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魔法少女はじめました  作者: 猫々
第1部 天に在るのはすべて星、なれど世は事もなし
3/4

未知との遭遇

 恵と別れ、帰り道を一人で歩いていたまひるは、昨日のことを思い出していた。


 まひるの家庭は両親が共働きのため、父も母も家にいる時間は少なかった。そのため彼女は、両親の負担を減らすために、できるだけ家事を手伝うようにしていた。

 その日もまひるは学校から帰り、着替えると、洗濯物を取り入れ、それを綺麗に折り畳んでいた。すると、

――ピンポーン。

 と、玄関にあるチャイムの音が家中に鳴り響き、居間にいた彼女の耳に届いた。彼女は作業を止めると、「はーい」と返事をしながらスリッパを履き、玄関に向かった。

 玄関は居間から近かったため、まひるはすぐに玄関に到着した。そこにはすりガラスが付いた扉があり、すりガラスには人と思われる影が映っていた。

 まひるはスリッパからサンダルにさっさと履き替えると、玄関の扉を開けた。するとそこには、


――まひるより大きい、眼鏡をかけた小太りの男がいた。


 まひるは即座に扉を閉めた。扉の外では見知らぬ男が、「えぇ~!なんで閉めるでござるか!?」と叫んでいたが、まひるは聞き流した。

 まひるは、

(……不審者だ)

 と思った。

 外の男はチェック柄のシャツにジーパン、頭にバンダナという服装だったが、なぜか怪しい雰囲気であった。

(……どうしよう、警察に連絡したほうがいいかな)

 とまひるは思ったが、外見だけで犯罪者と決めつけるのもなぁ、とも思い、扉に付いているチェーンロックをかけると、少しだけ扉を開け、

「あの、何かご用ですか」

 と、恐る恐る尋ねた。

 男は手のひらサイズの小さな紙を、まひるが見えるように扉の隙間に持っていくと、こう言った。

「拙者、こういう者でござるのだが、日野まひる殿に用があって来たでござる」

 まひるは、

(なんで武士みたいな話し方なんだろう)

 と不思議に思ったが、それよりも用件の方が気になり、差し出された紙をしげしげと眺めた。

 そこには、

『 異星人対策会社 福井県支部 営業部 治安維持課 大熊 勇介 』

 と書かれていた。

 まひるは記憶の糸をたぐってみたが、『大熊勇介』という名前も、異星人対策会社という会社名も、記憶の中から出てくることはなかった。

「はぁ、それでその異星人対策会社の人が私に何のご用ですか」

 と、まひるは尋ねた。

「おぉ!貴殿がまひる殿でござるか」

 まひるの位置からでは彼の顔色は見えなかったが、声色から彼が喜んでいることは察せられた。まひるは、

(顔は知らなかったのかな)

 と思った。

 大熊勇介という人物は、まひるがここに居住していることを把握しているような言動であったが、まひるがどういう人物なのかは知らないようであった。まひるは、なぜ、と疑問に思った。

 まひるが思索にふけっていると、大熊勇介が、

「単刀直入に申すと、まひる殿には我が社で魔法少女として働いてほしいのでござる」

 と言った。

 まひるは「はぁ」と空返事をした。そして、

(えっ?)

 と思った。

 彼の言っていることは分かった。だが、なぜそんなことを頼むのか、まひるにはさっぱり分からなかった。そのため、彼女は不思議に思ったが、それよりも、まず働けないのでは、と思った。

(私、まだ学生なんだけど……)

 まひるは、

「あの、私まだ高校生ですので無理です。すいません」

 と言って、扉を閉めようとした。すると、

「ちょ、ちょっと待ってほしいでござる! もっと詳しく話を聞いてほしいでござるよ!」

 と、大熊勇介は言った。

 彼はずいぶん慌てているようだった。そのさまは、扉を隔てた先にいるまひるにも十二分に伝えられた。すりガラスに映る影も、せかせかと動き回っている。

 まひるは、

(しつこいなぁ)

 と思った。

 その時、

「……お姉ちゃん?」

 と、まひるにとって慣れ親しんだ声が、彼女の耳に届いた。まひるはすぐさま扉を閉めると、ひるがえり、動き回る影を隠すような形で扉の前に立った。彼女の体の大きさでは、完全に隠れてはいなかったが。扉の外では大熊が、「まひる殿ー!」と叫んでいたが、まひるは聞き流した。

 まひるが振り返った先には、小さな女の子が不安そうな表情で、クリーム色のテディベアを抱きながら、玄関ホールにある廊下に佇む姿があった。

 まひるは笑顔を作ると、

「どうかした?」

 と、その女の子――『日野あすか』に向かってそう尋ねた。

 すると、あすかは寂しそうな表情で、

「お姉ちゃんが遅いから……」

 と、ぽつりと答えた。

 心配で来てくれたのかな、とまひるは思った。そのため、

「お客さんとちょっと長話してるだけだから大丈夫だよ。まだかかりそうだから、あすかは先に戻ってて」

 と、彼女は作り笑顔のままそう言った。

 それを聞いたあすかは、表情を変えずに、

「……うん」

 と言うと、居間に戻っていった。

 彼女はあすかを見送ると、ひるがえり、扉のチェーンロックを外して扉を大きく開けた。するとそこには、大熊が、体育座りでいじける姿があった。まひるは予想外の事態にびくりとしたが、気を引き締めると、

「いい加減にしてください、これ以上しつこいと警察呼びますよ」

 と言った。

 まひるの存在に気付いた大熊は、大きくて重そうなリュックサックを背負いながらも軽々と立ち上がり、若干涙目で、

「警察は問題ないでござるが、このまま帰ると色々問題なんでござる!」

 と言った。

 まひるは相手の気迫に押されるような形で「はぁ、そうなんですか」と、及び腰で、相手の話に合わせるような言葉を言った。

 彼女は、自身の威嚇行為が相手に全く通用しないとは思っていなかったので、困惑した。しかし、戸惑いながらも、とにかく何とかしなくちゃと思い、自身を奮い立たせると、毅然きぜんとした態度で大熊と向かい合った。そして、疑いの眼差しを向けると、こう聞いた。

「そもそも、異星人対策会社なんて本当にあるんですか」

「本当でござるよ! 宇宙ハローワークのサイトの求人情報にもちゃんと載っているでござる」

 と、大熊は言った。

(宇宙ハローワーク?)

