第51話 畦のない道などなく 前
「お姉さま、本当に行ってしまわれるのね」
出発の直前、エリザベートはジュスティーヌからそう言われた。非難がましく、少し悲しげでもあった。
「出発をもう少し遅らせると、行くタイミングを失ってしまうから」
エリザベートはそう返した。
よい姉なら、残ることも考えたのかもしれない。ジュスティーヌはピアノの発表機会に姉がいないことを悲しんでいるのだ。
それがわかっていながら、エリザベートはあえて妹を突き放すような言い方をした。ある意味では、それは性だった。もしくは性と意識しての行動か。いずれにせよエリザベートはすでに旅装。二人の背後には馬車が数台止められ、既にコンスタンスは中へ。マリア・ペローは自分の荷物を馬車に積んでいた。
どうしたって間に合うような段階ではないのだ。
「ごめんね」
エリザベートは軽く、謝罪を口にする。気持ちなどはこもっていない。しかし、ジュスティーヌはそれを聞くと、ふっと顔を綻ばせた。
「いいえ、お姉さま。私もいっしょにいければと思っただけだから。お父さまに宜しくね」
「そう」
エリザベートは足元のスーツケースを持ち上げ、馬車を振り返った。ドアの前にマリアが立っていた。
彼女はエリザベートが馬車に乗る手伝いをすると、ジュスティーヌに向けて会釈し、さらに後ろにいたクレアに向けて手を振った。クレアは小さくお辞儀を返した。
全員が乗り込むと、御者が馬を奮い立たせ、屋敷の前の道をゆっくりと走り出した。舗装された道が無くなったころ、馬車は加速し、父親、そして、彼が責任者を務める古代遺跡――これがエリザベートの本題だが――がある、ディミオンへと一路足を急いだ。
▽
「行ってしまったわ……」
馬車が見えなくなるまで軒先に立っていたジュスティーヌは、屋敷に戻って息を吐いた。
「せっかく新しい友人を紹介しようと思っていたのに……」
ジュスティーヌが残念そうに言う。手に持っていたのは今度の演奏会のプログラムらしい。彼女はその中の一つ、自分と同じピアノをひく人物の名前を親指の腹で撫でた。
「お嬢さま」
ジュスティーヌをクレアが呼んだ。
「そうね」と、ジュスティーヌが言う。「タイミングが悪かったと言えばそうなるのかしらね。本当に残念だわ。お姉さまがあなたを見送れないなんて」
クレアは口をつぐみ、なにかを堪えるように体をこわばらせた。
「明後日までかぁ。あなたがよければ、いつでも戻っていらっしゃいね。お母さまも言ってらしたけど、私もお母さまもあなたの仕事ぶりには文句をつけようもないんだから。それはきっと、お姉さまも一緒だったはずよ」
「……そうでしょうか」
「ええ。お茶を飲みましょ。そしたらピアノを聴いて欲しいから」
「はい。承りました」
▽
彼らを乗せた馬車は、王都から国境沿いの街、ディミオンまでを三日に分けて向かうことになっていた。一日目は途中の都市で休みを取り、二日目は別の街でまた休みを取る。そうして三日目の午後にディミオンに到着する。そんな予定だった。
「コンスタンス。もう少しだから我慢して」
三日目の工程も最後に近づく頃合いだった。悪路を馬車でゆられることに慣れていないのか、コンスタンスはこの道に入ってからずっとしかめ面をしていた。
一日目、二日目はまだ、王都から離れていなかったこともあり、途中休憩によった都市が大きかったこともあり、道はちゃんと舗装されていた。石造りで、それは王都よりは揺れるが、今よりはずっとマシだった。ひどくなったのは三日目からだ。二日目の立ち寄り先であるエルドレークは工業の街であり、貴族はほとんど住んでいない。移民も多く、治安も悪かった。ホテルは問題なかったが、道端に怪我で働けなくなった乞食が座り込み、市場へ出向くときは絶対に財布は払うとき一瞬だけ出すようにロビーで注意された。
エルドレークを出てしばらくして、石を運ぶ大きな荷車が横転しているのが見えた。マリアが御者に迂回するよう伝え、エリザベートたちに「あれは盗賊だ」と言った。
「あの街はたちが悪いんですよ。盗賊がいるのを知ってて隠してる。分け前を受け取ってるんでしょうね。ぶんどれそうなやつが来たらあそこで待って襲ってくるんです。殺しはしません。馬車も傷つけない。それをやったら憲兵が出張ってくる。だから迂回すればいいだけではあります」
「中途半端な連中なのね」
エリザベートがそういうと、何故かマリアは嬉しそうに笑った。
