妖の結婚
小さな山あいの村に、妖がやってきた。妖の視線の先には、機を織る少女がいる。少女はこちらに気づいた様子もなく、杼を動かしていた。
妖は勝手に家の中に入ると、さっと少女に近づいた。
トンカラリ、トンカラリと夢中で織っている姿に妖はすっかり見とれてしまった。
どのくらい経っただろうか、少女はやっと気づいて、目を丸くして目の前の生き物を見た。
「あの…あなたは?」
「お前、俺の女になれ。」
「……は?」
少女の返事を待つことなく、妖は少女を攫っていった。
少女が見回してみると、そこは庵のようだった。
「村へ帰してもらうことは…出来ないのでしょうね」
「嫁にならないなら殺す」
思ったより低い声が出た。妖は少女が怯えるだろうと思ったが、それに反して、少女はのんびりとした口調で言った。
「それならば妻になりましょう…殺されるのは嫌ですし」
呆気ないもので、少女は妖の妻になった。
***
今日は、妖は朝からどこかに出かけていた。妻はやることもないので、掃除を始めた。
いろいろな古びた家財道具の埃を払っていると、随分新しい機織り機を見つけた。妻のために用意したものなのだろうか。
手持ち無沙汰を紛らわすため、その機織り機を使うことにした。
妖が帰ってくると、妻は初めて会ったときと同じように機を織っていた。彼はそばに座って、じっとその様子を眺めていた。
しばらく眺めていると、妻は驚いたようにこちらを見た。
「帰っていたの」
妖はニッと笑った。
「やっと気づいたか」
「どこに行っていたの」
「人間ってのはすぐ飢えるだろ」
そう言うと、肉の塊をどっと置いた。
「ええと…それは?」
「イノシシだ、食うだろ?」
「食べるけれど…」
どう見てもそれは人間が一日で食べられる量ではなかった。
「これだけあれば、三日はもつわね」
「三日!?」
妖はしばらく黙り込んだ。全部食べろとでも言うのだろうか、と妻は身構えたが、やがて妖はにっこり笑った。
「じゃあこれから三日間は一日中一緒にいられるんだな」
すると突然妻が吹き出した。
「何がおかしいんだ」
「ふふっ、いいえ、とりあえず残りは干してしまいましょう」
全く腑に落ちない。妻が楽しそうなのは良いことのはずなのだが。
妻はいたずらっぽく言った。
「面倒なら、村に帰してくれてもいいのよ」
「嫌だ」
***
ここのところ、妻の食べる量が少し減っているように思った。心なしか、顔色も悪そうに見える。
「食欲ねえのか?」
「ええ、ちょっと」
俺の持って来る食い物は合わないか、と聞くと
「そういう訳ではないけれど…」
と言葉を濁す。
「何か足りねえもんがあるか?」
「うーん…そうね…」
妻はしばらく考えたあと、
「この山にも、灯篭流しを見られる場所はあるかしら」
あるはずだ、と答える。
「そこに連れて行ってくれる?」
「…そんなことで良いなら」
庵のある山の中腹には少し開けた所がある。そこなら灯篭流しをする川も人里の様子もよく見える。
「綺麗ね…本当に素敵」
「そうか?」
「ええ、高い所から見たのは初めてだけど、近くで見るよりずっと綺麗に見えるわ」
妻のこんな笑顔を見るのは初めてだった。目を輝かせる妻は、妖にとってはいつまでも見ていられるものだった。
帰る途中、妻は思い出したように呟いた。
「子どもが、出来たみたい」
「え」
「困る?」
そんなふうに考えたことはない。だいたい困ると言ったらどうするつもりなのだろう。
「子どもが出来たら、これからいろいろあるでしょう?その前に見ておきたかったの」
「そうか」
翌日、妖は肉や果実をどっさり持って帰ってきた。
***
妖は今日も、食べ物をとりにどこかへ出かけて行く。そうするといつも妻は一人きりになってしまう。
帰りたくない訳ではない。家族のことを思い出さない日はなかった。妖がいない今なら逃げることも出来るだろう。だが、妻はそうしなかった。妖の帰りを待ち続けていた。
「…どうしているかしらね」
呟いても、応える人はいない。
機を織っていると、子ダヌキがやってきた。
「あら、珍しいお客さんね」
