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第2話 巻き戻ったということ

 エリザベートが巨大な半透明の時計に吸い込まれ、意識が時間を遡り、およそ二年半前の自分のなかに入る。この間に経過した時間は、蓮の葉についた朝露が滑り落ちるよりもずっとずっと早い。到着するや否や、とてつもない金切り声をあげてベッドから跳ね起きた。


「なに……なんか……」


 ひどい夢だった。一瞬、そう思おうとした。だけど違う。あれは夢なんかじゃない。現実に起こったことなのだ。


 エリザベートは階段から転げ落ちたところまでは憶えていた。恐らく、転げ落ちて気絶したわたしを屋敷まで運んできたんだろう。


 冷静に今を判断し終えると、悔しさや怒りがこみあげてくる。ぎりぎりと奥歯を食いしばり、髪の中に手をいれて強く頭皮を押し、サイドテーブルに置かれていた火の消えたランプをとって部屋の隅に投げ捨てた。


 エリザベートは癇癪を起すとものにあたる悪癖があった。シャルルと婚約した後、長い時間をかけて矯正したものだったが、今をもって強いぶり返しが起きていた。


 ガラスこそ割れはしなかったものの、床に落ちる大きな音を聞いたエリザベートは、適当な精神を若干取り戻した。すると全身に絡みつくような気持の悪さを覚えた。


 首に手を当てた。びっしょり汗をかいていた。額も同様だ。手首についたしずくを振り払い、息をつく。当たり前にネグリジェも濡れている。見えるところが汗まみれなのだから、見えていないところは濡れ雑巾だろう。部屋はこの時期(舞踏会は夏開催)にしてはやたらと寒く、ベッドから床に足をついたエリザベートは全身が凍える思いをした。厚手の靴下を履く足元を見下ろして、不思議に思った。


「なぜ、こんなものを履いているのか。夏だというのに」


 しかし寒さを考えると脱ぐ気にもならなかったので、エリザベートはそのままベッドから正面の扉を開けて、衣裳部屋に入り込んだ。


「……あれ? 冬の装いしかない」


 使用人がなにか間違えたか……それともまさか、嫌がらせの類か。普段であればまた癇癪をおこして暴れそうな展開だが、このときエリザベートはひどく疲れていた。あんなことがあった後だ。それにきちんと眠れていないようだ。使用人が嫌がらせしたかもという発想は、その疲れにおされてしゅるしゅると萎んでいった。代わりに、もしや家の占星術師が今日の冷え込みを予想したからこうなっているのかもしれない、と考えた。エリザベートはクロゼットにかけられていた冬服の中から、あまり厚く見えすぎない、しかし暖房機能はしっかりとした服装を選び、ネグリジェを脱いで布で軽く汗を落とすと、代わりにそれを着た。


「婚約破棄の件、みんなに伝わっているでしょうね……」


 エリザベートはサイドテーブルにランプを戻し、窓際の椅子に座って考え込んだ。


 シャルル王子から婚約破棄を言い渡され、その場から逃げ出してきた。だから事の顛末を見ることはできていない。でも、恐らく”あれ”で終わりだ。エリザベートを責めて終わり。


 それならまだリカバーは効くのではないか。シャルルはエリザベートのしたことをほとんど知っていたが、これといって証拠があるわけじゃない。全部状況証拠や、自分より下級の貴族による証言だけだ。


 シャルルの両親が婚約破棄の話を進めるならともかく、あれはシャルル王子や周りの人々が勝手にやったことだろう。それなら自分たちはまだ婚約破棄していないはず。一度、話し合う機会を設けよう。そしてシャルル王子に直接訊くのだ。「なにが悪かったのか?」と。


 これは彼と話すいい機会かもしれない。エリザベートはそう思うことにした。心のガードをあげるために。


 実際はひどいものだ。真面目に向き合うことすら、エリザベートは心の中で拒否している。あの舞踏会での出来事を念頭に置きながら、そこで起こったことを、あたかもかつて聖ロマーニアスにいたとされる自らの飛び出たはらわたについての詩を書いた詩人のように、自分自身から離れて起きたことであるかのように、考えを進めているのである。


 先ほどから理由にしている通り、それほどまでに疲れていた、というのもあるだろう。もしくはシャルル王子への叶わぬ愛が、そうさせているのかもしれない。実際にはあの舞踏会での出来事は、エリザベートに深い心の傷を残したのだ。


 しかしそのような健気な心遣いも、唐突なノックによって阻まれてしまった。エリザベートはランプを持って扉へ近づいた。開くのを躊躇した。


「大丈夫ですか? お嬢さま。お嬢さま?」


 聞き覚えのある声だった。どこで聞いたのかは思い出せなかったが。


 エリザベートは扉越しに、「大丈夫だから。なにもないから」と伝えた。


「大きな音がしました。本当になにもないですか? 《《お熱がまたぶり返したのでは》》……」


「熱なんて出てない! ふざけないで! そんなのよりもっと重大な問題が発生してるのよ!」


 エリザベートは疲れから発揮させなかった怒りが再燃するのを感じた。よりにもよって使用人からこのような頓珍漢なことを言われたのだから、彼女としてはそうなるのも自明というものだ。


「クビよ! クビにしてやる! わたしを嘲りにきたんでしょ! もう王子の婚約者じゃないって! あんたそこから逃げんじゃないよ」


 エリザベートはどんどんヒートアップしていった使用人がじっと扉の向こうで黙っているのも気に入らなかった。エリザベートは散々に罵りの言葉を吐きまくり、そして――唐突に、消沈した。頭がくらりとして、ノブに捕まりながらその場にへたりこんだ。


「もういいから。どっか行ってよ……」


「私、人を……お嬢さま、ご気分が優れないようでしたら、人を呼んでまいります。どうか寝所のほうでお待ちくださない」


「いらない」


「そう言わず」


「……人は呼ばなくていい。あんたでいいわ。入ってきなさいよ」


 エリザベートはよろよろと立ち上がった。ベッドへ向かうと、背後から扉を開ける重い音がした。


「ご自分でお着換えをされたのですね。でもその服装は、今の時期はまだ寒いと思います。できれば寝ていて欲しいですが、そうしないと言うのであれば、もう一枚、なにか羽織るのがよろしいかと」


「うるっさいわ。主人に向かって……」


 エリザベートがぶつぶつと愚痴をこぼす。ベッドに座って俯きがちでいると、顔は見えなかったが、屋敷のメード服を着た少女が水の入った器を持っているのが見えた。どうしてだかわからないが、本当に自分が熱を出していると思い込んだらしい。


(本当に熱を出してるかも……いや、出していてもおかしくはないか……)


「お熱を。失礼します」


 少女がエリザベートの前髪をかき分け、額に手を当てた。

 必然、エリザベートは顔をあげ、少女の顔を見た。


「やっぱり熱がぶり返しています。朝になったらお医者様をお呼びいたしましょう。そうしたほうがいいと思います。水を。飲んで下さい。脱水症状を起こしている」


 エリザベートは少女の腕を掴んだ。最悪の体調にしては、敵意を持って掴んでいるとわかるぐらいには強く。少女は驚いてエリザベートの顔を覗き込んだ。しかし、エリザベートの驚きようはそんなものじゃなかった。


「お嬢さま、いかが……」


「そんなことどうでもいい! なんでお前がここにいるの!」


 少女の名前はクレア・ハースト。あのにっくき、この女さえいなければと幾度となく思わされた女、シャルル王子の心を横合いから奪い去っていった半平民女、アイリーン・ダルタニャンの使用人だったはずの女だ。

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