5 教授とお勉強。信じても、いいですか?
部屋を出て、探し出した教授に早速大地の常識とやらを教えてほしいと頼んだところ――なぜか蒼一人で、書庫にこもることになった。
少人数ならちょっとしたパーティができそうなくらい広い室内には、分厚い本がぎっしり詰まった本棚が整然と並べられていて、中央には閲覧用の机と椅子がある。
椅子の座り心地は良いのだが、窓がすべて本棚で塞がれているので薄暗く、とても埃っぽい。
下手したら地下と間違いそうな圧迫感があるこの場所に蒼を閉じ込めてくれた教授は、一時間前の紅茶の差し入れ以降姿を見せない。
ティーカップはとっくの昔に空だ。
それを忘れて手を伸ばし、切ないくらいに冷たい陶器の感触にため息をついたのも、もう何度目だろうか。
「教授とか名乗ってるなら、学校の授業みたいに説明してくれてもいいのに……。戻ってきたら質問攻めにしてやる」
ぶつぶつ呟きながら目を通す書物は、やっと二冊目。
二時間前に「読み終わるまで退室禁止」と言って教授が積んだ本の山は、まだ頂上付近しか削れていない。
「うー、肩痛いー」
ぐっと腕を伸ばして伸びをして、ふと目に入った一冊の本に、視線を奪われた。
深緑の装丁に金の文字で綴られている題名は――『時の扉』。
教授曰く、人間という架空の存在が出てくる、架空の物語。
年季を感じさせる古ぼけたその本を、蒼はしばらく睨み付けていたが、やがて唇を噛んで俯いた。
どうしてもその本に触れることが出来ない。
読んで、昨日教授が言った通りのことが書かれていたら、どうしていいのかわからない。
だからその本のことは思考の隅に追いやって、正反対の場所に山積みになっている本に手を伸ばした。
手に取った一冊は、運良くこの世界の成り立ちや常識について綴られた本だった。
文字は大きく挿絵もついているから、子ども向けの参考書か何かかもしれない。
適当に開いたページに載っていたのは、主に使用されている数的単位や、一年の日数と時間、一月から十二月までの月の数についてで、それらの殆どが日本で教えられたものと同じだった。
(もしかして私、なんでかはわからないけど、外国に来ちゃってるだけなのかも)
そうほっと安堵したのもつかの間、読み進めていくうちに蒼の眉間には皺が寄り、唇はぎゅっと引き結ばれた。
「……春の世界、夏の世界、秋の世界、冬の世界、四季の世界っていう五つの国しかないって、なにこれ。通貨は各国共通で、セリンっていう一種類だけ……?」
挿絵として描かれているのは、西洋の宝箱に眠っていそうな金貨や銀貨だ。
その他にも、『初耳なのは外国のことだし』という理由が通用しない内容ばかりが目に飛び込んできて、蒼のページをめくる手つきは、だんだんぎこちないものになってしまう。
例えば季節。
冬の世界は一年中冬、夏の世界は一年中夏という様に、四季の世界以外は季節が巡らないらしい。
更に奇妙なのは、〈約束〉というものの存在だ。
曰く、人が空を飛べないのはそういう〈約束〉があるから。
曰く、人に寿命があるのはそういう〈約束〉があるから。
大地に生きる者は、〈約束〉を理由に挙げる事で全てを納得してしまうようだった。
〈約束〉は絶対的な決まり事であり、〈約束〉を信じていない者はおらず、〈約束〉のせいでそういう結果になった、と言われれば誰も疑わずに納得するらしい。
「むー? 運命、みたいなものなのかな。でも、信じていない人はいない、って言われるとなぁ。運命がどうのーって言うけど、あれって別に絶対的な決まり事ってわけじゃないわけだし。よくわかんないなぁ」
〈約束〉について記してあるページでうんうん唸っていると扉が開き、久しぶりの新鮮な空気が室内を巡った。
ひょっこり覗いたのは、憎らしい銀色の頭。
「どうです、大地の常識は理解できましたか」
「……固定された季節、妖精がいる、最速の移動手段は馬。電気はお伽噺の中にでてくる夢のシステム。代わりに、大地には不思議な力を秘めた石があって、例えば昨日のお風呂は浄化石とか炎石とか使って管理されてる」
缶詰にされた恨みからぶっきらぼうに言っても、教授は気を悪くした風も無く「初歩的な常識ですね」と肩をすくめた。
「私にとっては、非常識なことばっかりだよ。こんなのが常識だなんて、まるでここが……」
喉元まで出かけた続く答えを、蒼はぎりぎりで飲み込んだ。
それは、多分昨夜の時点から、薄々と気づいていたこと。
あまりにも馬鹿馬鹿しすぎて、けれど口にしてしまえば認めざるを得ないだろうと思ったから、ずっと黙っていようと決めていた可能性。
しかし不自然に言葉を切った蒼を不思議に思ったのか、教授に「ここが、の続きは?」と聞かれてしまう。
「え、えーっと……」
「異世界であるとしか思えない?」
「うん、そう……って、わーっ! ひどっ! な、なんで言っちゃうのっ? あえて考えないようにしてたのに!」
蒼は大声で嘆き、本の頂に突っ伏した。
「なんですか、それ」呆れたような教授の声が、頭の上から落とされた。
「だって、い、異世界に来ちゃっただなんて、信じられない……っ!」
「ならば、日本という場所から来たという主張を取り下げますか」
「あ、待って、それは駄目、やだ!」
蒼は急いで本の山から顔を上げて、乱れた前髪もそのままに、両手を振って否定する。
「私は人間で日本人! それは間違いない」
今の蒼を支えているのは、その記憶だけ。
