オッサン Ⅶ
ラオフェンの運送屋を出発して30分も歩くと、薄暗い山中にリュメルとモッぺルが話していた滝が見えて来た。滝の水しぶきと水面に映る月明かりのおかげで、まるでその辺りだけが薄らと光っているかのように見える。そして、その輝きのせいで奥の林に半分隠れる洞窟の入り口付近は真っ暗な闇に沈んで見えた。
「この洞窟です」
そう言ってリュメルとモッぺルが立ち止まる。
「中はどうなっているんだろう?」
「よく解りませんがけっこう深いようです。オレたちが大きな荷物を運び出した時には、洞窟に入ってすぐの所に置いてありました」
「そ、そうか──」
そう言えば、コイツらにはまだその大きな荷物が、オレだと言う事を知らせていなかった。でも、今は長い説明をしている暇が無い。オレたちは取りあえず洞窟の中へ入ってみる事にした。
ランプで足元と先を照らしながらゆっくりと進む。少し湿り気を帯びた洞窟の中は、リュメルとモッぺルが言う様に思った以上に深く、明かりを照らしても先がよく見えない。時折、小さな蜥蜴や虫がいるだけで同じような景色がしばらく続く。そして、更にしばらく進むと道が二手に分かれていた。
「どうします?」
「二手に分かれてみるっスか?」
「そうしよう」
何かあったら大声で叫び、この二股に分かれる地点に集合する事にし、リュメルとモッぺルが右へ、オレとポルチは左へと進んだ。ポルチは途中の山中で拾った小枝を振り回しながら、まるで緊張感のない歩き方で進んで行く。洞窟は曲がりくねりながら続く。その時、オレの股間に『危険』を知らせる合図が走った。その直後に洞窟の先にぼんやりと明かりが見える。
「明かりが見えるっスね」
「ほ、本当だ。何だろ──」
その先は少し開けた空間になっており、小さな祭壇の様なものが置かれ、その上に置かれた燭台に火が灯っている。その異様な雰囲気にオレたちは眉をひそめて顔を見合わせた。こんな場所に何かを祀るのは、この世界ではごく普通の事なのだろうか。それに、祭壇周辺に付着するヌルヌルとした付着物も気になる。周囲を見回すポルチの顔に明らかな警戒心が見て取れる。
「ポルチさん、これって何だろう?」
「解んないっス。ただ、何かヤバそうっスね」
オレたちがその祭壇に近付こうとした時に、奥の暗闇で大きな何かが蠢く気配を感じた。それはまるで闇自体が動いたかの様な異様な雰囲気だった。
「こ、これって──」
「サトウ、逃げるっスよ!」
その言葉と同時にオレとポルチは出口に向かって駆け出した。しばらく行くと分岐が見えて来た。
「リュメルさん! モッぺルさん! 逃げて!」
オレは反対側の洞窟の闇に向かって叫んだ。後ろから大きな何かが這って来る気配を感じる。このままリュメルとモッぺルを待っている場合ではない。暗闇にだいぶ目が慣れてきたオレたちは、洞窟に入る時よりも周囲がよく見えるようになっていた。もはやランプは邪魔でしかなかった。それ以上に杖も邪魔でしか無かった。しかし、この世界で底辺にいるオレはどちらも投げ捨てる訳にもいかない。出口に向かってひたすら駆けるオレたちの後から、ズリズリと大きな何かが這って来る音が聞こえる。すぐそこまで近付いている。
出口が見えて来た。漆黒の闇が広がる洞窟の中に比べれば、外は夜とは言えずいぶんと明るくすら感じる。滝の水面に反射する月明かりに照らされて、オレたちの後を追って来る物の姿が闇の中に薄らと浮かび上がる。テラテラと輝く顔と思しき先端部分には、穴の様な口が見えるだけで目は見当たらない。
「うぎゃーーーー!!!!」
そこにはアラフォーのオッサンが、思わず悲鳴を上げる程の衝撃的な生物が蠢いていた。それは、赤黒い皮膚をした男性の太股より太い、5メートルを超える巨大なミミズと芋虫を掛け合わせた様な化物だ。
「サトウ、布で口と鼻を押さえるっス!」
化物の姿を確認したポルチが口元を押さえながら叫ぶ。
「な、何だよコイツ!?」
「マンドラヴルムっス。こんなにデカイのはオイラも初めて見るっス──」
ポルチがゆっくりと後ずさりしながら、静かに言葉を続ける。
「コイツ自体は大して危険じゃないっス。でも、コイツの吐くガスを吸うとかなりヤバイ事になるっス」
マンドラヴルムはダラダラと口元から粘液を垂らしながら、コチラの様子を窺っている。その時、洞窟の中からリュメルとモッぺルの声が聞こえる。
「サトウさーん! ポルチさーん! 大丈夫ですかー!」
