近鉄名古屋線④
2回目の活動に参加しようと社会科教室にやってきた桜。
「お邪魔します」
しかし、木藤の姿はなかった。まだ来ていないようだ。
「ふう」
無人のまだ慣れない教室にちょっとばかり緊張感を覚えながら、机に腰を降ろした桜は、鞄の中からスマフォを取り出す。そして、その画面を見始める。
「お!本当に来てくれたんだ!」
スマフォの画面に集中していた桜に、聞き覚えのある声が掛けられる。
「あ!木藤先輩。お疲れさまです!」
「うん、お疲れ様」
「・・・あの、それは?」
木藤は何やらバッグを手にぶら下げていた。
「あ、これ?せっかく新人部員さんも来てくれたし、ただ一方的に話すだけじゃ悪いから。安物だけど、お茶とお菓子のセット」
木藤はバックから、カップを二つにスプーンとインスタントの飲み物各種、それからお菓子を机の上に並べていく。
「お湯は社会科教員室の使っていいって、江木先生に言われてるから。好きなのどうぞ」
「ありがとうございます。じゃあ、これいただきます」
カフェオレのスティックをとり、桜はカップに粉を入れる。木藤の方もコーヒーにミルクを足す。そして、教員室から借りてきたお湯をカップに注いだ。
「さ、さ。お菓子もどうぞ」
「はい。いただきます」
昨日とは打って変わって、和やかなティータイムで今日の部活動が始まった。
「さてと、昨日の続きだね。着々と標準軌への改軌工事を進めていた近鉄名古屋線だったけど、その計画を吹き飛ばす事態が起きた。1959(昭和34)年9月26日に東海地方を中心に来襲した伊勢湾台風だ」
「さっきちょっとスマフォで調べました。戦後最悪の台風災害だったって」
「その通り。特に伊勢湾沿岸では台風の来襲と満潮時刻が重なって高潮が起きて、堤防を越えた海水が海抜の低い地帯に襲い掛かったんだ。特に名古屋市の南区や港区、そして近鉄名古屋線も弥富から三重の県境付近までが大打撃を受けたんだ。ちなみに、弥富駅は日本一低い駅としてギネスにもなっているけど、それはJRの駅で近鉄の駅はより海側にあるけど、海抜は非公表なんだ。だから近鉄の駅の方がより海より低い場所にあるかもしれないね」
「海より低いって聞いても、なんかあんまりピンと来ません」
桜もそうした土地があることくらいは社会の授業で習っていたが、言ったことはないので実感がわかない。
「まあね。で、話を戻すけど被災した地域では駅も電車も水没、或いは線路も架線も流されて壊滅状態に陥った。幸いだったのは、木曽三川の新しい橋梁はこの台風の前日までに完成していて無傷だったこと。それでも、線路そのものが流されてしまった区間もあるし、しばらく水が引かない地域もあって、復旧は容易じゃない状況だった」
「東日本大震災もそうですけど、災害て本当に大変なことなんですね」
「そうだね。でも、日本人てそもそも災害ばかり起きる場所に住んでいるから。今も昔も、日本人はその逆境を跳ね返して生きてきたんだ。鉄道でも広島の原爆から3日で復活した路面電車とか、阪神淡路大震災で崩壊した東海道線を短時間で復旧させた前例があるよ・・・で、話を近鉄名古屋線に戻すと、当時の近鉄の社長は信じられない決断を下したんだ。伊勢湾台風からの復旧とともに、狭軌から標準軌への拡幅工事を、同時に前倒して行ってしまうことにしたんだ」
「なるほど。一緒にやれば、手っ取り早いですよね」
復旧工事と拡幅工事を一緒にやる。それくらいだったら、桜も驚かない。むしろ手っ取り早くていいんじゃないかくらいに考えた。
「そうだね。でもそれだけじゃないんだ。この工事を、当時の近鉄は10日間で行ったんだよ」
「ええ!?たった10日ですか!?」
さすがにこれには驚いた。
「そう。台風前の計画では10区間に分けた工区で、列車の通らない夜間に少しずつ進める予定だったんだよ。1960(昭和35年)1月に着手して、9月完成見込みでね。それを前倒したのみならず、台風からの復旧も兼ねて超スピードで行うって言うんだから、エライことだよ」
「8カ月の工事を10日でやるって・・・」
桜は絶句してしまった。