 初めて聞く単語にまひるは思わずきょとんとした。

 まひるは宇宙ハローワークという言葉から、コンビニのようなお店がハローワークと書かれたのぼりを付けた状態で宇宙空間を漂っている光景を想像したが、これは違うだろうと、心の中で頭を振った。色々と考えてみたところで、宇宙ハローワークが何なのか、答えが出るとも思えなかった。そのため、まひるは、

「あの、宇宙ハローワークって何ですか」

 と尋ねた。

 大熊は、特に迷いやためらいなどなく、

「宇宙人用の職業紹介場でござるよ」

 と、端的にそう答えた。

 宇宙人用だと彼は言った。それならば、とまひるは思い、

「じゃあ、あなたも宇宙人なんですか?」

 と尋ねた。

「そうでござる」

 と答える大熊は、事も無げな様子であった。

 まひるは自身の前方に立っている男――『大熊勇介』をじろじろと観察してみたが、顔が気持ち悪い、雰囲気が怪しいという点を除けば、ただの太めの成人男性にしか見えず、まひるが知っている宇宙人とは似ても似つかなかった。そのため、彼女は、

「地球の人間にしか見えませんが」

 と、不信感をあらわにしたような目つきで大熊を白眼視しながらそう告げた。

 大熊は、特に慌てた様子などなく、

「今は人型でござるからな、地球人そっくりに見えるだけでござるよ」

 と、はっきりとした口調でそう答えた。

(人型って……)

 まひるはげんなりした。彼が言うことはまひるにとって不明なことが多く、怪しい宗教団体の勧誘にでもあっているかのような気分であった。

(とりあえず人型ってことは別の形もあるのかな)

 と、まひるは推論し、

「じゃあ、宇宙人に見える姿になってください」

 と言った。

 それを聞いた大熊は、

「えっ、ここででござるか?」

 と、もじもじと恥じらう乙女のような仕草でそう尋ねた。

 まひるは、

(気持ち悪い)

 と思った。

 彼女は冷ややかな態度を見せると、

「そうじゃないと貴方の話を信じられません」

 と、きっぱりとそう告げた。

 すると大熊は、しばしの間、沈黙したままでいたが、不意に、

「……分かったでござる」

 と言い、背負っているリュックサックをその場に下ろすと、

「いくでござるよ」

 と言った。その瞬間、


 大熊の身体は、まひるの視界からかき消えていた。


 まさに一瞬の出来事であった。大熊が『いくでござるよ』と言うやいなや、大熊の身体だけが忽然こつぜんと消え失せた。支える者がいなくなり、彼が着ていたチェック柄のシャツは、地球に引っ張られ、すとんと落ちた。

 まひるはあまりのことに目を見張った。そして、何が起きたんだろう、と思い、下に落ちたシャツを目で追った。するとそこには、散らばった衣服と二つの足で直立している茶色いクマのぬいぐるみがあった。そのクマのぬいぐるみは、まひるの膝の高さよりも小さく、頭にはバンダナを巻いていた。

 まひるがそれを眺めていると、それは、丸みを帯びた手で、巧みに頭のバンダナの結び目をほどき、着用しているバンダナを脱ぎ捨て、顔を上に向けた。

 すると、まひると目が合った。それは、顔の三分の一ぐらいの高さはあるであろう大きな目をしていて、その目は半眼であった。その上、大部分が白目の三白眼でもあったため、目つきが悪く見えた。一見すると、気だるそうで反抗的な印象を受ける顔立ちである。

「これが本来の姿でござるよ」

 と、その目つきの悪いクマのぬいぐるみはそうしゃべった。

(本当に宇宙人だったんだ)

 彼の姿は、まひるが知っている宇宙人と似ていた。そのため、彼女はそう思った。

 まひるは少し安堵あんどした。なぜならば、少なくとも相手が精神障害者で、妄想を語る危ない人ではないと判ったからだ。だからといって、相手の言う事が全て真実で、危険な人物ではないと判ったわけではないのだが。

 クマのぬいぐるみのような姿になった大熊は、まひるの顔の高さ辺りまですっと浮かぶと、

「これでいいでござるかな?」

 と尋ねた。

 まひるは「あっ、はい」と答えると、

「それで、詳しい話って何ですか。さっきも言いましたが、私、まだ学生で、会社勤めとか出来ませんよ」

 と告げた。

 完全に信用したわけではなかったが、一応まひるは、彼の話を聞いてみることにした。

「それは把握しているでござる。まひる殿には空いた時間にアルバイトとしてシフトに入ってもらいたいのでござるよ」

 と、彼は言うと、玄関に置いたリュックサックに近付き、それのファスナーを下ろした。そして、腕を中に突っ込むと、ごそごそと何かを探し始めた。

 その間、まひるは複雑な心境で、

(魔法少女ってアルバイトでなれるものなんだ)

 と、静かに思った。

 しばらくすると、彼が一枚の用紙を持ってまひるの元に戻ってきた。そして、

「これがその証拠でござる」

 と言いながら、それをまひるに渡した。

 まひるはそれを受け取ると、

(何だろう)

 と思いながら、それをざっと見渡した。


 それは、雇用契約書であった。


 雇用契約書には、雇用期間、仕事内容、就業時間、休日、賃金など様々な項目が印刷されており、ちゃんとした契約書のようであった。と言っても、まひるは、契約書などまともに見たことはないのだが。紙面の下側には、事務所の所在地、会社名、代表者の名前なども書かれていた。

(仕事内容、地域の警備と異星人による犯罪の取締り。基本給、時給1200円。……)

 と、まひるは心の中で、記載されている内容を上から順に読み進めていった。雇用期間、就業時間、休日などの時刻に関する情報は記載されていなかったため、その辺りは飛ばした。

 一通り読み終わると、彼女は用紙を持っている腕を下におろし、大熊に視線を戻した。そして、

「話は分かりました。でも、すぐには決めかねますので、また後日でよろしいですか」

 と言い、彼にそれを返した。

 大熊はそれを受け取ると、

「それは問題ないでござる。特に期日とかは聞いてないでござるからな」

 と告げた。

 まひるは「はぁ」と生返事をした。

 聞いていないだけで、決まっていないわけではないのでは、とまひるは思ったが、そのことを指摘することはしなかった。

 手持ちの書類をしまい終えた大熊は、玄関にころがっている衣服を拾い、それをリュックサックの中に押し込んだ。そのあとファスナーを上げ、袋の口を閉じると、その大きなバッグを軽々と持ち上げ、全くふらつかずに宙に浮かんだ。そして、