「大丈夫だ! それより、コイツの吐くガスに気を付けろ!」
「!?」
リュメルとモッぺルは洞窟の入り口付近で、月明かりに照らされながらウネウネと蠢く赤黒い怪物の姿に言葉を失いながら、その場に立ち止まって遠巻きに警戒するのが精いっぱいだ。すると突然、怪物が何かを感じ取ったように、頭らしき先端部分をあちらこちらに動かし周囲を気にする様な素振りを見せたかと思うと、急に振り返り洞窟の中のリュメルとモッぺルの方へと向き直った。
「コ、コレって──」
「落ち着いて! 刺激しちゃダメだ」
怪物がゆっくりと何かに気を取られるように、リュメルとモッぺルの方へ近付く。
「その手に持ってる果物っス! それを狙ってるっス! 早く投げるっス!」
リュメルがその手に持つ、リンゴの様な赤色の果物に視線を向ける。怪物が口から涎の様な粘液を垂らしながら、自分の方へと近付くのを感じたリュメルは慌ててその果物を洞窟の外へと放り投げた。放物線を描いて洞窟の外へ出た果物は、そのまま転がってオレとポルチのすぐ傍で止まった。
「あっ……」
怪物は一瞬、果物の位置を見失ったかのように頭を宙でうねらせた後、ゆっくりと進路を変えて、オレたちの方へと勢い良く這いずって来た。オレとポルチはすぐに間合いを取る様に果物から離れ茂みの中を移動する。
「バカたれがぁー!」
「す、すみません!」
アイツは後で一発殴ってやろう。リュメルだったかモッぺルだったか、どっちでもいい。とりあえず殴ろう。でも、今は目の前の化物に集中しなければ。マンドラヴルムは匂いにはかなり敏感な様だ。果物を見付けると飛び掛かる様にして加え込み、一口で飲み込んでしまった。
これからどうする。全力で走れば逃げ切れるのだろうか。でも、どこへ逃げる。万が一、オレたちの匂いを辿ってラオフェンたちの場所まで引き連れてしまう事になれば、ラオフェンの運送屋の皆だけでなく、近隣の農村地帯に住む者たちにも被害が及ぶ可能性があるのではないか。その時、突然、何者かの声がする。
「おぉ! 主様! この様な場所までお出になられるとは──」
誰だこのヨレヨレのコボルトは。そいつはボロボロの身なりで両手に果物を抱えて、どこからともなく現れた。疲れ切った顔つきのくせに、目だけが異様な輝きを放ち、ある種のヤバイ空気を放っている。
「ブ、ブルメンさん!?」
「何してるんですかこんな所で!?」
リュメルとモッぺルが口々に声を上げる。コイツがブルメンか。
「おぉ。お前たち。お前たちも、ようやく主様の素晴らしさに気付いたか!」
リュメルとモッぺルにそう話し掛けると、ブルメンはゆっくりとマンドラヴルムに歩み寄る。
「さあ、主様、捧げ物をお持ちしました。どうかお導きをお願い致します──」
ブルメンが果物を差し出すと、化物は口元から粘液を垂らしながら身をくねらせる。そして、一度、身を縮めたかと思うと勢い良く伸び上がり、その刹那に口から勢いよく桃色のガスが噴射された。一瞬にして辺りが桃色に包まれる。噴射の勢いで倒れ込んだブルメンは、その場に転がり恍惚とした表情を浮かべたままだ。
「ブルメンさん!」
『ありゃダメっスね──』ポルチはそう言うと口元を押さえながらそそくさと場所を移す。ガスの範囲は思った以上に広く、あっと言う間に目の前に桃色の霞みが掛かる。オレもポルチの後を追うように場所を移す。
マンドラヴルムは地面に転がった果物を食い尽すと、まだ物足りないとばかりに体をうねらせながら辺りを探る。そして、ブルメンの足元に転がる果物を見付けると勢い良く飛び付く。
『グバッ!』マンドラヴルムは果物を一口で飲み込む「!!!!」
それと同時にブルメンの片足まで吸い込んだらしく、ぼんやりとした表情で粘液まみれになったブルメンが、ブツブツと何か呟きながら起き上った化物の口元から逆さ吊りになっている。
「ポ、ポルチさん? 大して危険じゃないんじゃなかったの?」
「滅多にオークやコボルトなんかを襲う事はないっス。一応、雑食性っスけど──」
「雑食性なの?」
「そうっス」
「滅多にって事はたまには襲う?」
「かも知れないっスね」
その直後に聞こえた『ズシャッ』という鈍い音が、オレとポルチの間抜けな会話を途切れさせる。粘液と一緒に吐き出されたブルメンが地面に叩きつけられた音だ。粘液に塗れて地面に転がったブルメンはニヤニヤしている。ある意味、無事では無さそうだが命に別条は無さそうだ。
オレの股間が最大の警笛を鳴らしまくっていた。