表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

16/21

鉄道連絡船 ⑤

9月26日が厄日過ぎる・・・

「青函航路は、青森から函館まで津軽海峡を渡っていた航路で、この航路では関門航路では早くに終わった車両航送、つまり貨車や客車を船で運ぶことが最後まで行われていたよ」


「フェリーの鉄道版ということですか?」


「いや、そもそもフェリー自体が人や車両を運ぶ渡し船とかそう言う意味だよ。自動車を運ぶ船を特にカーフェリーて言うしね。まあ、そう言う細かいことは別にして、青函航路に話を戻すね。青函航路が国鉄の航路として就航したのは1908年(明治41年)のことだよ。最初の頃はまだ青森と函館、どちらの港にも桟橋がなくて、客も貨物も一端艀に載せ替えて沖の船まで運んでいたんだ」


「面倒ですね」


「そうだね。その後もしばらくはその形が続いたんだ。貨車の航送も艀や自航船ていう小型船で行っていたんだ。その状況が大きく変わるのは1925年(大正14年)のことで、まず函館。続いて青森に可動橋が完成したんだ。これは岸壁と船を繋ぐ可動式の話で、陸の桟橋まで引き込まれた線路と、船の車両甲板に敷かれた線路を繋ぐ話でもあったんだ。つまり、陸の線路から船の車両甲板まで、可動橋を介して貨車や客車を直接船に載せられるようになったんだ。もちろん、船の方もそれに合わせた船が投入された。以後この形が1988年(昭和63年)の航路廃止まで続くんだ」


「今だったら青函トンネルで新幹線か、飛行機であっと言う間ですね」


「それだけ便利になったのは、本当に最近のことだね。飛行機も鉄道も未熟だった時代は、延々と鉄道で東北地方を十時間以上掛けて北上して、さらに青函連絡船と北海道の鉄道を乗り継いで北海道各地に行くしかなかったんだから。東京あたりから北海道に旅行するなんて言ったら、それこそ1週間以上は見なきゃいかなかっただろうね」


「ひえ~」


 今なら飛行機を使えば1泊2日でも済んでしまう。桜は今の時代の便利さを改めて認識する。


「そんな時代だからこそ、北海道と本州を結ぶ大動脈として青函連絡船はあり続けたんだ。でも他の航路と同じく、戦争と言う受難の時代から逃げられなかった。特に青函航路は、戦争とその後の台風で国鉄航路史上最凶最悪の被害を被ったからね」


「やっぱりそう言う話になるんですね」


 もう何度目かのことであるが、憂鬱な話題に溜息が出る桜。


「日本の歴史上、太平洋戦争はあらゆる場面に影響を与えたからね。戦争の時代、御多分に漏れず青函連絡船も輸送量が激増して、昭和19年以降第五から第十までの青函丸が連続投入されたんだ。これらはW型戦時標準船だったんだけど、設計を簡略化して建造資材も節約した戦時急造船だったから、座礁事故や衝突事故でも簡単に沈んだとされてるよ。特に第九青函丸に至っては、浦賀の造船所で完成して函館に回航する途中で千葉県沖で沈没したから、連絡船として使われないまま沈んじゃった」


「手を抜いた弊害ですね」


「まあね。それに、事故じゃなくても青函連絡船は大打撃を被ったし。1945年、昭和20年7月14日。終戦の1カ月前に行われた東北から北海道に行われた大空襲で、青函連絡は敵機の格好の目標になった。その結果、ドックに入って修理中だった2隻を除く10隻全てが撃沈もしくは擱座炎上して喪われて、この1日で青函連絡船は事実上全滅しちゃったんだ」


「悲惨ですね」


「国鉄は青函連絡船の疎開や避難を具申したらしいけど、海軍に退けられちゃったって言うし。オマケにこの頃日本の防空戦力は枯渇するか本土決戦のために温存して飛んで来ないから、青函連絡船はわずかな対空火器以外自分の身を守る術もなかったし。そしてこの空襲で、実に349名の船員が命を落としてる」


「お気の毒に」


「戦争なんて理不尽で悲惨なものだよ。でもね、例え戦争でどんな悲惨な目に遭って、負けて屈辱を味わったとしても、時は止まらず進んで行く。青函連絡船もまたしかり。北海道と本州を結ぶ動脈として、復活しなきゃならなかった。だから戦後すぐはドックに入っていて無事だった船や、他の航路からの転用、さらには米海軍からLSTていう戦車輸送艦を借りて急場を凌いだんだ」


「もうなりふり構わずって感じですね」


「それでも、戦後すぐの混乱の時代だからね。当時の船は皆石炭炊きだったそうだけど、その燃料の石炭の質や量も悪くなってたから、故障船が続出したそうだよ。こうなると、やっぱり新造船が必要ってことで、さすがにGHQも必要性を認めたんだろうね。1946年には新造船の建造が認められたんだ。で、翌年には1番船の「洞爺丸」が竣工して、以後続々と新造船が完成して、最終的には貨車船と貨客船合わせて14隻の体制にまでなったんだ。終戦後すぐの時代に、よくやったもんだよ」


「でも、それで青函連絡船も復活したんですね」


 しかし、桜の言葉に木藤は首を横に振る。


「ところがどっこい。現実はかなり厳しいんだよ、江田さん。この復活した青函連絡船がまたも壊滅する事態が引き起こされたんだ。1954年の9月26日に来襲した台風15号によってね」







御意見・御感想お待ちしています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