「では、拙者はこれにて」

 と、別れの言葉を告げ、その場から去ろうとした。

 まひるは、大熊がそれなりの重量感のある荷物を平然と頭の上にまで移動させたため、少し驚いた――今の大熊の大きさは、持ち上げているリュックの半分以下であり、その身なりでも苦もなく行えるのは意外だった――。しかしそれよりも、大切な用件があったので、

「あ、ちょっと待ってください」

 と言って、彼を呼び止めた。

「なんでござるか?」

「今度来るときは、その姿のままで来ていただけませんか」

 まひるはまたあの姿(気色悪い姿)を間近で正視したくなかったため、そう言った。

 大熊は首を傾げ、つかの間、不思議そうな顔で静止していたが、しばらくすると、

「理由は分からないでござるが、承知したでござる」

 と言って、この場から去っていった。


 まひるは回想を終えると、はぁ、とため息をついた。

 大熊が立ち去ったあと、彼女は、自分なりにアルバイトの事を調べてみたのだが、残念ながら魔法少女のアルバイトについての記述は全く見つからなかったため、その辺りはまだ分からないことが多かった。しかし、このアルバイトの時給が、この辺りでは高額な部類に入るということは分かった。

 色々と調べ、考えてみたものの、まひるは、魔法少女の仕事を受けるかどうか、いまだ決められずにいた。

(どうしよう……)

 と、彼女は心の中でつぶやいた。

 まひるは、高等学校を卒業したら大学に行き、どこかの企業に就職するつもりだったため、大学に通う費用をどうするかは前々から考えていた。加えて、両親には余り負担をかけたくなかったので、奨学金をもらうことも考慮に入れていた。しかし、日本の奨学金は、奨学金という名の学生ローンで、借金を背負うことになるということを調べている内に知り、奨学金制度の利用は諦めていた。給付形態の奨学金も無いわけではなかったが、こちらは留学生や成績優秀者向けがほとんどで、そのため、日本人であり、成績が平凡なまひるには無縁のものであった。

 そこに、このアルバイトの話である。彼女は初め、この話に乗気ではなかったのだが、高校生がアルバイトで得られる賃金は時給1000円以下が一般的ということを知ると、この話が魅力的に思えた。しかし、いくら収入が多くても、肉体的、精神的疲労が激しいならば、割の良い仕事だとは言えないということも分かっていたので、具体的な仕事内容が分からない内は判断できないとも思っていた。

 これ以上検討してみても、堂々巡りにしかならないだろうと思い、まひるは別の事を考えることにした。すると、ある事に気が付いた。

(あの人、どこかで見たような)

 昨日遭った時は、外見のインパクトが強すぎたため、かえって気付かなかったが、まひるは以前、人型時の大熊とよく似た人物をどこかで見た記憶があることに、回想を通し、気付いた。

 まひるはゆったりと歩きながら、うつむき加減だった顔を上げ、下に向いていた視線を左上に変えると、

(どこだったかなぁ)

 と、心の中でつぶやいた。

 彼女は若干もどかしい思いで、小さく「うーん」とうなった。最近の記憶であることは、何となく分かるのだが、完全に思い起こすができなかった。そのため、まひるは、無闇に記憶を探るのではなく、最近の自分の生活スタイルをもとに、そこから木が根を伸ばすような形で、関連する事柄を順々に思い返していった。

(そうだ、テレビだ)

 まひるは、彼と似たような人達が『ヒーロー&魔法少女のここがスゴイ!』というバラエティ番組にゲストとして出演していたことを、思い出した。同時に、その人達がその番組内で、ヒーローと魔法少女について自身の知識や見解などを交えながら熱く語っていたことも思い出した。

(確か、『オタク』)

 テレビでは字幕を付けて彼らをそう紹介していた。

 まひるは、昨日初めて出遭った大熊の人型の姿を思い浮かべ、

(あれがそうなんだ)

 と思った。

 現実から逃避するように、彼女がそんな事を考えながらぼんやり歩いていると、いつしか彼女は、自身の住む家の前までやって来ていた。

 まひるは、気持ちを切り替えるように、家に帰った後の予定をあれこれ考えながら玄関の前に行き、玄関の扉を開けた。鍵はかかっていなかった。いつもの事なので、まひるは特に不思議には思わなかった。まひるは玄関を通り、家の中に入ると、家内に居る人物にも聞こえるように、ある程度大きな声で「ただいまー」と言った。

 しばしの間、まひるは土間の上で動きを止め、何らかの反応を待った。しかし、何も起こらなかった。

(……?)

 まひるは不思議に思った。

 普段ならば、妹のあすかがすぐに玄関までやって来るのだが、今日はなぜかやって来なかった。

 彼女は少し不安に思ったが、用を足しているなどの可能性も十分あり得たので、慌てることはしなかった。そして、とにかく様子を確認してみようと思い、廊下に上がり、スリッパを履いた。

 その時、右手にある居間と廊下を隔てているドアのレバーハンドルが傾き、かちゃりと音を立てた。

 まひるは、

(やっぱり家にいたんだ)

 と思い、少し安堵あんどした。

 ドアが開き、ドアを押していた者が室内から出てくると、まひるはそれを目で確認した。そして固まった。

 部屋から出てきたのは、まひるが予想していた人物ではなく、宙に浮かぶクマのぬいぐるみであった。容貌ようぼうから、昨日出遭った宇宙人である大熊勇介であることは察せられたが、昨日とは違い、背中に鳥の翼を連想させるような一対の小さな白い羽を付けた容姿をしていた。

 大熊と思われる人物は、まひるを視認すると、

「あっ、お帰りでござるまひる殿」

 と、落ち着き払った様子でそう挨拶あいさつした。

 まひるは予想外の出来事に、つかの間、呆然ぼうぜんとしていたが、はっとすると、

「なっ、どうしてここに!?」

 と、落ち着きを失った様子でそう問うた。

「どうしても何も、『また後日』と言ったのはまひる殿でござるよ?」

 と説く彼の顔は、いかにも不思議そうであった。

 確かに自分は、正確な期日を言わずに『また後日』と言った。けれども、昨日今日と連日で、その上、自身の帰宅時間より早く訪ねてくるとは思わなかったので、まひるは驚いた。しかし、それ以上に驚愕きょうがくしたのは、彼が『家の中』に居たことであった。

