心中
ある日の夜。私がリビングに入ると、母はテレビを付けたまま眠っていた。私は咄嗟に怒りを覚えた。働けよ! ……でも、私は母に対する憤りを溜め込みながらも、それを吐き出すことはできずにいた。恨んではいながらも、唯一の家族だったから。働くことのできない今は母に頼らざるを得ないし、彼女はいつも疲れ、眠そうだった。生気の抜けた目をしていた。何を言ったって響かないだろうし、わからない、そしてどうすることもできないのだろうと、私も諦めていた。
テーブルの上には、黒のボールペンと家計簿があった。レシートが挟まれ、少し分厚くなってる。私はそれを何の気なしに開いた。……ギリギリに切り詰めた、目を背けたくなるような現実が、そこにはあった。
パラパラとめくると、最後の方のページ。大学ノートのようになったメモスペースに、文字が埋め尽くされていた。サッと目を通しただけで、書かれていた内容は把握できた。それは、精神的に追い詰められた母が、その心情を吐露した日記だった。
その文章は、こう締められていた。
『私はひとりで死んではゆかない。
あなたを決してひとりぼっちにはしない。
あなたを苦しめずに、殺してあげる。そして、私も死ぬ。』
ゾッと、総毛立った。母は、心中をしようとしている……! 死のうとしている。私を殺そうと……。母を見ると、死人のような顔を見せて眠っていた。私は震える手で家計簿を閉じると、元あったような角度まで思い出し、再現して戻した。そして身体の震えを抑えながら、自分の部屋に戻った。
深夜。私の部屋の扉がゆっくり、音も立てずに開くと、ヌッと、影が姿を見せた。母だ。
黒い母のシルエットが、月明かりを通した濃紺のカーテンに浮かぶ。彼女はベッドを少しの間、見下ろして、そして思い切ったように、右手を素早く振り下ろした。
――ドスッ、ドスッ、ドスッ。
続けざまに三回。ハァー、ハァーと、母の荒い息が漏れる。
気付いたようだった。それが、人ではないことに。私は押入れから飛び出すと、影に飛び込み、手に持っていた包丁を柔らかい部分に、深く刺した。
押し倒し、引き抜き、何度も突き刺す。何度も、何度も……。動揺していた彼女は手でその身をかばうも、やがてぐったりと、力を抜いた。
――ハァ、ハァ、ハァ……
私は持ち手がぬるぬると滑る包丁を放ると、後ろに、仰向けに倒れた。
黒い天井が見える。
私は、ホッとしていた。
私は、生きたかった。