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作家の見る夢と現実

 小説家というのは、言葉を扱う職業だと思う。言葉によって世界を掘り出すのが仕事と言ってもいい。しかし、こうした言葉の使い方は一般人に興味のない事なので、無視されたり、軽蔑されたりする事も、割りと普通の事であると言っていい。この国で、詩がほとんど読まれず、まだ小説の方が読まれるのも、そういう意味合いがある。詩人の言葉の使い方は、普通の人の言語の使い方とは違うのである。そしてそれ故に、詩人というのは夢想的な、世間知らずの人物であるという勘違いも生まれる。本当は詩人は純正な意味で科学的な言葉の扱い方をする(しなければならない)のだが、このあたりの事情は世間にはまず通じない。



 しかし、その事はまあいいとしよう。詩人が夢想的な人間だとか、詩人(笑)と世間から馬鹿にされるのもよしとしよう。彼らが百年前の中原中也を興を持って読み、今現在の「中原中也」を笑い、蹴飛ばすとしても、まあ、それもいいとする。それも別にいいだろう。そんなものだ。しかし、僕はもう少し話を先に進めたい。問題は今現在の「小説家」だ。僕にとっての疑問は、今現在の小説家が、ほとんど言葉を扱う職業という事を忘れているのではないか?という事だ。


 

 それは例えば、黒田夏子のような、一見言葉にこだわっている作家でもそうだ。それは朝吹真理子などでもそうだと思う。彼らが言葉を扱う職業としての小説家としての立場を意識しているかと言うと、そうではないと僕は感じる。しかし、今はわかりやすくする為に、朝井リョウとか、その手の小器用な作家について考えてみよう。



 今の作家というのは、朝井リョウとか、あるいは綿矢りさとか、だれでもいいが、大抵はリアリズムみたいなものを使って小説を書いている。そこに書いてある会話の文を見ると、実際にそういう会話を現実の人物が話しそうな気がする。しかし、重要なのはその点ではない。問題は作家が、言葉という道具を使ってある世界を体現しえているかどうか?という事だ。こういう問題について無頓着なままに今の作家は小器用な小説を書く。そしてその結果、彼らは揃いも揃って通俗的な作品を書くようになる。



 例えば、朝井リョウという人は、就活をリアルに描いた小説を書いたそうだ。しかし、では、それを「何故」作家は書かなければならないだろう? おそらく、この手の作家がこういう問題を自分で自分に問いかけた事はないだろう。また、黒田夏子のような作家が書くものが、そこにどんな価値があるのか? 何故、そういう事を自分が書かなければならないのか? …もちろん、この何故の答えは別に出なくても良い。重要なのは問いかける事だ。人間がある生活をしているとして、どうしてそれを作家が描かなくてはならないのか?


 

 僕個人の考えを簡潔に言ってみる。例えば、フローベールのようなリアリズムに徹した作家がいる。しかし、フローベールには思想がある。何故か。フローベールにおいては、ボヴァリー夫人、エンマの生はある思想の象徴なのである。もちろん、作品のどこにも、ボヴァリー夫人が何かの象徴であるとは書いていない。しかし、このリアリズムは、それがフローベールの思想を体現する上で機能する一方法なのだ。僕はその事を信じて疑わない。フローベールがただ、リアリズムで書けばそれでいいだろうと考え、適当に不倫の話を書いたとは思わない。ボヴァリー夫人の問題はすなわち、フローベール自身の重要な問題だった。しかし、その関係はリアリズムという方法論で結ばれている為に、我々にはフローベールの思想は隠れて見えないようになっている。



 もう少し方法論の問題を進める。おそらく、ドストエフスキーが文学の世界に一革命を起こしたのには次のような事情があった。つまり、ラスコーリニコフという人物は、エンマのような人物とはわけが違うのである。一般的なリアリズムの場合、リアリズムが機能する前提として、作家が描く登場人物の言動が、そのまま登場人物の存在を表していると考えなければならない。もし高度な作家ならば、作家の方法論をかいくぐって登場人物が別の魂を持っている事が暗示できるだろうが、そういうややこしい事はとりあえず置いておこう。重要なのは、一般的に考えられているリアリズムにおいては、人間の言動がそのまま人間の存在を表している、そういう考えが前提としてあるという事である。では、それに反して、ドストエフスキーはどうか。



 ドストエフスキーが「罪と罰」で示した創作手法の重要な点は次のようなものだ。つまり、そこにおいては、ラスコーリニコフという一人物の言動と、その内面とが完全に乖離している。つまり、従来のリアリズムでは全く捉えられない人間がはじめて、ラスコーリニコフという人物によってこの世界に登場したという事になる。そしてこれは僕の考えでは、「最初の現代人」である。近代人の定義が何かはさて置くが、ここではじめて現代人が現れた。何故なら、この人物は外側から見た己と内側から見た己が完全に分離しているからである。そしてこれは僕たち現代人の特質をなしている。だからこそ、僕たちはトルストイを読む以上の共感性を持ってドストエフスキーの主要作品を読む事ができる。もちろん、人により好き嫌いはあるだろうが、僕は今、構造の問題について言及している。



