第99話 シューゲイザーズ(靴を見る人々)‐12
マリアはずっと、バランスを取って行動することを念頭に置いていた。即ちそれは、エリザベートの騎士として彼女の傍に居続けることと、彼女から離れて国の存亡をかけて戦うということである。マリアはそれが、いずれにしろエリザベートのためになるならばと考えて引き受けていた。
尋常ではない。そんなことは。普通の人間であれば、まして彼女が騎士だと言うのであれば、この二つのどちらかを優先させなければならないと迫られたときに、どんな選択肢が浮かぶだろうか? 主人の平穏か、国の存亡か。前者のほうが大事であっても後者が脅かされれば前者も必然的に脅かされる。マリアはそれが異常だと知っていながら、今ここでエリザベートを選ぼうとしていた。正確には、あえてはっきりとした答えは返さなかった。それだってどちらかの選択肢がその一方よりはっきりと自明であるのなら、十分な主張だと言えるだろう。
劇場にはいく。それは確定している。だが観劇をしに行くのであって、仕事をしに行くのではない。
マリアはそれを、かなり迂遠な会話で確認させた。シャルルとしては当然それでいいわけがない。ただでさえ彼は焦っているのだ。マリアには絶対に参加してもらわなくては、劇場での作戦は上手くいかないかもしれない。
だがマリアは元々、協力者という形でここにいる。シャルルの絶対の部下ではないし、権威の下になんでもやるというタイプの人間でもない。尊敬心に関してかなり拘りのあるほうなのだ。王子だからといって話を聞くことはない。彼女のなかのバランスは、保たれなければならないものだ。だから話す方もそれを尊重しなければならなくなる。
話しても無駄だということは、わかっていた。シャルルは苛立ちを覚えても誰かを怒鳴りつけるのではない。エドマンドも静かに諫めるだけだし、マリアからすればそれは無風と変わりない。
膠着した議論を前にして出来ることといえば、ティーブレイクだけだった。アイリーンがお茶を淹れると言い出し、その手伝いにマリアを誘った。自治会の隅にある簡易なポッドを洗って、中の滓を取り除く。
マリアは南方の地方から取り寄せたという茶葉を少しと、国産の茶葉をアイリーンに言われるがままに少しずつ取って、彼女に渡した。彼女は水をポッドにいれると、それを沸かし始める。
水がお湯に変わるのを待つ間、アイリーンがマリアに話しかけた。
「彼女は魅力的?」
「なに?」
「エリザベートさんのこと」
マリアがアイリーンを見下ろす。ポッドの液体を見ていたアイリーンが顔を上げ、マリアに見られていることに気づく。
「あっ、皮肉とかじゃ全然ないよ。ただそう思っただけ」
「どうかな」
マリアが言う。
「ずっと不思議だった……ううん、不思議だったというと語弊がある。わからないっていうのも、ちょっと言葉が強すぎるか……そうね、その、あなたには私に見えていない彼女があるのかなって、そう思ったの。だから聞いたのよ。”彼女は魅力的”? って」
「どうかな。美徳はある。反対に悪いところも。私はむしろ、君がお嬢さまをあまり嫌っていないのが不思議ではある。あの王子様みたいに、ある意味割り切ってるんでもないし、学院の生徒のように二分されてるのでもない」
「確かに、嫌な目にはあってる。でもずっと嫌な人なら、あなたはいないでしょう。我慢せず逃げてるはず。それともクレアのことがあったから、いるだけなの?」
「それね」マリアは観念したようにつぶやく。「否めない……そう言ったらうそになるだろうな。見捨てようとは思ったことさえないんだ。でもずっとなぜだろうと考えていた。ちょっとも思わないほど彼女はいい人間じゃないし」
「答えは出たの?」
「ちょっと前に考えたことはある。戦争のときの話だ。あれが起こった直後、貴族の士官が大勢戦場に送り込まれた。正直言ってずぶの素人ばかりだった。あの当時、戦争なんて随分起こっていなかったあの当時、国防関連の席は実績のない貴族が収入を得るための場所だった。特に貧乏な貴族なんかがな。ろくすっぽ訓練も受けていない貴族たちがほんの少し座学をうけただけで軍の士官として配属され給料をもらっていたんだ」
アイリーンが頷く。
「ちょっと話を飛ばそうか。そんなだからその貴族どもは戦場でまったく役に立たなかった。戦術も学んでいないし、でも命令する立場だからな。ベテランの兵士がいるところならまだしも、そうじゃないところはひどい有様だった。無茶な特攻や行軍がたたって無駄に死傷者が出た。大規模な戦闘に連れて行こうものなら一目散に逃げた。かなりバッシングされていたよ。みんな貴族の士官が嫌いだった」
マリアが続ける。
「でも生き残ったあと、泥だらけで何の栄誉も得ずに帰っていく奴らを見て、私は心底同情したんだ。あいつらの無意味な行動によってたくさんの兵士が死ぬこともあったが、あいつらも嫌だっただろう。戦争が起こると思っていなかったのは、みんな同じだ。最悪だぜ、自分の大きすぎる自尊心を死ぬほど痛めつけられ、挽回する機会すらないと自覚するのは。だからって死んでいった兵士のことを忘れてはいけない。彼らの死の責任はあまりにも重大で、貴族たちの苦しみなど矮小で捨て置いてもいいようなものであることは、忘れてはいけない。でも彼らのことは、みんなが考える。私も考える。ただ私は、ほんの少しだけ、やつらのことも考えている」
「同情心で一緒にいるってこと?」
「私は天邪鬼だからな。そこは否定しないでおこう。でもつまるところ、結局は、私はあの子が気に入ってるんだ。きっと私が今の話を彼女にすれば、彼女は怒り狂うだろう。そこがいい。優先されるに値する美徳があるとも思う。誰からも優先されないのは不幸なことだ。無理に言語化しようとすれば、そういう理由になるんだろうな」
「長々と喋っておいて最後はセンス頼りなの?」
マリアは肩をすくめて誤魔化した。
お湯はもうとっくに出来上がっていた。アイリーンが球形の茶こしを通して、カップにお湯を注ぐ。お盆にそれを載せて、マリアに手渡すと、耳元で囁く。
「いいよ。味方してあげる。あなたは観劇を優先して」
「マジか」
マリアが困惑の表情でアイリーンを見下ろした。
それでいいのかという罪悪感があった。エリザベートを優先する一方で、彼女の理性的な部分はこの作戦の重要性を理解していたのだ。
彼女はまだちゅうぶらりんだった。
「でもそっちは危険になるんじゃないのか?」
「なんとかなるわよ」
「いい。いや……私も協力はする」
「うん。少しでいいからね」
アイリーンが言う。本気で言っているのだとマリアはわかった。さしものマリアも罪悪感を覚えた。
「私も仲良くなれるかな」
エリザベートと。アイリーンのその疑問に、マリアは「わからない」と返した。