「ええ、その通りですね」
馬車のなかではすることもなく、互いの話をした。例えばコンスタンスはこれで貴族の娘なので、メードをやりながらもたまに家に帰る。どこかで開かれている社交場にドレスを着て行くことがあった。似合いもしないのに両親がエリザベートのメードであることをもっと宣伝するために、彼女と同じデザインのドレスを着させようとする、と文句を言っていた。確かに幼気な、言ってしまえばちんちくりんのコンスタンスがエリザベートと同じドレスを着れば、背伸びしている子供のように見えてしまい、ますます子供っぽく映るだろう。それはそれで釣れる男もいるものだが、エリザベートもコンスタンスも、そしてマリアも経験上、それでよって来るようなやつにロクな男はいないというのは、共通の見解だった。
例えば、マリアの前職についても話をした。
彼女は戦争で功績を上げた後、どこかの騎士団には入らずにいた。受け入れ先がなかったという方が正しいかもしれない。こちらも貴族の娘なので金にはさして困っていないが、無職でいれば親がうるさい。エリザベートが彼女を探し出すまでどこにいたのかと尋ねると、マリアはこう言った。
「ずっと国境沿いにいたんです。まあやっぱり? 侵略? ええ。侵略されたわけですから、国境警備の人員はいつでも募集していまして。給与もいいし、実際に誰かが攻めてくることもなかったので、楽な仕事でした」
「じゃあ、ディミオンにいたの?」
「ディミオンにも少しの間いましたよ。あちこち転々としていたので、なんとも印象に残っていることはあまりありませんが。国境沿いなので向こうの文化が少し混ざっていると言いますか、王都にはあまりない食事が多かったですね」
「そうなの? 例えば?」
「野兎の果実煮とか。匂いと肉の状態の悪さ果物で誤魔化しているんですが、案外いけるんです」
例えば他にはこんな話もした。
コンスタンスが学院に行くかどうかという話だ。彼女の貴族階級を考えれば、学院に通うには学費を抑えるために優秀な成績を納めなければならない。
「学院ですか」と、コンスタンスは言った。「でもお嬢さまがお通いになられるなら、私も同行しますから、行くのと変わりないですよ」
「でもメードとして行くでしょ。それでいいの? 絶対に平民と間違われて嫌なめにあうよ」
「考えたことありませんでした」
「……そうだろうな」と、マリアが言った。
会話が途切れると、不思議と誰かがまた新しい話題を持ち出して、また会話が始まった。そういうことを二日以上続けていた。深い話題などは少しもなかった。
「実際、あんたってどれぐらい強いの? 例えばマーヴィン・トゥーランドットには勝てる?」
「無理でしょうね」エリザベートがなにか言う前に、マリアは指をたてて続けた。「でも逃げるだけなら大丈夫です。それに百回ぐらいやれば十五回ぐらいは勝ちを拾えることもあると思いますよ」
「は、なにそれ」
エリザベートは鼻で笑った。コンスタンスはふんふんと鼻を鳴らして、その後しばらく続いたマリアの武勇伝を聞いていた。
しかし、そんな会話が続いたのも、ついさっきまでの話だ。いよいよディミオンが近づいてくると、三人ともぱたりと話すのをやめ、悪路に身をまかせるばかりになった。その中でコンスタンスは尻が痛いのかしょっちゅう立ったり座ったりを繰り返し、明らかに機嫌が悪くなってきていた。
エリザベートも文句はいいたいが、こういうことには慣れている。マリアも同じだ。戦場帰りなのを考えればエリザベートと比べても慣れているだろう。だがコンスタンスは違う。生まれてこの方、王都を出たことすらないのだ。
「旅行が楽しさだけじゃないってわかってよかったじゃないか」と、マリアが言ったが、睨まれるだけだった。コンスタンスがマリアを睨むのはかなり珍しい。
人を睨むことすら稀か。
一時は、マリアが半分本気で自分の膝に座るかと提案するぐらいにコンスタンスは限界に近くなっていた。だが、ディミオンの街のシンボルである灯台が木々の向こうに見えてくると、道の状態も良くなり、それと同時にコンスタンスの機嫌も悪くなくなっていった。
エリザベートは一人で安堵していた。メードを自分の膝に座らせた騎士が正面に座っている状態に耐えられる自信がなかったからだった。
こうして、およそ六十時間に及ぶ旅路は終わりをつげ、一同はディミオンの街に降り立った。
個人的な癒し回でした。