 そのためまひるは、「そうじゃなくて!」と若干いら立った態度で大熊の意見を否定すると、真剣な顔つきで、

「なんで『家の中』にいるんですか」

 と、問いただした。

 大熊は険悪と言えるような空気の中、それを気にした様子もなく、さらりと、

「ああ、それなら中にいた幼女が入れてくれたでござるよ」

 と回答すると、

「いやあ、幼女とぬいぐるみの組み合わせは破壊力がやばいでござるなあ。あれだけでご飯3杯はいけるでござる。おっと、拙者は紳士でござるからな、もちろん触れてはいないでござるよ。イエス! ロリ、ノー! タッチの精神でござる」

 と、いかにも得意げに、よどみなくそう語った。

 まひるは唖然あぜんとした。そして心の中で、この人は一体何を言っているのだろう、と思った。

 彼が今言ったことのほとんどは、まひるの理解の範疇はんちゅうを超えていた。しかし、彼の言う『幼女』が、妹のあすかを指していることは、『中にいた』『ぬいぐるみ』という二つの言葉から察せられた。

(そうだ! あすかは!?)

 まひるは、部屋の前にいる大熊を左に押しのけると、居間に飛び込んだ。押しのけられた大熊が直角に開いたままのドアにぶつかり、「……ひどいでござる」とぼやいていたが、彼女の耳には入らなかった。

 まひるが部屋に入ると、そこには、


――テディベアを抱くあすかが、居間にあるソファーに腰掛けながらテレビを熱心に視聴する光景があった。


 それなりの広さがある居間には、センターテーブル、ソファー、薄型テレビ、電気カーペットなど、生活感を漂わせる物が複数あり、テレビは右手奥のコーナーテレビ台の上に配置されていた。そのテレビからは、『汝のあるべき姿に戻れ、――』と聞こえる音声が、空気を振動させ、室内に響いていた。

 その状況を視覚と聴覚で捉えたまひるは、知覚した情報からあすかが無事であることを認識し、ほっとした。脳が認知したことにより、まひるが判断した情報が肉体にも伝達され、まひるの体の筋肉も弛緩しかんした。

 気が抜けたまひるは、彼女が何に夢中になっているのか、ほのかに気になった。そのためまひるは、視線を正面にいるあすかの方向から右手にあるテレビの方に移すと、テレビのディスプレイに映る映像を目視した。すると、アニメのキャラクターである少女が、両手を頬に当てながらすごく幸せそうな顔で、『はにゃ~ん』と、言葉を発しているように見える画面がまひるの眼に映った。

(確か、カード魔法少女さくら)

 あすかが観賞していた物は、まひるが知っているアニメであった。と言っても、まひるは、どんな内容なのかはほとんど知らないのだが。

(でも、どうして金曜に?)

 と、まひるは不思議に思った。

 『カード魔法少女さくら』は日曜の朝に放送されている魔法少女アニメで、魔法少女が好きなあすかは、毎週欠かさずにそれを居間で視聴していた。そのため、同じ家に住んでいるまひるは、その場面を毎週目にしていた。何度も見かけるうちに、あすかが熱中しているそれについての知識も、彼女は知らないうちに得て、脳に保持していた。

 しかし今日は平日で、本来ならば、そのアニメは放映されていないはずなのだが、なぜかテレビに映っていた。

 疑問を抱きつつ、まひるがそのことについて思考していると、不意に、

「どうかしたでござるか?まひる殿」

 という音声が、まひるの後方から響き、彼女の聴覚器官を刺激した。

 すると彼女の体は、急に背後から話しかけられたことにより、びくりと反射行動を起こした。無意識に身体が反応し、筋肉は収縮、鼓動は激しくなり、瞳孔が拡大したりしたが、彼女は呼吸を整えることで、それらを鎮め、精神を落ち着かせた。そして平静を装い、体の向きを反転させると、

「いえ、なんでもないです」

 と、淡々とした口調で、大熊に向かってそう告げた。

 大熊はドアにぶつけた鼻を手でさすりながら怪訝そうな顔をした。そのあと、彼は、さっきまでまひるが眺めていたテレビのある方向をちらりと見やると、何かを察したのか、納得したような顔になり、

「ああ、『CMさくら』でござるか。いいでござるよね」

 と、淡々とそう語った。そして、一人満足げな顔で「うんうん」とうなずいた。

 何が『いい』のか、まひるにはいささかも分からなかったが、大熊がこの状況を完全に把握していないことは、おぼろげに分かった。

 まひるがあきれたような表情で、この人一体何なのと思い、その心情を抱いていると、突然、

「お姉ちゃん、おかえり!」

 という音声と、物体がぶつかる軽い衝撃、何かが腰回りに密着する感触、制服越しに伝わる温もりなどが、背後から襲ってきた。

 まひるはいきなりの出来事に驚き、思わず、

「わっ」

 と声を上げ、手に持っている鞄をぎゅっと握り締めた。けれども、意識を内面に集中させていなかったおかげで、先程よりは、衝撃を受けることはなかった。

 まひるは、自分の身体にくっ付いたものを見るために、上半身をひねり、自身の腰回りを眺めた。するとそこには、妹のあすかが、まひるの腰辺りに抱き付き、顔を上に向けて、嬉しそうに「えへへ」と笑う情景があった。

 それを確認したまひるは、手持ちの鞄を近くのソファーの上にぽいと投げた。(ソファーは二つあり、あすかが座っていなかった方に)そのあと彼女は、あすかの手を取り、一度あすかから自身の体を離すと、彼女と目を合わせるために振り返ってしゃがんだ。そして、あすかをまっすぐ見つめると、

「ただいまっ」

 と、顔をほころばせ、彼女の手をそっと両手で包みながらそう言った。

「あのね! あのね! 本物の妖精がきたんだよ!」

 あすかは、彼女には珍しく――少なくともまひるの知る限りではあまり見ない――興奮した様子で、まくし立てるように声を上げ、全身で驚きを表現しながらそう告げた。

 まひるは、あすかの言う『本物の妖精』というものが何のことか分からず、

(妖精?)

