Chapter.13
フライパンの中でデミグラスソースがくつくつとあぶくを立てる。
「千紘さん」
「ん?」
「味見してほしい」
「うん」
リビングのソファに座っていた彼を呼んで、フライパンからソースをひとすくい、スプーンに乗せた。渡そうと思ったその手を優しく取って、彼はそのままスプーンを口に入れる。
「ん。うまい」
「良かった」
彼はそのまま私の隣に立って、フライパンの中をのぞき込む。
「煮込んでるしだいじょぶやろけど、心配やったら菜箸で刺してみ? 透明な汁が出てきたら中まで焼けてるから」
「うん」
菜箸で自分が食べる予定のハンバーグに穴を開けてみる。うん。透明。
「ええね。なんか手伝う?」
「あとはだいじょぶ。ひとりでしたい」
「はいはい」
そう言いながらも、少し離れたところで私を見守ってくれる。
「心配?」
「ん? 新鮮」
彼の言葉に納得して、「だよね」笑いながらフライパンに向き直った。
珍しく二人の休日が重なったからと、いつもは彼が立つキッチンに、意を決して私が立っている。いつも任せてしまっているから、お昼ご飯くらいは作りたいと立候補した。のだけど、慣れていないから手際も悪いし要領もつかめていない。
色々指南が飛んでくるかなぁ、と思っていたけど、こちらが助けを求めるまでは黙って待っていてくれた。
引っ越してきた当初に買ったままだったエプロンを出して身に着け、肉をこねたり焼いたりソースを作ったり野菜をちぎったりして、昼食がやっとできた。見栄えにも気を使ったから、我ながら自信作と言える。
「お待たせしました」
「全然? ありがとう」
リビングで待つ彼の前に、ハンバーグとサラダを盛り付けたお皿を置く。
「あらキレイ」
「こういうの、気にするかなと思って」
「そんなことないよ、店のは商売道具やからあれやけど、家やったら全然。やってもぅたらそら嬉しいけど」
「ならよかった」
ごはんをお茶碗に盛って、自分の分も配膳して向かい合わせに座り、手を合わせて唱和した。
「「いただきます」」
彼がお箸でハンバーグを一口サイズに切って、口に運ぶ。もぐもぐ咀嚼。そして飲み込む。のを見守る私。飲食店経営・運営でもあるプロの彼に食べさせるのは緊張する。ましてや好きな人だし。
「うん、うまい」
「良かった!」
彼の言葉に安心して自分でも食べてみる。「ん、おいしい」
思わず浮かべた笑みを見つめて、彼が微笑んだ。
「なに?」
「んー、いや」
わざとらしくはぐらかして、彼は昼食を食べ進める。気になるなぁと思いつつも、冷める前に食べきりたくて、二人で感想を言い合いつつ食事を終えた。
千紘さんは途中でなにやら分析しているような顔つきになってたけど、複雑な工程はなにもしてないからすぐに把握したようで、あとはただ嬉しそうに食事をしていた。
「いやぁ、うまかった。ありがとう。ごちそうさま」
手を合わせてからお腹をさすって、満足そうに笑みを浮かべる。
「おそまつさまでした」
「たまーにでいいから、また作ってほしいな」
「もちろん。むしろたまーにですみません」
「そういう意味ちゃうくてさ」
彼は困ったように笑って、食器を片付けようとする。
「いいよ、やるよ」
「そう? じゃあ一緒にやろか。手持ち無沙汰やわ」
「うん、ありがとう」
二人で一緒に食器を運んで、並んでお皿を洗っていく。さすがプロの手さばき、彼が洗うお皿は瞬く間にきれいになっていく。もちろん、デミグラスソースが残った食器は先にキッチンペーパーで軽く拭いたりするなど、ソツがない。
「さすが」
「長いことやってるからなぁ」
「その割に手、荒れてないよね」
「一応、ケアしてるんで」
自慢の手指を広げて見せて、また違うお皿を洗いにかかる。
「ケア方法教えてもらおうかなぁ」
「別にかえでも手ぇキレイやろ」
「ありがとう。でもさ、繋いだとき、たまに“うっ”って思うんだよね」
「なに? “うっ”て」
「“指細いし肌すべすべ、うっ”って」
「ダメージ?」
「ダメージ」
「別に気にならんけどなぁ……あとでハンドクリームおなしの付ける?」
「付ける」
「じゃあ洗い終わったらな」
「はーい」
彼が洗う食器を受け取り、私が拭く。彼の店でバイトしていたころ、私はフロア専門だったから、一緒に暮らし始めてからやるようになった作業。でも、私の仕事と彼の仕事は時間がすれ違いになってしまうから、食器洗いに限らずなかなか共同作業をする機会はない。
「はい、終わり」
「ありがとう。あっという間だったねぇ」
「二人分やしな」
すべての食器と調理器具を洗い終えて、彼が手を拭く。同じ動作をして、二人でリビングに戻った。私がソファに座ると、彼は部屋に入ってすぐリビングに戻ってきた。
「はい、手ぇ出して」
「?」
