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第137話 エリザベート・マルチプル・オブ・マッドネス 後

                 ▽


 青い壁の向こうは、”時間を移動する”という言葉から発生した、架空の回廊である。青い光に照らされた石材の廊下が延々と続く場所で、時折気まぐれに、壁がどこかの時間のどこかの場所を映し出す。


 エリザベートが居たのは青い回廊をスポイルした、彼女専用の回廊……というより、窓のある部屋であった。今その場所は、ざらざらとした灰色の床と壁に囲われた場所になっており、窓には黙ったままのメアリー・レストが大写しになっていた。


 灰色の床の上には、醜く膨らんだ浮腫のようにも見える、一匹の巨大なガマガエルが座っている。


 ガマガエルはじっと座ったまま動かない。なにも変わったことはない。大きさと口から人間の腕が出ていることを除けば、いたって普通の蛙だった。


                  ▽


 まるで市民運動の中に放り込まれたかのようだった。オクタコロンの中身は煩雑で、混沌としていた。そして五月蠅かった。正体もわからない音や光景が次々とエリザベートの中を通り過ぎていき、また一周して入って来る。それが、ほとんど時間の空きもなくやってくる。その繰り返しによってようやく、オクタコロンの中身について、少しずつ分かって来る。


 常人なら簡単に狂ってしまえる。メアリーの言う”二周目”の記憶は、量にすれば世界一つに匹敵するものである。いろんな視点があり、いろんな情報がある。それが一気に頭へ流れ込んで来れば脳に刻まれた自我などという模様は簡単にもみくちゃにされ、元の形を失ってしまうだろう。そうならなかったのは奇しくも、オクタコロンが丸呑みしきれなかった腕のせいだった。


 記憶は言ってしまえば幻燈である。それも実体を持たない。エリザベートとオクタコロンが互いに持つ共有されるべき記憶は、二つの結びつきによって完全な経験となる。しかし、オクタコロンの他の要素である二周目は、どれだけ集まっても一方通行の情報でしかない。こういうものは現実の感覚には敵わないものだ。オクタコロンの口に手が挟まれている、その感覚が、まだエリザベートを現実に留め置いていた。


 だからといって幻燈がエリザベートになにも与えなかったわけではない。誰とも知れない悲鳴や、血にまみれた景色を繰り返し見せられ、エリザベートは確実に精神的な疲労を貯めている。それがようやく、耐えられるまでになったのは、右腕の感覚がおかしいことに気づいたこと。やはりそれに尽きる。


 オクタコロンは自分にとってとりとめもないような記憶たちがそれ以上エリザベートを痛めつけられないとわかると、すぐさま彼女を別の状態に移行させた。彼女の身体は幻燈のなかで弾き飛ばされ、白い部屋に入れられた。


 エリザベートは床に横たわった姿からすぐ起き上がり、手首をさする。そうは見えないが、なにかに挟まれているような感覚はある。なにかを握りしめているような感覚も。


 天井まで白い部屋だ。明かりの類もないのに暗闇がないということは、壁や天井自体が発光しているということだろう。


 天井に蜘蛛の巣のようなものが現れた。エリザベートが後ずさって注視すると、そこから一匹の蜘蛛が……否、もう一人のエリザベートが降り立つ。


 紫色の、シンプルな、しかし格調高いドレスを着ている。エリザベートはそれを見ると、不快そうに眉を顰めた。


「この姿は二度と見たくなかったかな? エリザベート」


 オクタコロンがエリザベートの顔で嘲るように笑う。


「まだあがきたいようだから、私が直々に殺してやるよ」


 エリザベートにきっともう少し品がなかったなら、床に唾を吐いているだろう。実際、貴族だということを憶えていなければ、エリザベートはそうしたい気分だった。


 あれは舞踏会のときにエリザベートが着ていたドレスだ。お父さまが選んだドレス。《《紫は王族の色なのだとか》》。《《つまり、お前が身に着けるべき色なのだとか》》。


 あのドレスを着た自分を見ると、エリザベートは今にも挫けそうになる。あの日、舞踏会の前に着付けをして姿見で見た自分の顔を思い出すのだ。その後ろで自分の肩に手をかける両親の顔も。


 エリザベートはぎりぎりと歯を鳴らし、頬の裏を噛むことで、やっと憎しみや苛立ちを思い出すことができた。


「どうした? 黙りこくって。見とれていたのかな? 幸せを描いたのか? どうだ?」


 オクタコロンにはエリザベートの心の動きがわかっているに違いない。的確にエリザベートの心の傷を抉りに来ている。本当に忌々しい奴だ。


「ああ。お前のことは百も承知だよ。なにせ私はお前の記憶も持っている。あの魔術師から聞いたんだろう? 私はお前だ。お前も私。だがより凄惨な苦痛を身に引き受けたのは、私だ! お前じゃない。今からその一端を見せてやろう」


 エリザベートは血が滲むほどに頬の裏を噛んでいる。


「お前がアミュレットを落とすのが先か、私がお前に見せる幻覚が無くなるのが先か。どっちだと思う?」


 オクタコロンが嘲るように笑う。

 

 ぶち、と音がして、口のなかに血の味が広がった。


「《《あるいは私がお前の中にアミュレットを持ち込むのが先か》》、よ」


 エリザベートは地面に血を吐き捨て、オクタコロンを睨んだ。オクタコロンはエリザベートの姿のまま、怒りの込められた笑顔で彼女を見ると、柏手を打つ。


 次の瞬間、エリザベートはまた記憶の奔流に絡めとられた。

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