鉄道連絡船 ②
「まず関門航路だね。この航路は文字通り関門海峡を渡る航路で、九州の門司と本土側の下関を結んでいたんだ。後で話す青函航路や宇高航路と違って、車両の航送は早い時期に終了して、晩年には小型の船が旅客輸送だけしていたみたいだよ。この航路は太平洋戦争中の昭和17年7月に下関と門司を結ぶ海底トンネル、つまり関門トンネルが開通したことにより、実質的には鉄道の代替手段としての連絡船としての機能を終えたから、仕方がないけどね」
「じゃあ、その時に廃止に?」
「いいや、さっきも言った通り旅客は続けたんだ。地域の足ってことで戦後もしばらく営業を続けていたよ。ただその後、関門トンネルに自動車トンネルも加わったりしてさらに乗客が減って、結局廃止されたよ。正式な廃止は昭和39年だね。ちなみに、この関門航路時代の旅客連絡通路や、戦時中の乗客監視用の監視口が今も九州側の門司港駅に残っているよ。それから、門司港には九州鉄道記念館とか貨物船を転用したトロッコが走る観光路線とかもあるし、観光施設も充実しているから行くと楽しいよ」
「あ、なんかテレビだったか本で見ました。古い建物がたくさんあるんですよね~。へえ~行ってみたいです」
羨望の眼差しをする桜を微笑ましく見ながら、木藤は話を続ける。
「次に同じく関門海峡本州側の下関から、今の韓国の釜山までを結んだ関釜航路だね。この航路は、後で紹介するけど稚泊航路と同じで戦争で消滅した航路だね」
「戦争で消滅ですか?」
「そう。近鉄の時にも話をしたけど、日本の鉄道界にも大きな影響を与えた太平洋戦争、当時の呼称だと大東亜戦争だね。この関釜航路の就航自体は1905年に九州鉄道によって開始されて、翌年その九州鉄道が国有化されたことで国有の鉄道連絡船になったんだ。そしてこの関釜航路は欧亜連絡ルートの主要ルートの一つになった」
「欧亜連絡?」
「ヨーロッパとアジア、まあこの場合は日本だね。飛行機が発達していない戦前、日本からヨーロッパに行く場合の方法は限られていて、船でインド洋・地中海を経由して行く船旅。それから、一端大陸に渡ってそこからシベリア鉄道で大陸を横断する方法くらいしかなかった。そうなると、日本から大陸に渡る場合のルートは朝鮮半島か、今の中国東北部、当時の満州に渡るルートなわけだけど、朝鮮半島の場合は釜山から満州に直結する鉄道が開通していたから、日本の国鉄から連絡船を乗り継いで、朝鮮総督府鉄道の京釜線を通れば満州までスムーズに行けたわけ」
「朝鮮総督府ですか?」
桜が聞き覚えのない単語に首を傾げる。
「江田さんはまだ習ってないかもしれないけど、日本は1910年に大韓帝国を併合して、大日本帝国領朝鮮としたわけ。この朝鮮半島の統治機関として設置されたのが、朝鮮総督府。当時の幹線鉄道は鉄道省の管理下、つまり国の管理下だったわけだけど、朝鮮半島の鉄道も重要な幹線は朝鮮総督府の経営になったわけだね。特に釜山から今のソウルである京城、平壌を通って満州に直通する南北縦貫ルートは、国家戦略上も重要な路線だったんだ」
木藤は一端区切って、お茶を口にして喉を潤す。
「で、昭和10年代にはこの南北縦貫ルートに中国の北京に直通する「興亜」に、満州の首都新京まで直通する「のぞみ」に「ひかり」て言う急行列車まで走ったんだね」
「「のぞみ」に「ひかり」ですか?まるで新幹線ですね」
「そうだね。ただし、朝鮮半島を走った「のぞみ」と「ひかり」は戦前の列車だから、当然SL引きだし、展望車や食堂車を備えた豪華列車だったんだ。で、東京から特急「富士」で下関まで行って、関釜連絡船で朝鮮半島に渡り、その朝鮮半島から満州へ向かうそれらの速達列車とシベリア鉄道を経由すれば、だいたい東京から2週間くらいでドイツのベルリンやフランスのパリに到着できた。飛行機が発達した現在からすると長時間だけど、それがない当時としてはそれでも充分だったんだ」
「時代を感じますね」
「また関釜航路は国内航路としても重要な足となった。併合後の朝鮮半島が日本国内になったことで、日本本土と朝鮮半島との人や貨物の往来は自然に増加し、その主要な連絡航路である関釜航路の利用者も増加して、配船される船も大きくなった。特に昭和11年進水の「金剛丸」、そして太平洋戦争開戦直前に進水した「天山丸」は、それまでの「景福丸」や「高麗丸」が3000総トン程度だったのに、一気に7000から8000総トンていう、倍近い大きさになった。まあ、とにかく第二次大戦開戦直前ぐらいが、関釜航路にとっての黄金期と言えるかな」
「ああ、そうなると戦争で・・・」
ここまで聞けば、桜も話の結末が見えた。
「そ。特に昭和16年12月に始まった太平洋戦争は、最終的に大日本帝国を滅ぼすことになったけど、関釜連絡船も滅ぼすことになった。戦時下の鉄道は軍需輸送が優先されて、当然旅客列車は減らされていった。それどころか、そもそも旅行自体がし難くになってしまった。この頃のポスターには、不要不急旅行の取りやめを奨励する文言が並んで、さらに戦局が悪化すると切符の発売数が制限されて自由に列車に乗るのすら難しくなった。そしてついに、戦火そのものが乗客に襲い掛かる時がやってきた・・・昭和18年10月にね」
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