 と、素直に思った。

 そして、ある事に気付いた。

 あすかは宇宙人の存在を知らないのでは、と。

 そのため、彼女は、あすかが言う妖精とは、宇宙人である大熊のことを指しているのではないか、という一つの仮説を立て、立ち上がると、「もしかして」と言った。そして、あすかに大熊の姿が見えるよう部屋の外側に少し移動すると、体の向きを横に変え、腕を伸ばさずに大熊を指差しながら、

「妖精ってこの人のこと?」

 と、努めて柔らかな物腰で、あすかにそう尋ねた。

 するとあすかは、

「うん! きっと魔法の国の()()()だよ!」

 と言い、とても明るく自然な笑みを浮かべた。

 それを知覚したまひるは、あすかが大熊を家内に通した理由をはっきりと理解し、困惑したような思いで、

(……やっぱり)

 と、心の中でつぶやいた。

 大熊の外見は確かに『アニメに出てくるような動物型の妖精』に似ていた。しかしアニメはほとんどが架空の話で、登場する人物なども、空想上の生物であったり、非現実的であったり、現実の世界ではまず存在しないような存在だらけであった。そのため、物事を想像する能力が欠乏している人や、認知機能に障害があるなどの物事を正確に識別する能力が欠如している人たち以外は、虚構の話で構成されたアニメの登場人物が、実在するとは信じていなかった。けれどもあすかはまだ子供で、現実と空想の区別がついていても、空想が実現する可能性を否定する材料を備えておらず、空想の産物が現実に現れ得ると信じていたとしても、それは、不合理な話ではなかった。であるからして、宇宙人が存在し、容姿がアニメの登場人物の見た目に似ているという事実を知らないであろうあすかが、宇宙人である大熊を『妖精』だと思い込み、『妖精がきた』と口にしたことは、ごく自然なことだったのかも知れない。

(あすかはニュースとか見ないからなぁ)

 宇宙人が実在することや、一部の宇宙人が動物のぬいぐるみのような姿をし、飛ぶことが出来るという情報は、テレビや新聞などの報道を視聴していて、その伝達された情報を正確に知覚できる者ならば誰でも知っていることなので、まひるはそう思った。

 二人のやり取りを静観していた大熊は、唐突に、

「こほん」

 と、せき払いをし、こう言った。

「談笑しているところ悪いのでござるが、拙者、妖精じゃなくて――」

 まひるは、彼が真実を話そうとしていることを素早く察し、とっさに、

「あの! その羽どうしたんですか?」

 と大熊に尋ねた。

 尋ねられた大熊は、「宇宙――」とまで言いかけた言葉を止めると、昨日には存在しなかった背中の白い羽を、指と手首のくびれが無い先端が丸まった腕で指し示し、

「これでござるか?」

 と尋ねた。

「はい」と、まひるが応答すると、彼は、

「こっちのほうがそれっぽいでござろう?」

 と、返答とも問いかけとも取れるような言葉を、同意を求めるように述べた。

 まひるは、何が『それっぽい』のかは、かろうじて分かった。しかし、なぜ大熊がそんな格好をするのかは、少しも分からなかった。

「ちなみに拙者の手作りで、取り外しも可能でござるよ」

 と、大熊はそう補足した。

 まひるはひどく無関心なさまで、

「はぁ」

 と、適当に相槌あいづちを打った。

 まひるが急に背中の羽のことを尋ね、話題を変えたのは、大熊を妖精だと思い込み喜んでいるあすかに、本当のことを知らせないようにするためであり、心からそのことについて知りたいわけではなかった。そのため、大熊の背中に付いている翼のような物が『手作り』で『取り外し可能』などという知識を得ても、嬉しくもなければ、関心もなかった。そればかりか羽が作り物で、偽物であることを、あすかの目の目で告白され、それにより、あすかが真相に気付いたのではないかと、まひるは心配になった。

 大熊が本物の妖精でないことを、あすかが認識し、落胆していないかどうかを確認するため、まひるは流し目で、自身の傍らにいる彼女をちらりと一瞥いちべつした。するとあすかは、ぼんやりとしたさまで、目をぱちくりさせ、大熊をじっと眺めていた。どうやらあすかは事情がうまく飲み込めていないようで、まひるは多少ほっとした。

「ところで、その子はまひる殿の娘さんでござるかな?」

 と大熊は、にこにこと笑みを浮かべ、愛想よく振る舞いながらまひるに向かってそう尋ねた。

 まひるは、

(は?)

 と思った。

 思いも寄らなかったことを出し抜けに言われ、まひるは一瞬唖然(あぜん)としたが、すぐに、

「違います」

 と、若干むすっとした顔つきで、大熊の問いかけを否定した。そして、

「妹です」

 と端的に答えた。

 すると大熊はとてつもなく驚愕きょうがくした顔になり、突然かすれた声で、

「何……だと……?」

 と、強張った表情のまま、絞り出すようにそう言った。

 まひるはその大熊の険しい形相に驚き、ぎょっとした。あすかにいたっては、まひるの陰に隠れるように身を縮こませ、色を失った顔でびくびくとおびえていた。

 大熊はそんな二人の反応を気にした様子もなく、わなわなと身体を震えさせ、張り詰めた面持ちをしながらも、怒声にも似た大きな声で、

「妹といえば『うざ』『キモ』『邪魔』『くっさ』『死ね』『働け』が口癖で、会うたびに舌打ちし、『あんたさぁ、隣人の人達からなんて呼ばれてるか知ってる?無職のクマさんだよ』などという暴言を吐くような、愛想もなければ、可愛げもない、常に辛辣しんらつな態度をとる存在のはずでござる!! こんな無邪気で、甘えん坊で、常にぬいぐるみを抱いた二次元キャラのような、愛らしくて可愛い妹が実在するはずないでござるよ!?」

 と、誰ともなしに熱くそう語った。

 まひるはすぐ側で起きた摩訶まか不思議な出来事に、ただただ立ち尽くすことしかできなかった。しかしそんな中でも、脳は活発に働き、ある事を思っていた。

(この人、危ない人なんじゃ……)