いつもは妖が結界でも張っているのか動物は入って来られないはずなのだが、切れ目があったらしい。何であれ、孤独な妻にとっては願ってもない客だった。
子ダヌキは妻のすぐ近くに座った。
「あなたはひとりなの?」
尋ねると、子ダヌキは尻尾をパタンと打ちつけた。
「…そう、私もよ…もう少ししたら旦那様は帰ってくると思うけど」
急に妻のお腹が痛んだ。
「あら、お腹蹴ったわ」
子ダヌキは妻のお腹を珍しそうに見ていた。妻はお腹の中の赤子に嬉しそうに声をかけた。
「そうね、あなたもいたわ、ごめんなさいね」
妻は子ダヌキの方に向き直った。
「私の旦那様はね、人間ではないの。驚くでしょう?」
首をかしげた子ダヌキは、まるで「どこにいるの?」と言っているようだった。
「今は出かけているのよ。置き去りにされたわけじゃないわ。彼は私のこと大事にしてくれてはいるの、でも…」
妻の表情が少し曇った。だがすぐに打ち消すように首を振った。
「贅沢言ったらいけないわね、そうだ、栗は食べる?」
お腹が空いていたのか、子ダヌキが飛びついて食べる様子を、妻は楽しそうに見守っていた。
いつの間にか夕暮れになった。
「ほら、そろそろ帰りなさい…旦那様に殺されてしまうわよ」
あながち冗談でもない。名残惜しさはあったが、久々に出来た友を失いたくはなかった。
「また遊びに来てちょうだいね」
子ダヌキは振り返ると、尻尾を一振りして帰っていった。
***
今日も家に帰ると、妻は縁側に座って空を見上げていた。最近はいつもそうだ。あんなに空ばかり見ていて何が楽しいのか、いつ見ても同じじゃないかと言っても、笑ってはぐらかされる。
どこか寂しそうな顔で、何もない空を見る妻。それを見ると、胸のどこかがズキンと痛むのだった。
こちらに気づくと、その表情は消え、代わりに
「おかえりなさい」
と微笑む。
「風邪引くぞ」
と手招きすると、立ち上がって隣に座った。
「身重の女は体を冷やすな」
「少しくらいなら大丈夫よ、きっと」
妻は随分大きくなったお腹をさすった。
妖は自分の羽織を掛けた。
「あなた、寒いでしょう?」
「これくらい何ともねえよ、お前の方が震えてんじゃねえか」
「そうかしら」
いつものようにのんびりと言ったあと、ふとお腹に手を当てた。
「…生まれるかも」
「え?」
妻の陣痛は急に始まった。
最初は大して痛くもなさそうだった。ところがあっという間に妻は動けなくなり、こちらから何かするのもはばかられてしまうような様子だった。
思わず伸ばした手を握られる。自分の腕にすがって苦しむ妻を、ただ見ていることしか出来なかった。
永遠にも感じられた長い出産の末、妻は男の子を産んだ。息も絶え絶えの妻に言われるがままにへその緒を切り、赤子の体を綺麗にした。
「どっちだった?」
「男だ」
「そう、よく見せて」
無理に起き上がろうとする妻を止め、赤子を妻の横に寝かせた。
「小さいな」
「そうね、これから大きくなるのよ」
そうだといいのだが。そう思いながら、彼は赤子を撫でた。
それから数日後、妻は高熱を出した。思えば産んだ直後から具合が悪そうだったが、すぐ治るだろうと何もしなかったのがいけなかったか。妖が考えうる何をしても、妻の容態は一向に良くならなかった。それどころか時間が経てば経つほど悪くなっていくようだった。
「美味い物も食わせてやるし、お前が望むなら村に帰してやる、だから死ぬな」
すると、妻はか細い声で言った。
「どんなに願っても、死んでしまうことはあるの。それが人間というものなのよ」
それ以上、妻は何も言わなかった。
妻は息絶えた。
妻は最期まで「好き」と言ってくれなかった。
妻の亡骸を抱える妖の頬に、つうと何かが流れるような感覚がした。彼にはそれが何なのか、よくわからなかった。後から後から溢れてくるそれを止めることが出来ない。
「ほぎゃあ」
ふと振り返ると、妻が産み落とした赤子が泣いていた。こんな時でも、この赤子を見ると顔が綻ぶ。
そうだ、この子のお腹を満たしてやらなければ。
妖はふらりと立ち上がり、自分の赤子を抱き上げた。