8 あなたを信じてみようと思います。
災種。
ヒトに取り憑く事で、その身と周囲に災いをもたらす命無き影。
災種憑きとなった者は、時に疫病の原因である病原菌の母体になり、時に快楽を求めて殺害を繰り返す狂人となり――つまり、周囲に悪影響を及ぼすだけの存在となる。
その災種を監視し、一つ一つ消滅する〈約束〉を大地と交わしたのが始まりの七人で。
大地と始まりの七人の間にその〈約束〉が交わされて以降、それはずっと続いている。
証はヒトと同様の鎖。
そして記述書は、災種関係の異変を記すものなのだと教授は語った。
*
蒼は、あてがわれた部屋のベッドに飛び込むと、枕を引き寄せ顔をうずめた。
微かに柔らかな花の香りがして、少しだけ心が落ち着く。けれど、すぐに顔を上げる気にはなれなかった。
(わけのわかんないことばっかり)
災種を消滅させられるのは、始まりの七人だけだという〈約束〉があるのだという。
それなのに、自分にはその約束を覆すような真似が出来た。
不思議な力などない、ただの人間なのに。
鎖が無いとかそんな表面的な事じゃなく人間だと信じて貰いたいのに、信じてもらえるような事が何も出来ていないどころか、これではそうでない事を証明したようなものだ。
「……どうしよう」
「とりあえず気付いてください」
「っ!」
独り言に返事があった驚きから、おかしな風に息を吸い込んでしまった蒼は小さく咽る。
慌てて身を起こせば、開け放たれた扉に寄りかかっている不機嫌そうな教授を見つけた。
蒼は枕を胸元でぎゅっと抱きしめて、柳眉を逆立てる。
「ノックも無しにドア開けるのは失敬!」
「しましたよ、何度も」
「え」
投げつけてやろうと枕を構えていた蒼は、柔らかなその凶器を慌てて胸に抱きこんだ。
「ご、ごめん。気付かなかった……あれ? どこか行くの?」
「ええ」
初めて会った時に見た、緑青色の外套をしっかりと着込んでいる教授は、手に持った荷袋を握り直して頷く。
「賢者の所に」
「ええと……それって確か、始まりの七人の?」
「そう。記述書が黒く染まった件と災種のことについて、確認に行くつもりです。オレの考えが当たっていたら、厄介なことになりそうなので」
「どういうこと?」
蒼はベッドの上で背筋を伸ばす。
教授は扉から身を離して、室内に足を進めた。
「生まれたばかりの災種は、小さく色が薄い。けれど、今日ここに現れたあの災種は、両方とも育ちすぎていました。
記述書には災種が出現した瞬間その旨が記されるから、あの大きさになるまでオレが気付かない筈がいないんですよ」
「つまり、突然、大きく育った災種が突然現れたのはおかしい、ってこと?」
蒼は、何とか理解する。
「そう。それに、記述書に一瞬見えた『解放』の文字……。もしかすると、混沌時代にオレ達始まりの七人が封じた災種が、どこかで解放されてしまったのかもしれない」
「始まりの七人が、封じた……ってどういうこと?」
「ああ、そこまで説明してませんでしたか。災種が現れるのは、ヒトが生まれる瞬間だという話は――」
「だいじょうぶ、それは、さっき本で読んだ。ヒトが一人誕生すれば、同時に災種が一つ現れる……だよね」
「そうです。ここ、お邪魔しても?」
「あ、うん。どうぞ」
教授が椅子に腰掛け、長い足を組んだ。
どうやら、長い話になりそうだ。
「でも新しい生命の誕生に対する歓喜や希望に、生まれたばかりの災種は形を得る前に打ち消されますから、一概にヒトの数が災種の数とは言えないんですが」
「そうなの? でも、打ち消されちゃうなら、姿を現す災種があるのはおかしくない?」
首を捻る蒼に、教授はゆるゆると首を振ってみせた。
「ヒトの誕生全てが、歓喜と希望に溢れているわけではない。わかりますよね」
かみしめるように告げる教授の声は、低い。
「それって、つまり・・・えっと」
「誕生を望まれぬ命もある。認め難いですが、この大地にはそういう事実があるんです」
「……それ、は」
蒼の記憶にもある――地球でも見られた事。
そう言おうとして、けれど蒼は飲み込んだ。
言ってどうなる。
お揃いだと言って喜ぶ?
大地だけじゃないよと告げて教授を安心させる?