言われるがままに両手を出すと、そこにチューブからハンドクリームを出してくれた。
「ありがと。塗り方とかあるの?」
「いや? あぁ、爪周りまでちゃんと塗り込んではいるかな」
「なるほど」
彼も自分の手に適量出して、自らの手に塗り込んでいく。同じようにして、私も塗り塗り……おぉ。
「すべすべ」
「やろ? 冬場とかは寝る前にいっぱい塗って、手袋はめて寝るとええよ」
「マメだねぇ」
「最初の年にあかぎれでえらい目におうて、懲りた」
「開店一年目?」
「そう。ゴム手袋するわけにもいかんし、こらあかん思って色々口コミ見てさぁ。いきついたんがコレ」
「すごい、見せて」
「ほい」
彼が手に持っていたチューブを受け取る。医療品のようで、ドラッグストアではあまり見かけない商品だった。
「へえー。自分用に買おうかな~」
「ストックあるからあげるよ」
「え、やった。ありがとう」
「いつでもどうぞ」
換気のために空けた窓からは爽やかな風と共に外の音が流れ込んでくる。
成分表示を読みふける私の横で、彼がテレビの電源を入れた。画面に映し出されたバラエティ番組をそのまま視聴する。テレビのスピーカーから聞こえる出演者たちの楽しそうな笑い声やにぎやかな会話。
どこかで子供たちが遊んでいるのか、窓の外から楽し気な笑い声が流れてきて、テレビの音と混ざり合った。
「……なんや平和やなぁ」
「そうだねぇ」成分表示を読み終えて、ハンドクリームをテーブルに置く。ふと気になって、膝を抱えて彼の顔を覗き込んだ。「刺激ほしい?」
「いらん。穏やかなんが一番いい」
即答して、私の頭に手を乗せた。そのまま何度かすべらせて頭を撫でる。どうやら彼は私の髪質が好きらしく、手が空いていると決まって頭や髪を撫でてくれる。
「うちの店、営業時間変えよかな、と思ってんけどさ」
「えっ、どしたの急に。常連さん困っちゃわない?」
「いやー、どうやろ。案外あわせてくれる思うけど」
「なにか困りごととか?」
「困るっちゅうか……」
目線はテレビに向けたまま、指先で私の髪をもてあそぶ。指に巻き付けたり離したり……。その手が頭からおりて、私の肩を抱き寄せた。
「一緒に住んでるのに、あんま一緒におられへんやん? それがなぁ……」
「うーん、確かに」
いまは私が仕事に行く時間、彼は寝ているか寝ぼけ眼で送り出してくれる。
仕事が終わって帰宅してから、店へ行って彼が作る夕食を食べる。二人きりのときもあるけど大概はお客さんがいて、茶化されたりはやし立てられたりして少し気恥ずかしく思う。それは彼も一緒のようだけど、お店では表情に出さない。(帰宅してから「あれからずっと仁見さんがさぁ」とか「珍しく吉野さんまで乗ってきてさぁ」とか言ったりする。)
店が閉まるのを待てるほど体力や時間に余裕がないときは先に帰宅して、彼が帰ってくるころには私が寝てしまっている。
私が休日の前の夜くらいにしか、二人でゆっくり過ごせる時間がない。こうなることは予想してたから、不満ではないけど、寂しいは寂しい。
「仕事、楽しいやろ?」
「うん。千紘さんもでしょ?」
「うん。やから、融通の利くおれがどうにか~って、考えててさ」
「そっか……。ありがとう」
「うん。いや、おれがさっきとかいまみたいな時間をもっと過ごしたいだけやねんけど」
「うん。それは私も同じだよ」
「そやろー? 結婚しても同じ感じになっちゃったら、それもなぁ」
「どっちかが仕事変えない限り、そうなるだろうねぇ」
「なぁ」
付き合い始めたころに彼が言った“結婚を前提にお付き合い”という言葉は、少しずつ前進しながら実現しつつある。
一緒に住もうというタイミングで、彼が私の両親に挨拶をしてくれたのだ。
私も同じように彼のご両親とお会いして、私たちは婚約関係を結んだ。
あるとき突然、仕事終わりに呼び出されて珍しく外食をした。
彼が予約してくれたのは、夜景の見えるレストランだった。
ネクタイこそしてなかったけど、シャツにジャケットと普段よりかっちりした服装で、なんだかかしこまったような緊張したような雰囲気だった。
なにかの記念日というわけでもないのに、というか、記念日でもこんなオシャレな店を選ぶことはないのに、どうしたんだろう? と思いながら美味しいディナーをいただいた。
食後のコーヒーと紅茶を楽しんでいると、彼がバッグの中から小さな箱を出した。
「サイズ、ちゃうかったら直してくれるって」
言いながら開いたケースの中には、一粒のダイヤモンドがはまった、シンプルな指輪が入っていた。
「これって……」
「ちゃんとゆうてなかったよな。……おれと、結婚してください」
背筋を伸ばしてから、頭を下げた。
あまりに驚いて、意外で、嬉しくて……涙をこらえながら
「よろしくお願いします」