 まひるが緊張した面持ちでそんなことを思案していると、

「ごほん」

 と、彼は大きくせき払いをし、こう言った。

「失礼したでござる。昔の事を思い出して、つい取り乱してしまったでござる」

 そう言う大熊の有様は、あたかも何かを悟った菩薩ぼさつのようであった。

 まひるは大熊のその変わりように、舌を巻くより気味の悪さを覚えたが、けれども、そのことを悟られないように努めて平静を装い、冷めた表情で、

「はぁ」

 と、素っ気ない返事を送った。

「ところで、ご用件は何ですか。催促に来ただけですか?」

 と言うまひるの態度は、いかにも冷ややかなものであった。

 まひるからすれば大熊は、日常を侵食する侵略者で、イレギュラーな存在であり、平穏を乱す厄介者でしかなく、そのため彼女はこの非日常な異分子を速やかに取り除こうと、とげのある物言いで、さっさと無駄話を切り上げ、本題の話を振った。しかし大熊はそんなまひるの冷淡な扱いに気付いた様子もなく、落ち着いたさまで、

「そうそう、今日は必要な物を届けにきたでござる」

 と、明るい口調でそう告げると、畳の上にあるそれなりの大きさの黒い肩掛けカバンをがさごそとあさり始めた。(フローリングの床の上に、畳が数枚敷き詰めてある)

「えーと、どこにやったでござるかな」

「おかしいでござるなぁー」

 大熊は何かを探しているようであったが、目的の物が見つからないのか、独りごちながらひたすらにカバンの中を物色していた。

「……お姉ちゃん」

 ふとあすかの声が聞こえ、まひるは、視線を自身の足元に向けた。

 するとあすかが、おずおずと、ためらいがちにある一点を指差し、

「……あそこ」

 と言った。

 あすかが示した先には木製のテーブルがあり、その上には見覚えのない物体が置いてあった。

 まひるは居間の中央にあるテーブルに近寄ると、その未確認物体をじっと観察した。すると、それが未確認物体ではなく、ただのビデオを収納する入れ物であることが分かった。

(……うちにこんなのあったかな)

 その容器には、ピンクの服を着た大きな目の少女が、細長い杖を持ち、へんてこな生物と共に、カメラ目線でポーズを取っているイラストが印刷された紙が容器の外側に装飾されており、それが『カード魔法少女さくら』というアニメのビデオを保管するためのケースであることは、ジャケットの表記から察せられた。

 しかし、まひるの脳には、こんな物が家の中にあったという記憶はなく、朝方、学校に行くために居間を通り過ぎた時も、この物体は見かけなかった。

 ――ならなぜこのビデオケースは、こんな所にあるのか。

 それははっきりとはしなかったが、本来日曜に放映されている『カード魔法少女さくら』が、金曜の夕方にテレビに映っていた理由は明瞭であった。ビデオならば、再生機器と映像機器、時間さえあれば、いつでも視聴できるのだから。

 けれども、それができるのは、これがここに存在するからであり、この映像媒体がなぜこの場に忽然こつぜんと現れたのか、その謎を解明しない限り、結局は不明瞭のままであるのだが。

 まひるは、大熊がこのビデオを持ち込んだのではないかと考えた。なぜなら、まひるの知る限りでは、この場所にこれが現存していたという事実は存在せず、転送機器を使った瞬間移動や念動力による物体の移動、それに無から有の生成など超常的な事象を除くと、残るのは、何者かの手によって外部から運び込まれた可能性しかなく、その場合、あすかはまず不可能で――6歳のあすかでは入手することが難しい――、見ず知らずの他人が家内に侵入し置いていったとは考えにくく、そうなると、今この場にいる大熊の私物だと考えるのが一番妥当だと思ったので、そう推測した。

(うーん、そうだったとして、それが何なんだろう)

 まひるは考えあぐねた。彼女には、あすかがなぜこのビデオケースを指差したのか、その理由が分からなかった。

 あすかのとった行動の真意を測れずにいたまひるは、ちらりと大熊の方を見やった――あすかに直接聞くという選択肢が無かったわけではないが、大熊とビデオに関係性があるのならば、そこから何か手掛かりをつかめるのではという思いもあった――。すると大熊は、こちらに背を向けたまま、先程とほとんど変わらぬ動きで、まだ何かを探しているようであった。

 その場面を一瞥いちべつしたまひるは、ある一つの仮説が頭をもたげるのを感じ、こう思った。

 ――もしかすると、大熊が探している物はこのビデオではないか、

 と。

 根拠は無かった。

 それに、大熊が自分にこれを渡す必要性も特には感じなかった。

 けれど、この何処からやってきたのか不明の外来物が、理由も分からずに、無造作に自宅に放置されているのは不気味であったので、まひるは試しに、

「あの、もしかしてこれですか?」

 と、テーブルの上に置かれているビデオケースを指し示し、大熊に尋ねた。

 大熊はその声が聞こえたのか、手の動きを止めると、くるりと振り向き、すぐに目をぱちくりとさせた。そして空中に浮かび、テーブルに近付くと、右手で左手をポンと叩いた。

「ああ、そういえば、『さくら』のディスクを取り出す時にパッケージの下に紙を引いたでござるなぁ。いやぁ、気が付かなかったでござる」

 と大熊は言った。

 その顔は、とても屈託の無い笑顔であった。

 まひるは大熊の言動の意味が呑み込めず、不可解な思いで、

(紙?)

 と思ったが、彼の次の行動で、その紙が目的の物だと推測し、得心した。


 大熊は、指のない手でDVDのケースをひょいと持ち上げると、それを丁重にカバンに仕舞い、その下にあった一枚の紙を手に取って、それをじっと眺めた。


 この時まひるは、驚きを通り越し、半ば呆れる思いで、社会人とは到底思えないと思っていた。なぜなら、この人は、他人に渡すための物を勝手に敷き紙代わりに使い、その上、その事を全く悪びれる様子もなく笑っていたのだから。とはいえ、そうは思っていても、それを口にすることはなかったが。ちなみにこの白い紙の存在は、テーブルの上の箱を見つけた時からすでに彼女の視界に入ってはいたが、重要な物だとは思わず、まひるは気に留めずにいた。

「――確かにこれでござる」

 と大熊は言った。

 その顔には先程までの緩みは無く、至極真面目なものであった。

 大熊は、まひるの胸の高さまで浮遊すると、

「ではまひる殿」

 と言って、テーブルの上にあった紙をすっと差し出した。

 まひるは、大熊のその真剣な雰囲気に感化され、若干緊張した面持ちでそれを受け取ると、

(……何だろう)

