観音湯にて
入れ墨を背負っている方の入湯をお断わりしています
桑折優作の少年時代は貧乏を感じさせると云う訳ではなかったが実際の家計は逼迫していた。桑折自身もそんなに苦労した訳ではなかったのだがウチはきっと貧乏なんだろうな、と云う事を何となく分かっていた。母は、見栄坊な神戸の人だったから子供が貧乏によって苛められるのが耐えられなかったのだろう、どんなに辛い家計状況だろうが何時も教科書や勉強道具は買ってもらえたし、弁当のオカズが三品以下になる事はなかった。周りでは、白米だけの奴も居たからウチはまだマシなんだなぁと思っていた。家には風呂が無かったから三日に一遍くらいの頻度で近場の銭湯
「観音湯」に通っていた。桑折はそこで呑むフルーツ牛乳を何より愛した。
ある日の桑折少年は一人で観音湯に浸かっていた。父は漁で遅くなるそうだから一人で行っておいでと三百円を渡された、桑折の母はなぜ一緒に行かないのか、と考えるのは読者の想像する野暮なことに相違ないが。しかし桑折の頭の中は一人で銭湯に行くと云う興奮で一杯だったので特に何の疑問も湧かず洗面用具の入った籠を掴み行ってくるわ、と家を後にして民家の入り組んだ所ある観音湯へ駆け足で向かった。暖簾をくぐり番台のオッチャンに百円渡して中に入る脱衣籠は何時もと同じ場所だ。
オッサンの脱ぎ散らかした服からは潮っぽい匂いがした。そして洗い場に入り股間を洗ってから湯に浸かるに至ってたのだが、現在、少年の目にはオッサンたちのシガナイ体ではなく精悍な顔つきの男しか映っていない。何故ならその男の背中には鼻がシャゲては居るが猛々しい獅子と肉厚な緋牡丹が描かれていたからだ。そして男の腰には何も巻かれておらず、だらりと垂れた陰茎が桑折少年が知っている諸々の大きさを全て否定するような特別な陰を持っていた。男は掛り湯を済ませ、少年が居る浴槽に浸かった。男の両の肩にも墨が入っており生温い湯に遊ぶ生首は機嫌が良さそうだった。首と一緒に咲く牡丹は生首の血を吸って育つ様に更に赤く染まっていった。浅黒く焼けたからだは、余すところの無いしなやかな筋肉に覆われていて図鑑か何かで見たサバンナで暮らす肉食の動物を思わせた。近ごろの憧れであった優しい漁師見習いの兄ちゃんの身体も確かに隆々とした力強い美を持っていたが心を揺さ振るほどの美は兼ね揃えていなかった、その日、入れ墨というゲイジュツによって武装された肉体に少年の美的感覚は補完された。
「柴又、われぇぇぇ!」風呂場に響き渡る声の主は入り口付近で匕首と呼ばれる短刀を持った青白い貧弱な男だった。ギラギラと血走った目が入れ墨の男をとらえていた。柴又と呼ばれた男はゆっくりと振り返り、「おう、亮二」と言って急ぐでもなく立ち上がり一度伸びをしてから浴槽の縁に仁王立ち「そがいなモン持たなワシに勝たれんのか」と言った。かっこいい、と思った。
「お前獲ったらワシが一番じゃ、」
そう云い終わるか、と言う内に匕首を御命頂戴とばかりに構え柴又に向かって突進する亮二と云う男。唐獅子の背中ばかりで見れないがその顔は笑っているに違いなかった。相撲でよく有る様に亮二の刃先を躱し軽くいなすと大袈裟に風呂に突っ込んだ亮二の首根を掴み、その頭を風呂桶で容赦なくぶん殴る姿は血の池で罪人を折檻する鬼だ。桑折少年は、数秒の出来事に訳が分からずボンヤリとしていたが湯が僅かながら赤く染まった事に恐怖した。亮二が完璧に伸びたのを確認した柴又は桑折少年に向かって微笑み
「坊、すまなんだの。脅かしてもた」
後でコーヒー牛乳奢っちゃるきな
怖くて顔を上げられなかった少年がずっと見ていたのは柴又の股にぶら下がる立派な逸物だった。ゆっくりと頷くと柴又は亮二の首根を掴み、のしのしと洗い場から出ていった。匕首が浴槽の底で揺らめいた鈍い光を放っていた