエリザベートと十五センチの距離まで近づいたところで、エリザベートの耳のすぐ横を短剣が通過し、サンディの肩へ突き刺さった。
驚いて振り返ったエリザベートは、部屋の奥に肩を怒らせて走る自分の騎士の姿を見つけた。マリアは止まらなかった。エリザベートを押しのけ、短剣が刺さってもなお、傷口を抑えながら攻撃しようとするサンディを殴り倒した。
唇の裏が固い手甲と歯に挟まれ、ずたずたになった。衝撃でいくつかの歯が喉の方へ押し込まれ、すさまじい痛みでのたうち回る。
エリザベートが襲撃者を見下ろし、次いで、マリアの顔を見上げた。
「申し訳ありません」
「え?」
マリアの言葉が一瞬、理解できなかったエリザベートが、そう訊き返す。マリアは神妙な面持ちで、エリザベートにこう言った。
「あなたの言った通り。確かにもう少し信用できる相手を探すべきだった。まさか襲ってくるとは……」
「まったくだわ」と、エリザベート。やや余裕を取り戻している。「次はないからそのつもりでいて。そんなことより下に行くから。私が頼んだ本はどこ?」
「向こうの、部屋の外に……」
マリアの顔が強張る。天井のほうを見上げる。エリザベートもつられて天井を見上げるが、なにもない。そもそも暗くて見えない。
「なによ。なにが……」
言いかけたエリザベートの口をマリアは手でふさいだ。抵抗する彼女を強引に引っ張り、部屋の外へと続く扉のある、書架の裏まで連れていく。
エリザベートは手甲がなければきっとマリアの手を噛んでいた。書架の裏に連れ込まれたエリザベートは文句を言おうとしたが、マリアに制止された。口の前に指をたて、静かにするよう注意される。
「……聞こえてないんですか?」
「なにが?」
「なにがって……」
マリアが困ったように眉を曲げる。その時、マリアのアミュレットがまた熱くなった。今度は先ほどよりも強い。しかし取り出したときにはもう熱は引き、冷たくなっている。
「どうしたの?」とエリザベートが言いかける。そして、辺りの音が大きくなっていることに気づいた。同時に、入口のほうから複数の足音がしていることにも。
エリザベートは手に口をあてた。マリアはすでにエリザベートではなく、書棚越しに様子を窺っている。同じように書棚の隙間を覗いた。
はじめは、なにも見えなかった。呻き声をあげるサンディが地面に横たわっている以外は。しかし足場を踏みしめる音がずっと聞こえていた。その音はどんどん大きくなっていく、そしてそれに比例するように、エリザベートの心音もだんだん強くなっていった。それが隣のマリアにさえ聞こえそうになるほどになると、エリザベートはあまりに早い血のめぐりのために頭がくらくらしてきていた。
それが直ったのは、手が急に冷たいものに握りしめられたからだった。顔を上げると、マリアがこちらを見下ろしている。手の冷たさは、彼女の鎧の冷たさだ。
ほぼ同じタイミングで、十人近い賊が図書室へ入ってくる。全員が木製の仮面をつけていた。マリアが先ほど殺した賊と同じ仮面だ。
彼らは図書館に入ると、後ろから訪れた人物のために左右に道を開けた。暗がりから鎧の巨漢と、ローブ姿の女が現れる。なぜ女とわかったのかと言えば、口を開いたからだ。
エリザベートにもマリアにもよく聞こえた。鎧の巨漢とローブの女が話していた。
「静寂の魔術はすでに破られているようです」ローブの女は手に丸い透明の硝子を持っていた。
「確かか?」
「はい。他のシールが取れているかはわかりません。ですが……ここには魔力の乱れのようなものを感じます」
鎧の巨漢は床に横たわるサンディを見下ろした。彼の表情はここからでは見えないが、恐怖に歪んでいることだろう。この距離でも強い威圧感を憶える。
鎧の巨漢が言う。
「それはこの場所とは関係ない。ここに侵入した女が持っているもののせいだ。”魔除けのアミュレット”。これも回収するよう予言者から命令されている。探せ。だがその前に……やっておくことがある」
鎧の巨漢は後方の集団に向けて手を伸ばした。
「このゴミが」鎧の巨漢が言う。「待ち伏せして殺せと言っただろうが。せっかくこちらの構成員を貸したというのに……。無様に転がっているだけとはな」
集団から鎧の巨漢へ武器が手渡された。大きな、そして複数の装飾が絡みついたハンマーだった。というより、機構と言うべきか。
鎧の巨漢がハンマーを持つと、ハンマーの装飾が青白く光った。低い唸り声のようなものがした。それにかき消されるようにして、サンディの口からも音が漏れ出ていた。
眼を離せなかった。最悪の光景が現れるとわかっていても。
マリアがエリザベートの肩に手を置き、首を振る。
これ以上は見る必要はありません。
サンディの頭がハンマーに潰される音が響いた。
(なんだよ。もう!)
マリアは倒れたクーリフのほうを一瞥した。まだ起きてはいないようだ。誰に意見を求めたとしても、ここからいったん離れるべきだというだろう。遺跡の奥へ。だが脱出経路はここにしかない。そしてあの数を倒すのは苦労するはずだ。
いずれ戻ってくるとしても、ここは敵を迎え撃つのに向いていない。マリアはシミュレートした。
(エリザベートを連れてそろそろと部屋を出て、あの男を扉の前まで引きずっていく。扉を閉めて、その前に寄り掛からせる。そうすれば時間を稼げる)
なんの時間だ? とマリアは思った。体勢を立て直すどころか、体勢を作り出すところから始めなければ。
「行きましょう」
マリアが言った。
エリザベートが頷く。立ち上がろうとしたとき、肘が書棚にぶつかった。そして書棚の最上段で横に積まれていた本が、床に落下した。




