金の斧、銀の斧1
正男は沼のほとりで途方にくれていた。
彼女をやっとのことで口説き落として一泊旅行に連れ出したまではよかったが、宿からハイキングに出て道に迷ってしまったのだ。それでも何とかさまよった末に、古びた沼のほとりにたどり着いた。深い木々に埋もれひっそりと息づく、地図にも載らない小さな沼だった。
ムードある景色の中で恋人と二人きりになって、道に迷った失敗もかえってムードを盛り上げる絶好のお膳立て。沼の水は信じられないくらい透き通っていた。しかし、それでも底を見通すことができないのは沼がとても深かったからだろう。
水に指をひたすと氷のように冷たかった。
「愛美、ここへ来てごらん」
沼のそばに立った愛美もまた沼の美しさに魅了され、それまでの疲れも忘れてため息を漏らした。そして水面をのぞき込み……
「キャッ!」
突然、彼女はバランスを崩して水中にすべり落ちてしまった。
そして、沼の水の冷たさに凍りついたかのように愛美は悲鳴を上げる間もなく、たちまち水中に沈んでいった。沼は女を飲み込みながらあわ立ったが、直ぐに元の静けさを取り戻した。
全ては一瞬の出来事だった。
正男は直ぐそばにいながら一瞬の出来事にただ呆然と立ち尽くすしかなかった。飛び込んで救おうにも彼は全く泳げなかったし、この冷たさでは彼女と同様、心臓麻痺を起こしてしまうだけだった。今更、助けを求めて山を降りても間に合いはしない。
正男は再び鏡のように静まり返った水面を見つめて、途方にくれた。
一体どれくらいたっただろう。
はっと気付くと水面が波立っていた。風は全く吹いていないのに。
と思うと急に水面が逆巻き、中から後光を輝かせながら一人の男が現れた。
その男は腕に一人の女を抱きかかえていた。
『この女はお前が無くしたものか?』
正男は何が起こっているのか分からないまま、恐る恐る差し出された女を見た。それは愛美ではなかった。彼が反射的に首を振ると沼の神は(水中から現れた後光をもつ男はそうとしか形容のしようがなかった)水中に消え、再び、別の若い女を抱えて現れた。
今度は少し落ち着いて、腕の中の女を見ることが出来た。これまで見たこともないような美人だった。そう言えば最初の女も、愛美とは比べ様もないほどの美人だった気がする。
正男は思わず、「その女です」と言いそうになった。
それでも彼がなんとか思いとどまることができたのは、子供の頃に読んだ昔話を思い出したからだった。自分の鉄の斧を沼に落としたきこりが、沼から現れた神様の差し出す金の斧、銀の斧を正直に自分のものではないと答えることで自分の斧だけでなく金の斧、銀の斧までも手に入れたという、例の話だ。
これはその話と全く同じ展開ではないか。
正男は慎重に考えた。斧の代りに今回は女と言う訳だ。もしそうだとすると(そうに違いない!)ここでウソを言ってはいけない。神から不正直をなじられて、何も返して貰えなくなるからだ。
彼は必死の思いで二人目の女にも首を振った。
沼の神はそのまま黙って水中に沈んでいった。沼は再び静まり返り、これ以上何も起こらないように思えた。
正男は永遠に待たされているような気がした。彼は待っているあいだ中、後悔し続けた。このまま神が現れなければ、とんだ馬鹿をみたことになる。あの美人を受取っていれば……。
しかし、正男の賭けは成功した。
沼の神は再び、女を抱えて出現したのだ。前の二人から大きく見劣りしたが、今度こそ確かに愛美であった。正男は叫んだ。
「はい、絶対に絶対にその女です」
『お前は本当に正直な男である』
神は満足そうに頷いた。
『お前の正直さの褒美に、このもの達を与えよう』
そう言うと神は正男の前に先ほどの美人を二人横たえ、ウインクをしながら沼に戻っていった。
正男はあまりにも狙い通りになったことにビックリしながらも、二人の美人と愛美を交互に眺め、これからの幸せな日々に胸を震わせ、目覚めの時を待った。
第一の美人が最初に目覚め、正男を見つめ微笑んだ。
やがて、二人目の美人も目覚め、正男の手を取った。
最後に愛美が目を覚ました。彼女は正男と女たちに気づき、たちまち様子を見て取ると、彼をにらみつけて叫んだ。
「一体これはどういうわけ?」
「いや、これは沼の神様が……」
彼女に言い訳が通じるわけはなかった。