 では、ドストエフスキーが苦心の末に編み出したこの方法により現代人は捉えられたのか。…僕はまさしく、捉えられた、と感じる。だからこそ、僕はそれを親身に読む事ができる。ラスコーリニコフを自分自身と感じて読む事ができる。それは観念過剰の現代人に適合した人物造詣である。しかし、エンマにはそう簡単に共感ではない。何故なら、エンマは自身の観念過剰に苦しんだりはしないからだ。もっと言うと、エンマは普通の人である。対して、ラスコーリニコフは知識人である。そして僕たちはいつの間にか、大衆のままに知識人化している。だから、ドストエフスキーの手法は今でも有効である。



  それでは、その点から振り返って現代の作家はどうか。僕は相変わらず、現代の作家がフローベール的な方法の延長線で書いているように見える。しかも、現代の作家の多くはフローベールのような「思想性」を持たない。つまり、多くの作家らは自分の書く所についての自意識の強度が明らかに弱い。彼らは何故自分が登場人物を動かすについて意識する度合いが弱いままに、それを動かすのだ。それは生きる意味について問わないままに生きる事にとてもよく似ている。我々が生きる事について考えだすと、生きる事そのものが詰まってしまう。生きる意味について僕たちが問う事は明らかに一種の病気である。しかし、この病気を透過しなければ、健康の意味そのものは決められないのだ。そういう意味で、健康な人間は自身の健康性を認識できない点で病んでいる、という事もできるだろう。人々が生きる意味を失ったままに生きる事は、彼らの内部では健康かもしれないが、それを俯瞰する一つの視点からすればそれは病んでいるのだ。



 もう少し突っ込んだ話をすれば、朝井リョウやその他の作家らがやすやすとリアリズムを使う事ができるのには次のような事情がある。それは、現代そのものがフィクション化しているという点である。友達、彼女との関係、就職活動など。我々はそこに、すでにフィクションが先行している現実を見出す事ができる。恋人と一緒にディズニーランドに行くのは現実であり、リアルかもしれないが、そこで演じられる劇はまさにフィクションではないか。しかし、こういう問いを発しなければ、フィクション化した現実をそのまま描くリアリズムが、一見リアリズムとして機能するように見える。つまり、現代の作家らが安住しているリアリズムはそのような場所だと僕は思う。つまり、彼らの書くものは先に、現実というフィクションによって先取りされているのにも関わらず、彼らはそれをリアルだと思い込む。ここにちぐはぐがある。少なくとも、僕はそう感じる。例えば、就職活動などというのもほとんどフィクションそのものと言ってもいいかもしれない。そこで演じられる滑稽な劇を、誰も滑稽と見ないなら、それはただちに(紙の上でも現実でも)嘘となるのだ。



 僕がこういう風に言うと「では、現実とは何か?」という問いが出てくるかもしれない。…しかし、その答えはもう「罪と罰」に書いてある。僕はそう思う。ラスコーリニコフは、自身の夢を破る為に二人もの人間を殺した。彼は殺人というもっとも強固なリアル、現実に接触する行為を行った。しかし、夢は破れなかった。物語はそこから始まる。しかし、その時点でもう物語は決しているのである。重要な事は、我々の世界においては、世界の果てまで行っても、人を殺しても、自身の夢は破れないという事である。だから、僕がリアルと言う時、それはただ一つの事を指す。つまり、この世界は夢だという事、その事を悟る事だ。セルバンテスは既にこの方法を「ドン・キホーテ」で活用していた。ドン・キホーテは騎士道物語を読み過ぎ、自身の夢を生きる。従って、そこに滑稽な劇が現れ、この滑稽さのみが本当の意味で真実なのだ。だから、セルバンテスはドストエフスキーに先行する作家である。ドストエフスキーがセルバンテスから大きく影響を受けたという事も、当然うなずける事だ。



 小説家の言葉の意味からリアリズムの問題にまで辿り着いてしまったが、そういう事が今問題となっていると思う。ラスコーリニコフは自身が夢を見ている事を知っている。そこに、ラスコーリニコフの意味がある。しかし、今の作家らの書く作品のどこにも夢の存在はない。つまり、彼らはそれを現実だと感じている。しかし、まさにそのような理由によって、彼らの作品が薄っぺらいフィクションに化けてしまうのだ。現実がただ一匙のフィクションにすぎないと感じた精神から、一匙のリアルが生まれるが、現実に対して疑いを抱かない精神が作家それ自体を一つの夢としてしまう。従って、現代の若手作家らの大半はただ、夢の中にいる。僕はそう思う。そして彼らは、現実を知らない。彼らが現実を知らないのは、彼らがそれを夢と感じた事がないからだ。そういう問題が現代ではあると思う。そして、セルバンテスーードストエフスキーが使った方法論は現在でも全く有効だと僕は思っている。何故なら、人間の意識が外化したメディアがこれほど発達した社会で、全てを夢と感じる強力な自意識は物語の主人公たりえるからだ。そういう事が今、作家技法の問題としてあると思う。そういう事は自分以外にあまり言われている形跡はないようなので、とりあえずそうした事についての疑問をこの文で呈しておいた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ご回答ありがとうございます。 とても面白い意見で、考え方に触れることができたような気がして嬉しいです。 「罪と罰」は読んでいないし読むより先に先生の考え方について知りたいので、あえて、ご回…
2015/08/02 20:54 楽しいです
[良い点] 現代人についてよく考察しておられます。興味深く拝見いたしました。『大衆のまま知識人』とは、つまり事物を自分なりに解釈することなく「常識」という社会的枠組みに当てはめて捉えるという事ですよね…
2015/07/30 11:55 楽しいです
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