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第122話 ダウンレンジ 前 

 まるで蜘蛛のようだった。出てきた全身にぼろ布をまとった人間は、床の上でかさかさと動いた。明らかにパースがおかしい。腕が1m以上あるが、体つきはぼろ布で隠されていてもわかるほど貧相で、足は未熟児のような小ささだった。


 エリザベートは左目を抑えて蹲っていたために、はじめなにが起きたかわからなかった。強烈な痛みと共に、左目の視界が潰れる感覚がした。しかし手のひらで抑えたまま瞬きをしてみると、左目の視力は正常で、痛みも徐々に減っていった。そしてようやく、辺りのことに気を使えるようになると、目の前に現れた人間――ほんとうに人間かはわからないが――に気が付いたのである。


 エリザベートは目に左手を置いたまま、音を立てて後ずさった。背中に化学実験室の机の角が当たった。蜘蛛の向こうにいるメアリー・レストに目をやるが、向こうもなにが起きているかまだわかっていないらしい。視線を交わしたものの、お互いがお互いに説明を求めている状態だ。


「驚かせて――しまった――だろう――ね」


 蜘蛛人間がむくりと起き上がる。そしてぼろ布に隠れていた頭部をエリザベートのほうに向けた。


 エリザベートは見ただけで脳が混乱し、吐き気を催した。


 そいつには明確な顔がなかった。顔のようなものがあるでもなく、顔が何もない空洞なのでもない。ただ、ありとあらゆる人間の”顔”が、なんらかの原理を通してエリザベートの頭のなかに送られてくるのだ。


 それは声も同じだった。言葉の内容は理解できるが、こいつには声という声がない。多層構造なのではなく、同じ位置に大量のものが存在しているかのようだった。


「――ううん、アア――そうか――《《つまみ》》を調整しないといけないね……」


 蜘蛛人間が言う。そして、そいつの存在が一つに絞られ(わからないが、恐らくはそういうことであろう)、聞き覚えのある声になる。


「やあ。ちょっとぶりだ――」


「エグザミン……!」


 エリザベートが左目から手を離す。視線はエグザミンに固定したまま、立ち上がって距離を取った。


「そうだね。そうだ。わたしの名は”エグザミン”。君からしたら、そうかもしれないなあ――つまりそうじゃないんだけども――まあ、今はそう思っておけばいい――」


 エグザミンが言う。その言葉の意味は解らない。だが、感覚としては理解している――これがエグザミンだということはわかるが、エリザベートが見たあの初老の精神科医とは、姿形も声も違っていた。姿はぼろ布をまとった子供の乞食だった。声は貴族的なおだやかで控えめな声だった。


 エリザベートとエグザミンのやりとりを聞いていたメアリーは、横から声をかけた。


「お前は……なんだ? なぜ止まった時間の中で動くことができる?」


「それは――厳密に時間が止まっているわけでは、ないからだ……」


 メアリーが衝撃を受けたような表情になる。エリザベートにはわからない。それがなにを意味するのかは。その考えを見透かしたようにエリザベートのほうを向くと、エグザミンは続けてこう捲し立てた。


「時間を――いわゆる宇宙の創世から宇宙の終わりまでの間の時間を厳密に止めることはできない。止められるのは”状況”だけだ――だから実際には時間は止まっていない。君たちの生活体系のなかでの因果の繋がりを意味する括弧つきの”時間”から解放されていれば、状況が停止していても、抜け道はあるんだよ……」


 エグザミンがメアリーの方を向く。「まあこれは? 私の原理ではなくお前の原理と言った方がいいんだろうけどなあ……”魔術師”さん……。私の場合は単純に相乗りしているだけだから……」


「こいつが――私たち以外の遡行してきたやつ?」


 エリザベートがメアリーに確認する。


 メアリーは首を振った。


「いや、違う。存在がどうあれ、黒幕は人間であるはず――こいつは、違う」


「なんなの……ずっと私の中にいたわけ……?」


「あ、あ、あ、あ」エグザミンではないやつが指を振った。「君が考えていることは間違っているよ。君がここまで上手くやってこれなかったのは私のせいじゃない。むしろ君の精神を安定させてあげようとしたんだから――感謝して欲しいぐらいだね」


 エリザベートが掌に爪をたて、血が出るほどに拳を握りしめた。目には怒りが浮かび、顔は屈辱に染まっている。


「そんなこと! 思っていない……」


「ええ? そうなのかい? いやいや嘘をついてもダメだ。君と私はまだ《《繋がっているんだからね》》。そんな誤魔化しは無意味だよ」


「挑発に乗るな。エリザベート。目的は何だ? 名前は? どうして目の前に現れたんだ」


「ああまだ名乗ってなかったか。私の名前は――ある時はセラピスト。あるときは現人神――またあるときは――なんだろうね? 私はメウネケス! ”嵐のメウネケス”だ」


「メウネケス?」


 エリザベートが繰り返す。その名は聞いたことがある。”渦哲学”の創始者にして数千年前、神代のころの魔術師。異端者として排除された――。


 こいつの言っていることが真実なら、筋が通る。メウネケスは”予言の民”たちにとっては世界観そのものだからだ。こいつがメウネケスなら、予言の民を使って今回の事態を引き起こしたということだろう。


「ふざけるなよ」


 だが、メアリーは否定した。


「私はメウネケスを知ってる。彼は誠実な人間だった。自分にも、世界にもだ。現実社会と折り合いをつけられず、だから異端者と呼ばれた。だから人が着いてきた。お前のような奴が騙っていい名前じゃない」


「バレたか」”エグザミンでもメウネケスでもないやつ”は大して気にしてもいないように笑い飛ばした。


「そうだ。私は――我が名は! 我が名はオクタコロン! ははは。知らないだろう。それでいい。名前なんてただの記号なんだから意味なんてないんだよ。そんなことより目的だろう。それは当然、そこにいるダメ令嬢を殺すこと。勿論だな」


「はあ?」


 エリザベートが言う。ここに来てからそればかり言っている。そんなことまで思う。危機感がやってきたのは、それからだった。あまりに自然にその言葉が出てきたから、反応が遅れてしまったのだ。

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