第47話 デェトのお時間 後
シャルルとエリザベートの散歩は、恐らく誰もが思うよりもずっと、静かなものだった。丘はマルカイツ邸の敷地を少し出たところにあり、歩いて十五分ほどかかった。
低い丘陵の半ばに窪みのような空間があり、大きな楢ノ木の屋根を借り受けて、何者かがくつろげるように、椅子とテーブルが置かれていた。
「これ以上遠くには行かない方がいいでしょうね」
シャルルが言った。
椅子のうえに落ちていた枯れ葉をさっとどかし、ハンカチを載せて、エリザベートに笑いかけた。エリザベートも同じように笑い返し、ハンカチの載った椅子に腰を下ろす。
「さて。ふう。ここはいいところですね。風が快い。日光もこの時期は優しいものです。目で見てもあまり痛くない」
「ええ。ここにはよく妹と来ますの。ずっと昔にあの木にナイフで傷をつけて、叱られたことを憶えていますわ」
「うん。そう言っていたね」
シャルルが懐かしさに顔を綻ばせる。
「さっきはきちんと話せなかったから。君の話を聞かせて欲しいな。ここ一か月、どうしていたんだい? 熱を出したとは、聞いていたけれど。その様子だと問題はないんだろう?」
「はい。一日寝たら直ってしまいましたから」
そしてエリザベートはここ一か月、家庭教師のせいでずっと忙しかったことを伝えた。そのせいで騎士を探すのも遅れて、ようやくマリア・ペローを見つけ出したのだということも。コンスタンスと言った観劇や、アナ・デ・スタインフェルトの催しに出かけたこと。そこまでは全て本当の事だった。
「うっかり、メードが割った花瓶を踏んで足に怪我をしてしまいましたの。もう治りましたが、数日間は不便でした」
そして、いくらかは嘘だった。足の怪我、病気の事、アナ・デ・スタインフェルトの催しが楽しかったということ。クレアではなくコンスタンスがお付きのメードになっていること。
エリザベートは嘘を嘘としてではなく、頭の中で嘘を本当にして話していた。彼女のサーフェスはその嘘を思い込むことが出来ていた。
「うん、うん、なるほど。かなり密度の濃い一か月だったみたいだね」
シャルル・フュルスト・ロマーニアンは婚約者の嘘にも真実にも同じような相槌で返した。
エリザベートは嘘を言いながら、なんの罪悪感も抱いていなかった。言って損することは言わなくてもいい。母からもそう訊かされているから、作り話は得意なのだ。ただほんの少し、それがバレることを望んでもいた。
シャルルはそれについてなにも言わなかった。
「君はいつまでも努力家だね。とてもいいことだ。でもよかったら、今回みたいな決め事でなく、プライベートでも僕と会って欲しいな」
「それは、もちろんですわ! シャルル様が望むなら、いくらだって!」
「ありがとう。一か月忙しかったみたいだし、その感じだと学院の校舎を見学していないだろう? 入学前に行けたらと思うんだ。どうかな」
「断るわけないじゃありませんか! 行きます!」
「そう? 忙しくはない?」
「そんなわけないじゃないですか! 私はいつでもシャルル様が一番ですから!」
エリザベートが食い気味に返事をする。
エリザベートはこのとき、はじめて遡行したことを喜んでいた。”遡行前”の記憶では、こんな風に誘ってもらったことはなかった。学院の校舎を見たのは入学した後で、自分から誘ってシャルルと校舎を練り歩いたのだ。誰にもつばをつけられないために。
「そっか。よかった」
と、シャルル。
このときのエリザベートは、久しぶりに絶好調だった。このままどこまでもテンションをぶち上げられそうな気分だった。けれども次に発されたシャルル王子の言葉のせいで、すべて逆転してしまう。
「それじゃあでも、どうして手紙をくれなかったのかな」
「え?」
エリザベートの口がひくつく。頭が真っ白になり、意識が記憶のなかに入り込んでいく。そして自分が”遡行”してから一か月の間、ずっと犯していた過ちに気が付く。
「一か月、それまでは毎日のように届いていたから、不思議になって。負担になっていたなら、ごめん。少し意地の悪い言い方をしてしまったかもしれない。でも楽しみにしていたから」
エリザベートは顔をふせ、口元を手で覆った。動揺を隠そうとするのに必死で、それが失敗していることを認められなかった。
手紙、手紙、手紙!
そんなもの忘れていただなんて!
(いつもいつもいつも、シャルル王子への愛を綴ることを忘れず、手紙を書いていた。入学する直前までは。会えないときはずっと。遡行してから私は怖がっていたんだ。そのせいだ! こんなことってない!)
