繰り返す1日
異変が明らかなものだと自分の中で理解した頃、私が見ている世界、感じている世界、その全ては一変した。
「じゃあこの話明日するわ!」
「また明日!」
「今度◯◯に行こうよ!」
「この前言ってたやつ見た?」
私は明日、話すはずだった話を覚えていられないかもしれない。
私は明日、笑って別れたその人のことを忘れているかもしれない。
私は約束を覚えていないかもしれない。
私は誰かに見てと言われた、その話すらもう忘れてしまっているのかもしれない。
そんな何気ない会話は、私と私以外の人達との差をあまりにも明確にしてしまう。どれも、この前まで普通だったはずのことだった。その全てが私にとっては普通ではなくなった。
そのときに感じたものは、「羨ましい」では無かった。
あの人達は当たり前みたいに明日覚えていられるんだ。
会話の一つ一つを覚えていられるんだ。
皆、皆、覚えてるんだ。
何で、覚えてられないんだろう。
何で、信じてくれないんだろう。
何で?どうして?
私に明日はあるのかな?
明日何を忘れるのかな。
不安と、悲しみが大きく、私にとって「また明日」は自他を隔たる分厚い壁になっていた。「また明日」という彼らには、「明日にはその人の事を忘れてしまうのではないか」という心配をするということが無かったから。
私はふと立ち止まって、通りすぎていく人達をそう思いながら見ることが多くなった。まるで私一人がモノクロで、私以外の全てに色がついているように、見えた。
私、たった一人が同じ世界にいながらにして異世界にいるような、そんな感覚。中二病かと言う人がいるなら、思ってくれて構わない。そう、それほどに私と私以外の人達の考え方も、住む世界も違って感じられたから。
この頃の私は、毎日が「人生最後の1日」だった。
今日友達であっても明日には忘れてしまっているかもしれない。
今日話したことは明日には消えているかもしれない。
どこまで忘れてしまうのかも、どこまで分からなくなるのかも分からない。頭の中に常にあったのは
「もしも記憶が全部消えてしまったら、それは私か?」
ということだった。
人間関係だけではなく、
自分のことがわからなくなったら?
習慣がわからなくなったら?
私にとって記憶が消えてしまうということは、つまり私自身の死と同じ意味をなしていた。
だからこそ、私には毎日人生最後の1日だった。明日、私は記憶を失うかもしれない。つまり、明日私は死ぬかもしれないと思うから。