「だから綿密な計画が立てられたんだ。名古屋線全線を10カ所の工区に分けるのは同じだけど、さらに突貫工事に必要な資材と人材、代行運転に必要なバスが用意されたんだ。さらに工事の開始も台風から2カ月後の11月、まだ水が完全に引ききっていない地域が残る状況で行われたんだ」
「よくそんなことできましたね」
「近鉄が社一丸になって行った大プロジェクトだからね。それに、当時は高度経済成長へ向かう時代だから、そうした時代の気風もあったのかも。何せ近鉄は記録映画まで作ったから。投じた資金も莫大で、当時の金額で60億円、さらに動員した関係者も橋梁や線路の拡幅、車両の改造工事の関係者全部合わせると伸べ人数30万。今だったら絶対に出来ないよ、こんなこと」
「で、上手く行ったんですか?」
「じゃなきゃ伝説にならないよ。しかもこの工事、ただ単に線路の幅を広げたり、台風で流された線路を復旧するだけじゃダメだったんだ。他にも課題があった。その一つが、名古屋側に取り残された車両をどうするかだった」
「どういうことですか?」
「伊勢湾台風による冠水で、名古屋線は木曽三川付近を境に南北に分断されたんだ。それぞれ台風後に順次復旧したんだけど、標準軌への拡幅は南側から順に行われたんだ。そして、狭軌の台車を標準軌へ交換する工事を行っていたのが、南側にあった三重県の塩浜工場だったんだ。で、南から順繰りに工事を進めていくと、分断されていた北側、つまり名古屋側にいる車両が塩浜の工場に行けないまま、線路だけが標準軌になっちゃう。そこで、近鉄線を通らずに名古屋から塩浜に車両を回送したんだ」
「近鉄線を通らずですか?トラックで道路の上を運んだとかですか?」
桜は前に新幹線をトラックで運ぶという話を思い出して、そんなことを聞いてみる。
「う~ん、違うよ。正解は国鉄、今のJRを使ったんだ。国鉄の線路幅は狭軌だから、車両はそのまま線路上を走れるんだ。で、近鉄の名古屋駅の一つ手前の米野と、工場のある塩浜はそれぞれ国鉄の線路が隣り合ってたんだ。だから、それぞれに仮設の連絡線を敷設して、国鉄線経由で回送したんだ」
「へえ~」
「そんな感じで工事は順調に進んで、1959(昭和34年)11月19日にスタートした拡幅と復旧工事は予定通り27日には完成。当時の社長が米野の駅で金色の犬釘、犬釘って言うのは線路を枕木に固定する釘のことね。それを指して完成式が行われた。そして30日に大阪線と名古屋線が連絡する中川駅の交差渡り線の設置を持って完全に終了。翌月の12月12日から、大阪線と名古屋線を直通する名実ともに名阪特急が運行を開始した。この前日には中川駅に大阪と愛知の知事を迎えての出発式も執り行われたんだよ」
「知事が出るって、スゴイですね」
「当時鉄道に直通特急が走るって言うのはそれだけインパクトがあることだったんだ。この工事の完成で名阪間は2時間で乗り換え無しで結ばれたんだ。最初は伊勢中川の駅でスイッチバック、つまり方向転換のために停車が必要だったけど、昭和36年には短絡線が完成して、中川駅も通過するようになってさらにスピードアップした。車両も最新型になって、サービスも格段に良くなった」
「便利になったんですね」
「そうだね。ただこの工事の結果消えたものもあるよ。完全に存在意義を失った伊勢電の残存区間の伊勢線は改軌されず2年後の1961(昭和36)年に廃止になったし、それから近鉄名古屋駅にあった名鉄との連絡線も廃止になった。名鉄との線路幅が変わったからね。この連絡線は何回か団体列車が行き交っただけで、あまり意味ない結果になった」
「でも、近鉄にとってはそれ以上にメリットがあったんですよね?」
「もちろん。これで名古屋から大阪のみならず、伊勢とも直行できるようになったから・・・ただね、名阪特急の繁栄は長くは続かなかったんだ」
「どうしてですか?」
「名阪特急が直通を開始した5年後日本の、いや世界の鉄道の歴史を変える事態が起きたから」
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