「エリザ、大丈夫?」
シャルルがエリザベートに駆け寄る。質問はふとしたものではなく意図的だったが、ここまで劇的な効果を引き出すとは考えていなかったらしい。心配そうに歪められた顔は、本当のものだった。
エリザベートは世界が真っ暗になった思いがした。その場に溶けてなくなってしまいそうな気分だ。手紙の魔術師が見せた悪夢のなかに、今もいるようだった。真っ暗な場所で、無数の黒い影に襲われる。自分はうずくまってそれを受けているしかない。エリザベートは吐きそうだった。それを止めているのは、彼女の意識ではなく、肉体にこびりついた品性だった。
「ごめん、エリザ。君を動揺させるつもりはなかったんだ。忙しかったといっていたのにね。僕が悪かったよ」
「……いいえ」エリザベートはどうにか言葉を口に出す。「そんなこと。ありませんわ。わたくしがシャルル様への手紙を出せなかっただなんて、ショックで……! 少し休めば、治りますから」
「うん」
「ごめんなさい。シャルル様。手紙は出したんです。でも届かなかったんです。手紙の中身は手紙を当分出せないかもという内容で……そんな内容で手紙が返ってくると思わなかったから、遅れていないだなんて気づかなくて……」
エリザベートはつらつらとそんな言葉を並び立てた。失敗を取り返そうと必死だったためか、滅茶苦茶なことを言っていてもやめられなかった。
シャルルは椅子にエリザベートを座りなおさせた。彼女の負担にならないよう、頭に直接は触れず、しかし彼女が落ちたりしないよう、見張っていた。
エリザベートの頭では、次々と物事がスキップされていった。シャルル王子はじっと自分の近くにいてくれている。従者たちが湖に向かう時刻を過ぎても。エリザベートの顔色が少し良くなったところで、シャルルはエリザベートを背中に担ぎ、丘を降りた。
彼女の傍から離れないために、屋敷に一度戻ることはせず、直接湖まで行った。エリザベートを離したのは、彼女の騎士とメードが彼女を受け取ったときだった。それまではずっと、背中に背負っていた。
シャルルは「大丈夫だから」と繰り返していた。
湖でまた少し休んで、屋敷に戻った。エリザベートが人前に出られるようになるまでまって、そうすると時間は日が傾いたころまで動いていた。
クリスタルはシャルルたちに夕餉をとるよう誘ったが、二人はそれを断った。エドマンドはコンスタンスと話せなかったことを残念がっていた。シャルルたちの見送りには、ドレスから部屋着に着替えたエリザベートも同席していた。
彼女の顔色はずいぶんよくなっていた。昼間に倒れたとは思えないぐらいには。
「今日は失礼をいたしました。シャルル様。急に気分が悪くなってしまって……」
エリザベートが言う。シャルルは余計なことは言わない。
「いいんだ。でも出来れば、学院をいっしょにまわれるといいね。時間が調整出来たら、僕から手紙を送ろう」
「わたくしも手紙を書きますわ。これまで書けなかったぶん、うんと長く」
「楽しみにしてるよ」
バトラーがシャルル王子に馬車の準備ができたことを告げ、シャルルが了解した。クリスタルへ丁寧にあいさつをし、ジュスティーヌにも簡単なあいさつの言葉を告げ、エリザベートにも再度、改めて別れの言葉を贈った。
馬車まではクレアが連れ立って歩いた。荷物を持って欲しいと頼まれたからだ。軽いスーツケースのようなものだった。シャルルは馬車からそれを受け取る瞬間、クレアの手を優しく包んだ。
「殿下! なにを!?」
エドマンドが妙な勘違いをして、驚いた声を出す。
「クレア。あの騎士にも言っておいて欲しい。僕はずっと見ていられない。多分、きなくさいことがこの国で起こっている。だから君たちがエリザを見ていてくれ。頼めるかな」
クレアは返事に窮した。それを承諾する資格が自分にあるのかと、またも問いかけて。
シャルルはクレアがなにか言う前に手を離した。「よろしくね」と言って。
後に残されたクレアは、シャルルが掴んでいた手を、もう片方の手で握りしめた。涙が零れそうなのを堪えていた。
▽
馬車のなかで、エドマンドはエリザベートになにを言ったのかと訊いた。彼の中ではもう巨大な図式が出来ているらしい。
シャルルはエドマンドの陰謀論じみた説をやんわり否定した。
「なにか……言えないことがあるのは、確か。いや、そうかもしれない。それが御父上と関係あるかは別として、僕は決めたよ。グザヴィエ氏をもう少し深堀しよう。何か出てくるかもしれない」
「そうなると、地下の遺跡からですか?」
「ううん、違うよエドマンド。もっと前から。戦争より前からだ」
そしてこう続けた。
「鬼が出るか蛇が出るか。それとも枯れ尾花に終わるか……」
馬車はときおり小さく揺れながら、王城ロマーニアンに向けて走行した。
▽
クレアはマリアになにも言わなかった。
けれどもマリア・ペローは聡明で遠慮がなかった。彼女は夜にエリザベートが母親の部屋に呼ばれたことに気が付いていた。出てきたエリザベートは、いつもの不遜な顔に戻っていた。
廊下に立っていたマリアのすがたを認めると、吐き捨てるように「あんたいたの」と言った。
「ええ。いましたよ」
「明日、私が起きてこなかったら起こしに来て。これから手紙を書くの。シャルル様によ。早く中身を考えなきゃ」
「少し前に訊いたんですが……」マリアがそう切り出す。「オブライエンという騎士をご存じですか?」
「殺した。そいつ」
「いや、殺してはないでしょう」
「殺したの。間違いない。あんたも余計なこと訊くなら、そうしてやる」
「この家には余計なことが多いみたいですね」
「かもね。おやすみ」
「おやすみなさい」
マリアはエリザベートがすれ違い、廊下の奥に消えるのを見送ってから、一人頭を抱えた。
「なにをやってるんだか……なにもわかってないのに手札を切った。もっといいタイミングがあったはずなのに」
はぐらかされもしなかった。正面から拒否された形だ。今この状態で食い下がってもなにもわからなかっただろう。後先考えずクビにされたかも。
「私はダメだな。得意じゃない。阿保らしい。いや、阿保らしくはない。でも今は寝るしかないかもな。果報は寝て待てと言うのだし」
マリアはそう独り言ちて、部屋に引きあげた。
ここは意外にさっぱりと終わった。次から二章最後のシークエンスです。




