第44話 恋する少女、夢見る乙女、もしくは盲目のいとし子
一方でマルカイツ家の屋敷は、朝から嫌な空気がピン、と張りつめていた。より正確に言うのであれば、昨日の夜からだ。
屋敷の長女の、久しぶりの逢瀬。
相手はこの国の王子。
入って日の浅い人間はもちろん、長年仕えている者ですら、みんなはらはらして状況を見守っている。とはいえ、内情は様々だ。
屋敷の奥方であるクリスタル、件の長女エリザベート。使用人に厳しいこの二人の不興を買わないよう、祈りながら掃除をする新人。誰かが通るたびに飛び出そうになる心臓をおさながらいつも通りにしようと考える中堅の使用人たち。ベテランになってくると、そのあたりの心配よりも今日のこれが上手くいくかどうかそちらのほうが第一にやってくるようになる。なにしろここ一か月のエリザベートの狂騒ぶりは、今までにないものだから。
その中でそこそこ平素にやれていたのは、この二人。この日限定でまたお付きのメードとなったクレア・ハーストと、新しいお付きの騎士であるマリア・ペローだろう。
例えば、クレアはこうしたことに慣れている。今まで何度も直接接待をしたことがあるから、対面しても緊張しない。エリザベートについても心配はしていない。シャルル王子は寛大なお方だし、エリザベートの人となりを見てきてもいる。どちらかといえば、マリア・ペローのほうを不安に感じているぐらいだった。
マリア・ペローもまた、こういった場面で緊張する手合いではない。アルフレード王兄殿下から褒章を賜った際も、緊張はしなかった。ただ屋敷の目まぐるしい動き用や張りつめたものを感じ取って、若干神経質になっている。
二人とも、それが表に出やすいほうではない。二人ともエリザベートと王子との席の近くで一日中張り付いている予定だから、朝からあまり忙しくはしていなかった。
そして、エリザベート本人。彼女は、不思議なほどのポーカーフェイスだ。いつもずっとわかりやすい人間というわけではないが、感じ取れないとか解釈が難しいとかではなく、まったく感情がないように見える。
クレア・ハーストはエリザベートの髪を整える最後の役目を担い、マリア・ペローは部屋の端で立ってそれを眺めていた。
クレアはエリザベートに「今日は、なにをお話になりますか? 久しぶりのことですから、きっと話すことがお互いにたくさんあります」と話しかけた。
エリザベートはなにも言わない。まるで無視だ。しかしクレアは気にしていない。続けてエリザベートに話しかける。
「とても素敵です。お嬢さま。髪も、ドレスも。とても美しいです。きっと夢中になります」
エリザベートはやはりなにも言わない。
マリアは二人を遠巻きに眺めている。
ここにきてまだ三日目と日が浅いどころではないが、これが主人の見たことのない姿だということはわかる。
三言目。クレアが再度、エリザベートに何事かを話しかけた。すると、微動だにしていなかったエリザベートが窓の方に眼を向けた。
「もうすぐ……時間ですわね」
クレアの言ったことはよく聞こえなかったが、これはその言葉に対する返答ではないだろう。その証拠に、立ち上がったエリザベートの後ろに立つクレアは少し俯いて、黙っていた。
「あ、立ったのか」
マリアは呟き、壁から背を離した。エリザベートとすれ違い、クレアと並び立つ。
「クレア。私の髪はどう? 奇麗?」
マリアがクレアに話しかけた。クレアは軽くマリアを睨みつけた。マリアは普段、髪は下に梳くだけだが、今日は軽く纏められ、普段は見えていない耳が出ていた。
「ええ。メードが努力しましたから。絶対に崩したりしないでくださいね。それから、その軟派な態度もやめて」
「ははん、もちろんですとも」
「ははんもやめて」
「ええ」
マリアが頷く。それを見て、クレアはわざとらしいバカ丁寧な仕草で前を向いて歩くよう促す。
一人と、二人。合計三人。エリザベートたちはそんな様相で廊下を歩いた。
エリザベートは金糸を全身に這わせた、赤を基調としたドレスに身を纏い、ブロンドの髪をウェーブさせていた。クリスタルが娘のために選んだドレスだ。そんなものを着ているせいでエリザベートはひどくナーバスなのではないかと、マリアは密かに思っている。
「お嬢さまはいつもこうです」
と、クレア。
「殿下と会われる前は、いつも。でも会ったときは普通に話しますよ」
「なるほど」
マリアが頷く。
「あなたがなにを考えているのか、わかります。でも言う必要はありませんから。あなたはお付きの騎士。対等では決してないのです。それをお忘れなきよう」
「藪をつついたりはしませんよ。痛い目にあったことは何度もある」
「それじゃ駄目じゃないですか……」
▽
メードと騎士が背後で話している間、もしくはずっと前から、エリザベートは臨界点の縁を歩いていた。
失敗は許されない。それは何重の意味でも。
心の中で深呼吸をする。余裕のなさを気取られてはいけない。
玄関前まで辿り着く。階段の上に立っていた母と妹に挨拶をし、一旦メードと騎士の二人と別れる。
妹、母、そして自分と並ぶ。
「シャルル様がお見えになりました」と、バトラーが言う。
母が一歩、自分の背中を押した。その力を載せて、エリザベートは一歩、前に歩みを進めた。




