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そこには数冊の本を抱えた若い女性の司書がいた。彼女はおそらくまだ20歳くらいだろう。去年の秋ぐらいからここで働き始めたと記憶している、華奢で、髪はストレートで長い。うつむいているので顔があまりよく見えないがメガネをかけているのはわかる。
「あ、おはようござま…」
彼女にそう言いかけたが、彼女の後ろに人型の黒い影のようなものが立っているのに気づき、口を噤んだ。
それが目に入ったと同時に、これまでに感じたことのない恐怖感に襲われた。見えないものは信じない主義だし、見える人がいたとしても、自身は見えないので信じてこなかった。
過去に、見えると言う友人がいた。死体がベッドの下に横たわっているという話だったが、普通は見えるはずのないものに対してどのようにして、平然と日常を過ごせるのか聞いたことがある。無論、信じているわけではないが、その人には僕が見えないもの、知らない世界を見ていると思うと、人の感覚というものはこうまで違いがあるのかと、僕が知っていることだけが真ではないと感じた。
直感がやばいと告げている。とっさに声をかけた。
「司書さん、後ろ後ろ!」
司書はゆっくり振り返り、影の方向を見ると静止した。
なんでそんなに反応薄いの?もしかして見えてない?
「この黒いの、なんですか?」
見えてた。
まるでこの部屋で何か、僕が人に言えないことをしていたのではないかと、疑うような聞き方だった。が、こんなスピリチュアルなものを生み出せる化学や人間なんて聞いたこともない。
それにしても反応薄すぎるだろ、もう少し驚いてくれないとこっちが恥ずかしい。だが彼女の冷めた反応のおかげで少しばかり落ち着いた気がしなくもない。
その人型の黒い影が語りかけてきた。語りかけてきたというよりも頭の中に直接入り込んできたという方が正しいかもしれないし、実際に空気が振動し音の波長が耳の鼓膜を揺らしているのかもしれない。事実、理解不能である。
「人間は時間の鍵の掛け方を知らない。魚が水槽という檻に鍵を掛けられないのと同じように、時間という檻に鍵を掛けられない。あなた方は私の尻尾を踏みました。蜘蛛があなたの部屋にいたら外に逃がしてあげるように、私もあなた方を外に逃がしてあげます。中にはその場で殺してしまう方々もおりますが、私は殺生をしない主義でありますので」
パニックになりそうだ。殺生?殺す?僕は殺されるのか?
何を言っているのか全く理解できない。司書さんもこの声が聞こえているのだろうか。
「理解できないのは仕方がありません。尻尾を踏んだ、としかあなた方に伝える方法が見つからないのです。蟻に蟻の目線で物事を伝えようとしても伝わらないのと同じように。こう言う場合は、申し訳ない、とでも言えばよろしいのでしょうか。いえ、語弊がありました」
思考が読まれてる?
すると、司書が口を開いた。
「2次元の存在が3次元の存在を理解できないのと同じように、私たちもあなたを理解できないということでしょうか?」
聞こえてた。司書も司書で何を言っているのか理解できない。どうしてそんなに冷静でいられるんだ。
「そうかもしれません。あなた方に残されてる時間もありませんので簡潔に言いますと、あなた方には選択肢が2つあります。存在ごと時間の外で消えるか、私と契約を交わして私の世界を救うか、の2つです。あと数秒であなた方の存在はこの世界から消滅します」
急いでこの部屋から出ないとまずい気がする。
と、人間的な本能がそう、警笛を鳴らした。
「司書さんすみません、そこ通してください」
「あなたの世界を救います」
突然、司書が冷静な口調でそう言い放った。
「え?」
まてまて、話が急展開すぎて全くついていけない。
すると影は、あるかどうかも怪しい器官の「口」を開いた、と表現していいのかも不明だが、それは間髪をいれずに口を開いた。
「契約後、私の存在をあなた方は忘れます。契約後、あなた方がこの部屋に入って来る前の時間から私は出て行きますので。契約後、この会話も忘れます。契約後、契約だけあなた方の中に残り、この会話は最初から無かったことになります。契約後、稀に覚えている方もいるようですが。では契約を始めます」
「契約?なに、ちょ、まっ…」
その瞬間、人型の黒い影から伸びたすらっとした長い指が伸びてきた。
理解できない恐怖に目を閉ざす。静まり返る部屋。何も聞こえない。何も起こらない?
ただの夢か幻覚かはわからないが、この状況が虚であることに期待を抱えながら目を少しずつ開く。
指は目の前で止まっていた。声が出ない。体も動かせない。
「あなた、なぜその本をお持ちなのです?」
持っていた本に目を落とす。そこには、見たこともない文字で書かれた本が3冊、半透明で床が透けて見えた。こんな本を選んだ覚えはない!
まて、床が透けている…?本を下から抱えているのに自分の手ごと透けている?咄嗟に自分の腕を見ると、同じように床が透けて見えた。さらに、この一瞬の間でほとんど消えかかっている。乾いた口の中の唾液をたぐり寄せるように息を呑み込む。
「…うわああ!!」
視界が白く霞み始めた。
「仕方がありません。時が過ぎる前にあなた方をお連れいたします」