 と思いながら、それをざっと見渡した。


 それは、履歴書であった。


 履歴書には、『履歴書』という文字が用紙の左上に記載されていて、その下には氏名、性別、生年月日、年齢、現住所、電話番号、学歴、職歴などの個人情報になり得る情報を、右側には免許、資格などの個人に関する情報を記入するための欄があり、紙面の中央上側には個人情報にもプライバシーにもなり得る自身の顔写真を貼るためのスペースと写真のサイズ、位置を指定する文章があった。

 まひるにとっては初めて目にする物であったが、アルバイトをするために必要な物だということは知っていたので、

「あの、まだやるかどうか決めてないんですが」

 と、わずかに困惑したような表情で、まひるはそう告げた。

 しかし大熊は、そのまひるの言動を気にした様子もなく、目つきの悪い顔を破顔させると、

「まあまあ、実際やってみたら案外楽しいかもしれないでござるよ」

 と、どこかのセールスマンのように愛想よく振る舞いながらそう言った。

(楽しいって言われても……)

 まひるは困った。

 彼女にとって労働とは、自分の持つ時間と労働力を提供し、その対価として賃金を得る行為か、自分の持つ時間と労働力を使用または消費し、お金もしくは食料などの物品を生産(労働時間×労働力=生産量)する行為であり、あくまで生活するための財力を所有する手段でしかなく、別段楽しさや充実感などは求めていなかった。そのため、『楽しい』と言われても、あまり魅力を感じず、心が動くことはなかった。もし大熊の台詞が『楽しい』ではなく『楽』だったならば、彼女は心惹かれていたかもしれないが。

 まひるが困り顔で押し黙っていると、

「経歴に魔法少女があったら、きっと就活が有利になるはずでござるよ!」

 と、やにわに真剣な表情で、大熊はそう熱弁した。

 本当にそうだったらいいのになぁ、とまひるは思った。

 この世では二種類の魔法少女が認知されている。それは実在の魔法少女と架空の魔法少女である。しかし、世界全体からみれば、それらの存在を知る者はそれほど多くはなく、魔法少女という言葉の意味や概念を知らない者も多かった。そして、まひるが住む日本でも誰もがその存在を知っているというわけではなく、人によっては、どちらか片方しか知らないということもあった。けれども日本では、人によって魔法少女の定義に差はあっても、魔法少女の概念や存在を知らない者はほとんどいなかった。とはいえ、実在する魔法少女の存在が社会に認知されるようになったのはつい最近で、それまでは魔法少女といえばアニメや漫画、小説などのメディアによって形成されたキャラクター類型の一つであり、フィクションの登場人物で、架空の存在であるというのが日本での常識であった。そのため、実在の魔法少女を知らず、『魔法少女は現実には存在しない』と思い込んでいる人や、実在の魔法少女を知りながら、『魔法少女が現実にいるわけがない』という固定観念に捕らわれている人からみれば、履歴書の職歴欄に『魔法少女として地域の警備に従事、異星人による犯罪の取締りを行う』と記入したり、面接時に『学生時代に魔法少女のアルバイトをやっていました。主な仕事は自分たちが住む町の平和を守ることで、悪事を働く異星人が町に出没していないかどうかを監視したり、時にはそういった犯罪者の身柄を拘束したりと、住みやすい街づくりに貢献していました。その経験からお金を稼ぐ大変さ、仕事に対する責任の重さ、仲間との連携やコミュニケーションを取ることの重要さ、そして、様々な職業の人達が働き、社会を支えているからこそ私達は平安な生活を送れるのだということを強く体感しました。そのため私は、自身の行う仕事に対し常に誇りを持ち、真摯しんしな態度で物事に挑むことと、困難な職務でも投げ出さずに完遂させることを普段から心掛けるようになりました』などと自己アピールするような人物は、ただの頭のおかしい人か、統合失調症の症状が発症し、誇大妄想に取り憑かれた人か何かかと思うであろう。

 であるからして、まひるは大熊の利益を説いた言説を、自分を納得させるための作り話ではないかと不審に思ったが、ここ最近では、ヒーローまたは魔法少女が何らかの事件を解決した、あるいはヒーローか魔法少女が何かの活動で活躍したなどの情報が、新聞やテレビのニュース番組などで度々報道されていたので、事実なのかもとも思った。

 実際は、同じ業種でもなければ、アルバイトの職種で就職活動が有利になるようなことはないのだが。

「そうですね、その点を考慮した上で再度検討してみますので、数日待っていただけますか」

 と、まひるは事務的な態度で、感情を込めずにそう告げた。

 まひるは再び『また後日』とは言わなかった。なぜなら『また後日』と言えば、また連日で大熊がやって来る可能性があったからだ。彼女は、自身が感じる時間の速さ上での時間感覚的に『すぐ』に訪問されるのを嫌った。なぜならば、時間的にも気持ち的にも余裕を持たせ、意思決定を行いたかったからだ。しかし、

「それじゃあ困るのでござる。明後日の給料日までには必ず返答が欲しいのでござるよ」

 と大熊は、感情的な口調で、事務的なことを述べた。

 まひるは当惑した。

 昨日彼は『契約を締結させる期日は聞いていない』というむねのことを言っていた。なので実際は『締め切りがあった』としても別段おかしな話ではなかったし、まひるも『期限がない』とは思っていなかった。そのため大熊が昨日とは違い、『明後日の給料日までに』と期日を指定してきても、彼女は不可解だとは思わなかった。しかし、大熊の提示する(ゆう)()期間が思った以上に短かったため、戸惑った。

「と言われましても……」

 まひるは困惑の表情を浮かべた。 

 すると大熊はいきなり、まひるの目の前で、ある行動をとった。

 その行為を目の当たりにしたまひるは、無意識に目を丸くし、驚きの感情を顔に浮かべると、それを凝視した。

 

 それは『土下座』であった。


 彼女の眼前には、クマのぬいぐるみのような姿をした宇宙人が土下座をするという、何とも奇妙な光景があった。

「どうか、この通りでござる! 三点倒立でも、鼻から牛乳でも、何でもするでござるから!」

 大熊は床に額をつけながら大きな声で勢いよくそう懇願こんがんした。

 まひるは、驚きの表情を崩し、苦笑した表情を見せると、

(そんなの見せられても……)

 と、心の中でつぶやいた。

「このまま契約が取れないと、予約しているアニメの円盤が買えなくなるのでござる……」

 と大熊は、頭を垂れたまま身の上を話すと、

「それだけはどうしても避けたいのでござるよ!」

 と、顔を上げ、うるうると瞳を潤ませながら訴えかけるようにまひるを凝視し、そう哀願した。

 まひるは大熊の熱い視線を適当に受け流しながら、なぜ自分と契約するとアニメの円盤が買えるようになるのか、と不思議に思った。しかし、それ以上に、

(そもそも、()()()()()()って何?)