彼と同じように頭を下げる。
顔をあげて彼を見ると、彼もまた同じように瞳を潤ませて、いまにも泣きそうな顔になっている。
「なんで千紘さんが泣いてるの」
そういう私も泣いていて。
「しゃあないやん。トシとると涙もろくなるんやから」
二人で泣きながら笑って、左手の薬指に指輪をはめてもらった。
初めて会ったときはこんな風になれるなんて思ってもいなくて、幸せで胸がいっぱいで……。
レストランからの帰り道、手をつないで家路についた。
見慣れた風景や家の中がなんだか不思議といとおしくて、大切にしたいと思った。
左手の薬指には、そのときからずっと着けている婚約指輪が光ってる。
お返しとして贈った懐中時計を彼は仕事中愛用してくれていて、身体が離れていても心がつながっているんだと安心できる。
それでもやっぱり、近くにいたいなぁとは思うわけで……
「いっそ、いまの仕事辞めて、お店手伝おうかな」
「それは嬉しいけどさ、仕事楽しいんやったらもったいないよ」
「うーん、そうだけど」
「子供できたらまた違う選択肢もできるやろしなぁ」
「そっかぁ……」
まだ誰もいないお腹をさすってみる。実感はわかないけど、いずれそうなる可能性は高い。
「いつ入籍するかとか、そういうのもあんまり話し合えてないしなぁ」
「そうだね、そういえば」
「おいおい、忘れてたみたいにゆーなよ」
「違う~、忘れてたわけじゃないよ」
「ほんまそういうとこさぁ」
声を裏返しながら彼が言う。彼曰く、私がそういう発言をすると他人事のように聞こえて寂しくなるそうだ。
「ごめん。自覚が薄いのはわかってるから」
「そうやで」
ほんまにさぁ、とブツブツ言いながら、彼が私を抱き寄せた。
「どっか行ってまいそうでコワなるわ」
「それは絶対にないから」
くすくす笑って、彼の背中に手を回す。それでも彼は小さい声でなにか言っている。
「……心配?」
「うん」
いつもは別にとか特にとかはぐらかすのに、今日は珍しく素直だ。
「……なんか言われた?」
「あー、まぁ」
「お義姉さん?」
「……そう」
彼には血のつながらない姉がいる。【よつかど】の近くでケーキ屋を営むパティシエだ。
「お前みたいなんにあんな可愛くて若い子もったいないー。ほったらかしてたら誰かにさらわれんでー。はよ婚姻届出し~。やって」
「お義姉さんらしいね」
実際にはお義姉さんは関西弁ではないけれど、会話の光景が目に浮かんで思わず笑ってしまった。
「笑いごとちゃうよ。確かになって思って、もうさぁ」
すねたような、ふてくされたような声が耳をくすぐる。
「大丈夫だよ、ちゃんと好きだから」
「好きってだけじゃやってかれへんときかってあるやろ」
私にはその経験がないからわからないけど……
「……あったの?」
気になって聞いてみたら、彼の腕に少し力が加わった。
「……まぁ…………むかーし、な」
きっと鼻に皺を寄せて苦虫を噛み潰したみたいな顔してるんだろうな、と想像しながら、少しだけ、胸が痛んだ。彼に傷を残した人のことを想像してしまったからだ。
「千紘さんのこと、裏切ったりなんかしないもん」
肩口にうずめた口から、籠った声。少し涙声で、自分で驚く。すごく好きなんだなぁって今更ながら実感する。
彼の腕の力がぎゅうと強くなって、そして少しゆるんで「よし、わかった」身体が離れた。彼は私の顔を見つめて、意を決したように言った。「来月、付き合って一年目の記念日あるやろ」
「うん」良く覚えてるなぁ、と感心しつつコクリとうなずく。
「その日に入籍しよ」
「えっ、急」
「決めんと、かえでに甘えてズルズル先延ばししてまう。あかん」
あまり見ることのない真面目な顔。まっすぐな瞳が私を見つめている。
「ダメかな」
「ダメじゃない。嬉しいです。急いで準備しないと」
「あぁ、なんか色々あるっけ」
「うん。書類取り寄せたりが必要だったはず」
「そうか。ちょっと調べよ」
「うん」
急にあわただしく、二人でスマホを操作し始める。必要な書類や対応をあれこれ調べているうちに、なんだか可笑しくなって笑い始めてしまう。
「なに?」
いぶかしげに私を見る彼に「一緒にいると楽しいなぁって思って」笑いながら寄り掛かった。
「……せやなぁ」
彼も優しく笑って、スマホを持つ私の手をそっと掴む。手の中のスマホは彼に取られ、テーブルの上に置かれてしまった。
「……調べないの?」
「あとででいいよ」
潤んだ瞳が私を捉える。おなかの奥がキュウと疼く。
静かに、深く重なる唇。そのままソファに押し倒される。
「……すき」
「……おれも、好き」
穏やかに微笑みあって、身体を重ねた。
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