――どちらも無意味で、不可能だ。
「蒼」
「え?」と視線を上げると、教授がじっとこちらを見ていた。
「それは、の続きは?」
「あ、ううん。何でも、ないよ」
教授は目を細めたが、特に追求しなかった。
「生まれたばかりの災種の弱点がヒトの正の感情ならば、原動力は負の感情なんです。恐怖や狂気、絶望。それらがあればあるほど、災種は育ちます。
そしてある程度育ったら、幾つかに分裂して数を増やしていく」
「……それ、なんか、アメーバみたい」
しかも、生物を死に至らしめる恐怖のアメーバだ。
そんなモノが常識として存在しているなんて、納得するには勇気がいる。
「あめーば?」
「こう、ぐちゃっとしてでろっとしてる……なんだろう、あれ? アメーバじゃなくて、スライム?」
「良くわかりませんが……日本にいる生物、ですか?」
「生物……物体? あれ、生きてるのかなぁ」
自分で言い出したことだが良く思い出せなくて、蒼は唸った。
まあ、いっか。適当にごまかすことにして、へらりと笑ってみる。
「ええと、それより、ってことは、混沌時代って大丈夫だったの? その……ヒトの負の感情だらけだったと思うんだけど」
「いい所に目をつけましたね。その通りです」
肯定された事実が事実だけに、褒められてもあまり嬉しくない。
教授自身、面白くなさそうな表情をしている。
「そこで封印の話に戻るんです。混沌時代、災種は恐ろしい速さで増殖しました。当時は希望や歓喜なんて感情は、息を吹きかけたらかき消えるマッチの火程度しかありませんでしたからね。
災種は災いを呼び、負の感情が増え、それを原動力とする災種もまた、増える」
「やな循環……きり、ないよね、それ」
「なかったですよ、実際。だから、その時すでに力を制限されていた始まりの七人では、際限なく増殖し続ける災種全てを消す事はできなかったんです。
それで仕方なく、大地の力を持つ水晶に、何箇所かに分けて封じる事で無理やり決着をつけた」
(制限……ってなんだろ)
けれどそれよりも気になった事があったので、「ハイ、教授」と蒼は挙手をした。
「どのくらいの量の災種、封じたの?」
「そうですね。水晶一つ……一箇所に、王都を一夜で壊滅に陥れる事が可能な量程度でしたから、数百万単位で封じたかと」
王都というのがどの程度の大きさなのかは知らない。
けれど脳裏に、日本の首都があの禍々しい影で覆われる様が思い浮かべば、どれだけ鈍感な人間でも深刻な事だとわかる。
そうして同時に、気が付いた。
「じゃあ、その封印が解けたって事は、めちゃくちゃ大事なんじゃないのっ?」
「大事ですよ」と教授は重苦しく頷く。
「それが本当だとしたら、数多くのヒトが死ぬことになります、確実にね。
だから、四季の世界の災種の管理を任されている、もう一人の始まりの七人に、この件について何か情報を得ていないか確認を取りに行くんです」
大地は広い。
故に、七人で分担して各地方の災種に対処しているのだと、教授は言った。
四季の世界は教授と賢者が。
春の世界は魔術師と医師が。
秋の世界は城主が。
冬の世界は七人全員で臨機応変に。
そして夏の世界は将軍と、もう一人。
「ここから賢者の住む町まで、馬で三日はかかりますが、貴女はどうしますか? それを聞きに来たんです」
「行く、行きます」蒼は即答した。
その答えを教授は予測していたようだが、確かめるように蒼の瞳を覗き込む。
「乗馬はできるんですか? 慣れていないと、筋肉痛に苦しむ羽目になると思いますよ」
「馬に乗るの?」
「ですからさっき、馬で三日かかると言ったでしょう」
そうだろうなとは思っていたけれど、やはり、車や電車はこの大地には存在しないのだろう。
馬に乗ったことがあるかどうか?
