第46話 デェトのお時間 中
使用人回
言った通り午後になると、エリザベートとシャルルは使用人たちの追随を断って、二人きりでマルカイツ邸近くの丘まで出かけた。湖にはまだ霧が少し残っていたため、丘で過ごしてから、湖近くでそれぞれの騎士とお付きのメード/バトラーと合流する手はずになっていた。
二人で過ごすと言っても暗くなる前には戻ってくる予定だ。湖でも過ごすことを考えれば、長くて二時間と言ったところだろう。湖に向かうのも、その時間に近くなってからでよい。それまで使用人たちは、エリザベートとシャルルのために用意された部屋でくつろいでよいと、主人から言われていた。
そのため、三人は部屋から動くに動けないでいた。お互いに、互いについて思うところはあったもののはっきりとした会話もなく、主人たちの残していった菓子にも手をつけていなかった。
ソファには誰も座っていなかった。
クレア・ハーストは扉傍の壁にかけられた、印象派の絵の前に立っていた。エドマンド・リーヴァーは王子がいたときと変わらずソファの後ろを陣取り、動いていたのはマリア・ペローだけだった。
王子のバトラーであるヘンリックは、なにか用でもあるのかその場にはいない。マリア・ペローは火を用いた原始的なコンロで湯が沸くのを待ち、カップに紅茶を注いでいた。
「さっきの言葉……あんたに言ったわけじゃないと思うよ」
マリア・ペローが言った。クレアは彼女に視線を投げかけた。
「あんたに言ったんだ」
マリアはそう続けた。この場合の前半の”あんた”とはクレアのことを指し、後半はエドマンドのことを指していた。
「いきなりなんだ」
指摘されたエドマンドはやや怒ったような声を上げた。最低限、笑いに出来る程度の怒りだ。少なくともマリアにはそうだった。
「事実だろ」
なんてことのないように返すマリア。
エドマンドは返事を窮する。彼自身そう思っていたからだ。
「それはそうなのかもしれませんが」代わりに言葉を返したのはクレアだ。「私自身、恥じ入るべきなのです。あんなふうに理性を失うべきじゃなかった」
「そんな大げさなものかね」
「そうですよ!」
エドマンドが必要以上の大きな声を出し、クレアの言葉を否定する。そして意外なことに、マリアの言葉を肯定している。彼ははじめからマリアに対して否定的な目線を送っていたのだ。
「あなたはなにも悪くありません! ハースト嬢……」
「嬢て」
マリアが野暮なツッコミを入れる。それで正気に戻ったのかエドマンドは咳払いをして、さっきまでいた場所よりさらに部屋の奥へ定位置を写した。少し気おされていたクレアは、戸惑いながらも「ありがとうございます。リーヴァー様」と返した。
「そんな。エドマンドでけっこうですよ。お互いに主人が婚約者同士なのだし……」
「そんなことはどうだっていいんだよ」マリアが口を挟む。「面倒な会話しかしないんだから。私は訊きたいことがあるんだよ」
「どうでもいいと言うことはないだろう。だいたいなぜ――」
もういいからとばかりにマリアが手を振ってエドマンドの言葉を追い払う。
「クレア」
マリアが紅茶をテーブルの上に置いた。湯気のたった紅茶が、二つ。
クレアは紅茶の煙を見て、マリアの顔を見た。そして諦めたように息を吐くと、ソファに腰を下ろした。
「なんです。言っておきますが、答えられることと答えられないことがありますよ」
エドマンドがクレアの隣に腰を下ろそうとする。
「おい。お前はそっちだ。窓の隅。よく見ろお茶がないだろ。淹れとくだけ淹れといてやったから、どっか行っててくれ」
「リーヴァー様。申し訳ありませんが、席を外していただけないでしょうか」
「え? ああ、わかりました。これは失礼を……」
エドマンドが立ち上がる。カーテンの傍まで行ったことを確認してから、マリアがぐっとクレアに顔を近づけた。
「さっきも訊いたけど、あれ普通なの? まるでハーレクインのヒロインだ」
クレアがソファに体を沈めてマリアから離れる。
「あなたがハーレクイン・ロマンスを読んだことがないのはわかりました。でもその言葉は絶対にお嬢さまには言わないでください」
「言わないよ。言わないさ。でも言わんとしてることはわかるだろう」
マリアが言っているのは、エリザベートの態度だ。媚びたようなあの態度。
「なにかに憑りつかれてるようにさえ見えるぞ」
「先ほども言った通り、お嬢さまはいつもシャルル様の前ではああです。少し……少し不器用なのかもしれませんが、ああやって接しています」