 と疑問に思った。

 彼女は円盤という単語から宙に浮かぶ『空飛ぶ円盤』を思い浮かべた。その後、過去の経験から得たアニメに関する知識を基に、アニメのキャラクターをその隣に思い描くと、それら二つを脳内で組み合わせた。すると頭の中に、アニメのキャラクターが描かれた円盤型の宇宙船が完成し、こんなのかな、と思った。

 まひるが思考し、『アニメの円盤』の形状や性質を想像し終えると、何かがスカートをくいくいと引っ張っていることに気が付いた。

 まひるは、あすかが何らかの理由で、自分を呼びかけるためにスカートのすそを引っ張っているのであろうと見当をつけると、視線を下に向けた。するとそこには、予想通りあすかが、予期せぬ顔の表情で、まひるを仰ぎ見る姿があった。あすかは八の字を寄せ、上目遣いの困り顔をしながらも、

「……お姉ちゃん、魔法少女になるの?」

 と、目をきらきらと輝かせ、何かを期待するような眼差しでまひるを凝視し、そう聞いた。

 まひるには、その問いに即座に答えることができなかった。

 二つの熱視線を向けられたまひるは、つかの間、小難しい顔で黙っていたが、つと、

「はぁ」

 と大きくため息を吐き出し、観念したような諦めの表情を浮かべると、

(どうせ大学の学費や生活費を払うためにお金は必要だし、まあいいか)

 と、自己の判断を肯定するような意見を意識することで自我を働かせ、自身を納得させた。そして、

「……分かりました。若輩者ですが、そのお仕事お引き受けします」

 と大熊に向かって、丁寧な言葉遣いで無愛想に答えた。

 すると、大熊は、

「よっしゃあ!! 魔法少女まひるの誕生やあー!」

 と、どこに関節があるのかよく分からない腕を曲げ、ガッツポーズを取りながらそう叫んだ。

 まひるはぽかんとした。

(なんで急に関西弁?)

 大熊の話し方が語尾に『ござる』を付ける口調から主に日本の近畿地方で用いられている『関西弁』と呼ばれる日本語の方言に変化したためまひるは当惑した。関西弁は近畿方言とも呼称され、近畿地方である京都・大阪を中心に多数の話者がいる方言である。特徴としては母音をはっきりと発音することや、共通語と比べてアクセントのパターンが多く、高低アクセントの置き場所が一拍分ずれるなどがあり、現在の日本の共通語とは大きく異なるため、共通語ではないことを判別しやすい。元々は畿内が日本の政治・文化の中心であったため長らく中央語として使用され、標準語のように扱われた言語であるのだが、江戸時代以降政治の中枢が京都から東京に徐々に移行し、その後、東京方言(江戸言葉)の台頭、標準語の東京方言(山の手言葉)を基にした整備、標準語教育による標準語の普及に、標準語に対する規範意識の向上など様々な要因もあって、近畿方言は次第に一地方方言としての役割と、創作におけるステレオタイプな人物を表現するための役割語としての意味合いしか持たなくなっていった。しかし、近畿方言の影響力は大きく、地方の共通語化・東京方言化が進む中でも、依然有力方言の一つであり多数の語彙が共通語に取り入れられ使用されるなど、日本各地の言語に影響を与えている。そればかりか近畿方言は、マスコミュニケーションの発展とともに、漫才・コントなどの演芸、漫画・ドラマなどの芸術など、娯楽分野で多大に活用されており、特に大阪弁・京言葉などの上方語は、『関西弁』の名称で、ステレオタイプな関西人や共通語を話すキャラクターとの差異を表す記号としてしばしばフィクションで利用され、テレビや雑誌、インターネットなどのマスメディアを通じて頻繁に日本の様々な地域に発信されており、記号としての関西弁の日本国内での認知度は高い。そのため、まひるはすぐにそれが『関西弁』であるということは理解できたが、なぜ大熊がいきなり言葉遣いを変えたのかは把握することができなかったし、その行動になんらかの意図や目的があるのかも分からなかった。

 まひるは、大熊の発言のせいで一瞬呆気(あっけ)にとられたが、すぐに我に返ると、伝えるべき要件を思い出し、

「あ、でも、親と学校の許可が下りなかったら無理ですよ」

 と大熊に告げた。

 この国の法律では、高校生のアルバイト行為に保護者の同意が必須とは規定されていない。しかし、親権者もしくは後見人は、労働契約が未成年者に不利だと認める場合、解除することが可能であるとは規定されていた。すなわちそれは、子供がどこかの使用者と労働契約を結び、無断で働いていたとしても、親の判断で辞めさせることができるということであり、そのため、雇用主が未成年者である高校生を雇う場合、被雇用者本人に勤労意欲があり、勤務スケジュールに予定を入れていても、保護者の独断で解任させられ、それにより、突然シフトに穴が空くなどの後々のトラブルやリスクを回避するため、あらかじめ未成年者に両親の承諾を得ているかどうかの書面を、学生証などの年齢証明書や履歴書とともに提示または提出させるのが普通であり、一般的であった。まひるはまだ労働経験がないこともあり、そのことを知らなかったが、履歴書に保護者記入欄が設けられていたので、親のサインも必要なのかなと思い、そう述べた。ちなみに、通学している学校の許諾も必ず必要というわけでもなく、雇用する側によっては、学校の承認を必要とせずに無許可の高校生を使役することも普通にあったが、校則でアルバイトが禁止されている場合、違反した生徒はなんらかの処罰を受ける可能性があるため、高等学校に通う学生は学校側の許可も取ることが望ましいとされる。

 空中で小躍りしながら喜んでいた大熊は、その言葉を聞くと、ズコーと思いっきり足を滑らせ上下が反転したような恰好になり、その体勢のままヒューと音を立てるように床まで落ちた。そしてうつ伏せに倒れると、その状態のままこう言った。

「……それを先に言ってほしかったでござる」

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