進行
私はその出来事をきっかけに、友達というものへの考え方を見直した。
特に、写真を送ってくれた友達、今の状況を理解しようと努め傍にいてくれる友達だけに留め、他の友達だと思っていた人達に対してはこちらからのコミュニケーションを絶った。
それもそうだ。彼らは助けてと言うが助ける側には立たないと分かったからだ。
そう思ってみてみると、数こそ減ったが本当に頼れる友達だけが周囲に残った。友達は数じゃない。そう確かに理解した瞬間だった。少数でも深く相手を理解し、助け、助けられる関係がそこには残ったのだ。その事はもうずいぶん前に理解していたはずの事実だったが、経験してみると「あぁ、そういう事か」と痛感する。
頭でわかったつもりでいた。経験するのとしないのとではこうまでにして違うのかと思った。
友達が振り分けられたところで、私の現状は変わらないままだった。今日までかもしれない友達との時間は何より貴重で大切なものになった。
明日話そう。
明日訊こう。
その明日がないかもしれない。だからこそ私の頭は
今日、今、この一瞬。
と、今という時間を何より大切にするようになっていった。病気が自然に良くなっていったなら、私はこの時「病気ってこういう大切な事を教えてくれたんだ」と美化して終えていただろう。しかし、そうはいかなかった。
メモも難しく、言葉の理解も難しくなり、物忘れも激しい。その物忘れの度合いはさらにひどくなっていった。
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」
これは枕草子の一部だ。例えばこれを覚えてくれと言われたら、普通五分もかからずして覚えられることだろう。覚える時間に個人差があろうと、一生懸命に覚えればそう難しいものではない。
私にはそれができなかった。
覚えようと必死になる。全力で集中する。しかし、覚えることができない。なぜなのか自分でもわからなかった。
その頃、授業でテストがあった。動きと合わせながらあらかじめ提示された文言通りに話す実技テスト。私はこのテストが好きだった。先生も私の小説を読んで真剣に感想もくれ、先生のことも好きだった。それだけでなく、先生からも認められていたし、私自身このテストが待ち遠しかった。
しかし、今の状態では覚えることはできない。家で何度覚えようとしても、覚えること自体ができない。
なんで?なんで覚えられないの?今までやってきたことなのに!テストはもうすぐなのに!
焦りと苛立ちが募っていった。今までできていたという悔しい気持ちと、突然できなくなったという焦り。自分はなぜできないのか。これはできないと思っているだけの甘えではないのか。
自分を責め、自分の力の及ばない、コントロールのできない何かが起こっていることが嫌でもわかってしまう、の繰り返し。
そうしてテストの当日。午後の最初の授業だったこともあり、ギリギリまで対処しようとして諦めた。昼休みになって大好きな先生の元へと向かった。
言い訳するのが嫌だったし、何といえば信じてもらえるのかまるで分らなかった。一体、どうしたらいいのか。一体、何をすれば正解なのかと。
そうして私は実技テストの部屋にいる先生を訪ねたのだった。