蒼は少ない記憶の欠片を引っ掻き回すが、己の名前さえわからないのに、馬に乗った経験など引っ張り出されるはずもない。
「乗馬かぁ……。したこと、多分ないけど、頑張る。わけがわからないままで、一人で留守番なんて、絶対にいや」
おいて行ったら呪ってやる。
そう言わんばかりに身を乗り出せば、教授に挑戦的に見返される。
「では、頑張ってください。そう、筋肉痛分以上の利益は得られると思いますから」
蒼は、何それと、少し高い位置にある教授の顔を見上げて目で問うた。
「賢者は、命ある存在全てを望みへと導く力を持っている『導きし存在』なんです」
ずきりと、頭の片隅がうずいた気がした。
命ある存在全てを望みへと導く、賢者。
「――それって、私が賢者に望めば、記憶を戻してもらえるかもしれないってことっ?」
教授が深く頷いた。
蒼は頭痛を忘れ、ベッドから飛び降りる。放り出された枕が、軽い音を立てて床に落ちた。
「なら、余計に留守番なんてしてられないよ。駄目だって言われても、ついてくからね」
「駄目なら、貴女の意思確認などしには来ませんよ。行く気があるのなら、準備してください。時間が惜しいので、すぐ出発しますから」
「わかった」
といっても何の私物もない蒼だから、今すぐにでも出かけられるのだけれど。
一応、何か準備した方がいいのか教授に聞こうとすると、先に口を開かれた。
「ああ、それと、途中リーネ村に寄りますから、含んでおいてください」
「りーねむら?」
「リーネはここから歩いてでも行ける、唯一の村です」
教授は、椅子から立ち上がって続けた。
「とりあえずそこで、貴女の捜索願が出されていないか、確認したい」
「……それ、本気で言ってる?」
冗談でも、笑えない。蒼は顔をしかめた。
「地球生まれの人間の捜索願いが、大地で出されるはずないじゃない」
わかりきった事ではないか。それにも関わらず、彼がそんな提案が出来る理由は一つだ。
思いつけば、先ほどまでの期待が一気にしおれて、口の中には苦々しい味が広まった。
「……やっぱり私が人間だっていうこと、まだ信じてないのね」
言うべきか迷って結局口にしたら、教授の瞳が動揺に揺らいだように見えた。
彼の口が言葉を紡ごうと開きかければ、耳を塞ぎたくなる。何を言われるか予想はつく。
「――信じますよ」
そう、どうせまだ信じていないと……。
蒼の思考は、そこで数秒凍りついた。解凍されれば驚愕し、素っ頓狂な声で繰り返す。
「し、んじます? え。なんで?」
「嫌なんですか」
「そ、そうじゃなくて! ええと、私……信じてもらえるようなこと、何かできてた?」
恐る恐る口にすれば、教授の視線が蒼の腕に動く。つられると、赤黒い色が目についた。
彼の血。それを見る教授の眉がほんの少し潜められ、うすい唇が小さく動く。
「そういう事を聞きますか、貴女は……。ま、無意識こそ本性の表象だとは言いますが」
また小難しい事を、という蒼の呟きを教授はしっかり拾ったようだった。
「考えれば理解できる頭があるんですから、それくらいは自分で解決してください」
「…………」
「やれやれ……。そんなに不安なら、もう一度言いましょうか?」
教授が、今度ははっきりと唇を動かした。
「貴女は少なくとも、悪人ではない。それは、わかりました。ですから、貴女が自分のことを異世界から来た人間だと信じているのなら、オレもそれを……貴女を信じてみようと、思います」
「――っ」
その言葉を望んでいたのに、一瞬何を言われたのかわからなかった。
ただ、体の奥が熱を帯びた。思考が体に追いついていない。
涙が出そうになって、蒼は急いで教授から目をそらし、俯いた。
「……ありがとう」
するりと言葉が出てから、今自分はとても嬉しいんだと、わかる。
教授の苦笑が、微かに聞こえた。
「礼には及びません。誰かを信じるのに難しい理由はいらないと、以前、誰かが言っていたのを思い出しただけですから」
それを聞いた蒼は、肺をぎゅっとつかまれたような息苦しさを覚えた。
(どこかで同じ言葉、聞いた事がある……)
それを口癖にしていたのは誰だった?
涙で滲んだ床が次第に明確になるにつれ、逆に思考は霞んでいく。
何故だろう。思い出したいのに、そうする事がとても、怖い。
「信じたいと望む気持ちの前では、どんな理由も薄っぺらい言い訳にしかならないから、とね。時と場合によるでしょうし、甘ったるい考えだとは思いますが」教授は一拍間を置いた。「嫌いじゃないんです」
困ったような声色に、蒼は教授に目を向けた。彼は、蒼の目元を見てますます困った顔になる。
蒼は流れこそしなかったものの目尻に溜まっていた涙を、手の甲で慌てて拭った。
教授が子供をあやすように、蒼の頭をぽんぽんと叩いてくれる。
「でも、貴女が人間だという事イコール、大地に知り合いがいない事にはなりません。貴女を待っているヒトがいる可能性はあるんですから、確認には行かないとね」
待っていてくれている人が、いるのだろうか。
いたら良いなと思う一方、日本人である事が、それではいけないと思わせる。
蒼がその両極性を処理しきれず沈黙していると、教授はそれを了解と取った様だった。
「じゃあオレは外で馬の用意をしてきます。一応、貴女用の外套や鞄を適当に見繕って応接間に置いておきましたから、その他に何か欲しい物があれば、声をかけてください」
そう言って退室しようとした教授は、何かを思いついたように足を止める。
「ああ、そうだ。始まりの七人の最後の一人を、まだ言ってませんでしたか。もう一人は」
教授は厳かに告げた。
「悪魔です」