「本当に?」と、そう言ったところでマリアが言葉に詰まる。クレアがそうしたように不器用さを理由に語られれば、そこに衒学的な言葉を語る余地はなくなってしまう。エリザベートがどうしてあんな態度をとっているかわからないし、クレアの説明が完全に正しいとは思っていないが、完全な否定もできない。この屋敷で過ごしたのはたった三日だが、それはすでに知っている。
「なんとも」と、マリア。「いや、なんとも」そう繰り返す。息を吐き、紅茶を一口飲んだ。
クレアはカップを両手で持ち、表面の湯気を吹いて飛ばした。
「もちろん、あなたが言いたいことはわかります。貴女がなにも納得していないことも。でもそれについて私がさもわかったかのように話すのは……違うと、思うのです」
クレアはカップを置いた。
「私はお嬢さまのことを、わかってなどいませんから……」
「でもあれは変だろ」
マリアが言う。
「なにが変ですか?」
クレアが返す。
「なにが? いや、なにがというか……ハア。黙らせるのが上手いよな。あんたは。でもシリアスな話なんだよ。今はさ。その……だから……らしくない。そうだろう」
「そうかもしれません」
「おお」
「でも、そうじゃないかもしれません。先ほども言った通り、それは私が勝手に決めていいことではない。仮にそれを私が完全に信じて、指摘したとしても。そうしてもあの方は心を動かすほど私たちを……信用していない」
クレアがそう言って、目を伏せる。
この時、マリア・ペローは自分がどんな顔をしているかわからなかった。辛いのか苦しいのか、笑ってしまっているのか、何の表情もなかったのか。ともかく正気に戻った時には彼女はため息を漏らし、自分もクレアと同じように体をソファに鎮めるしかなかった。
「わかった。もうこの話はやめにしよう。暗くなって仕方がない。もう一つ訊きたいことがあったんだ。私が騎士になるまでどうしてお嬢さまは騎士を決められなかったんだ?」
「……それは、一年前に騎士候補だった男がお嬢さまを裏切ったからです。もういいですか? これ以上はなにも話したくない」
マリアは紅茶を一口飲んだ。少し温くなっていたが、まだ十分に香りは残っていた。淹れる技術があったからだ。マリアはそれについて話した。長々と。
二人はリフレッシュして、世間話をするフェーズに入っていた。その間ずっとエドマンドはひとりで紅茶を飲んでいた。
「私は家で孤立しがちでね。使用人からも冷遇されてたんだ。それで自然と紅茶を自分で淹れるようになった。私を特に嫌っていた料理長がいて、そいつにしつこく絡んで教えを乞うたんだ。嫌がらせもかねてね。二年もしたら、こんなにうまくなっていた」
「確かに、美味しいです。私よりもいい」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」マリアが言う。「……ところで、あの騎士となにかあったのか? 態度からするとあんたに惚れてるように見える」
「まさか。それは違いますよ」
と、クレア。
「あの人が私をちらちらと見るのは私に訊きたいことがあるからです」
エドマンドのほうを向いたとき、ちょうど視線がかち合ったのか、向こうが大きく肩を跳ねさせた。
「なにを?」
「居場所です。あの子の――」
その時、部屋をなにものかがノックした。こちらが返事する前にノブをまわして入ってきた。
コンスタンス・ジュード。エリザベートの本来のお付きのメードだ。今日のお付きからは外されて、雑務を任せられていたはずだった。
「おや、コンスタンス。どうかしましたか?」
マリアが丁寧に質問する。これが彼女なりの甘やかしらしい。
コンスタンスはメード長からお菓子の台を回収してくるよう言われたのだと説明し、台を引っ張って部屋から出て行った。その背中を見送り、席に座りなおす。
そのときにエドマンドがコンスタンスへ視線をじっと送っていることに気づく。
「あの子です。彼が好きなのは。以前どこかのパーティで見かけて以来ぞっこんらしくて」
「ああ? なに、そうなの」
マリアが素っ頓狂な声をあげた。まったく思いもよらなかった。
クレアは紅茶をまた一口飲んだ。
「よければもう、そのポッドも持って行ってしまいましょう。いいですか?」
クレアは立ち上がり、ポッドとカップをひとまとめにする。マリアからもエドマンドからも受け取り、コンスタンスの後を追って部屋から消える。
その後は思い思いの動きをして、王子とエリザベートが湖に到着する少し前までの時間を過ごした。
マリア・ペローはさっきまで話していたことを頭の中でずっと反芻していた。クレアは雑務をこなし、エドマンドはようやくソファに座ることが出来た。
時間が来ると三人はまた集まって、揃って湖のほうへ歩いて行った。