とても曖昧だけれど、蒼にとってはどんな宝石にも代えがたい欠片なのだ。
それを否定してしまえば、自分が自分であると信じる理由が何も残らなくなる。
そうなった時、自分がどうなってしまうのか、見当もつかない。
ただ、決して良い方向に進むことはないだろうということだけは、わかる。
だから、自分が人間で日本人であるということだけは、信じていなければいけない。
――ああ、もう。それにしたって、異世界に来てしまっただなんて。きっと自分に課せられた運命の輪は、ぐちゃぐちゃに捻じ曲げられてしまっているに違いない。
「うー、あー、異世界、かぁ……。ねえ、教授。別の世界の人間が、この世界にわけもわかんないまま来ちゃうのって、珍しくなかったりするの?」
「いえ、むしろ逆です。少なくともオレは、そんな事例は聞いた事がありません」
教授はあっさりと首を振った。
「異世界の存在を証明する事実も、いまのところ大地には無いと思います。どちらかといえば異世界とは、お伽噺の中で語られるだけの単なる幻想という位置づけですから」
「そう……なの? でも、それじゃあ」
それじゃあ。教授の言うことが本当なら。
「どんなに調べたって、どうして私がこの世界に来ちゃったのか、わからないかもしれないってこと?」
教授は頷かなかったが、否定もしなかった。
蒼は青ざめる。
だとしたら、これからどうすればいいのだろう。
たとえ記憶が戻ったとしても、この世界では異世界など存在しないことになっているのなら、最悪の場合、元の世界に帰る方法すらわからないのではないだろうか。
――二度と、日本に帰れない?
それに気が付けば、目の前が真っ暗になりかける。足の指先まで、体温が下がった気がして――。
「…………だいじょうぶっ!」
蒼は両の掌で、自分の両の頬をばちんと叩いた。
冷えかけていた肌を、じんじんとした熱と痛みが襲う。
「い、痛い……っ」
「当然でしょう」教授が、呆れたように言った。「なんですか、貴女は、急に」
「痛い、から大丈夫……っ!」
「……できれば、オレにもわかるように説明していただけますか」
「これは夢じゃないし、意識ははっきりしてるし、頭がおかしくなったわけじゃないし、記憶は無いけど思い出せばいいだけだし、そしたらきっとこの世界に来ちゃった理由とか帰る方法とかわかる! だから、だいじょうぶ。私、諦めないからね、教授」
息継ぎすら惜しんで一気に言い切ると、宣言した先の教授は、気圧されたように黙って蒼を見ていた。
やがて小さく肩をすくめると、机に視線を落としてぼそりと呟く。
「――ゼロほど曖昧な数はない」
そうして、まっすぐに蒼を見た。
「すべての事象において『ある』より『ない』方を立証する方がはるかに難しい。『前例や証拠がない』という理由は、明瞭に見えて実はとても曖昧です。
例えば、オレが知らない異世界の来訪者の前例を知っているヒトがいるかもしれないし、今後、異世界の存在を証明する証拠が現れないとも限らない。
だから別に――貴女が今ここで諦める必要な無いと、俺も思います」
「そう、だよね。そうだよね! ありがとう、教授。私、がんばって思い出すから!」
顔中にぱあっと花を咲かせてぐっと拳を握りしめる。
教授は戸惑うように目をそらした後、腹の底から絞り出すような深いため息をついた。
「置かれているこの状況で、馬鹿みたいに前向きというかお気楽というか……。まあ、落ち込まれて泣かれるよりは、マシか」
「なにか言った?」
「いえ、別に」
教授は更に深いため息を一つ落とす。それから、ふと真面目な表情になって口を開いた。
「貴女が異世界から来た人間であるという、その可能性を信じるのは構いません。ですが、今は出来うる限りの可能性を考える段階だということは、覚えておいた方がいい。
可能性とは、磨いてこそ初めて価値がわかる宝石の原石のようなもの。拾い上げた時には無意味と思えても、いつか何かの鍵になる事もある。……話の途中で寝るとはいい度胸ですね、蒼」
「ち、違うよ寝てない寝てない」
慌てて、蒼は閉じていた目を開けた。
「そうじゃなくて、教授の言うことって、なんかいちいち難しいから……。に、睨まないで。えーっと、ようは、先走るなってことでしょ?」
「そう。それが例え、貴女が人間であるという可能性と相反する物であっても、捨てるには時期尚早でしょうから、ね」
「あいはんするもの……?」
「例えば」
一度言葉を区切り、教授はちらりと蒼を見た。意味ありげなその動きに、蒼は反射的に身構える。
「貴女はあくまでも大地生まれであって、ただ記憶喪失になったところに、物語と現実を混同した妄想を上書きしてしまっているだけの可能性、とか」
「だから、それだと色々根本から考え直さなきゃいけなくなるっていうか……。むー、でも、今はいろんな可能性を考えなきゃいけないっていうなら……わかった。覚えておく」
「…………」
「…………なに? なんで黙るの? そしてなんでこっちを嫌そうに見るの?」
教授は寄せていた眉根をそのままに、小さく首をふった。
「嫌、というわけではないのですが……」
「ですが?」
「オレが昨日、まさにその可能性を貴女に指摘したあと、パニックを起こされて怒鳴られて窓ガラスを割られたのを、思い出したので」
「そ、そうだった?」
「ええ。ですから、今、余りにも冷静に納得されたので、少し戸惑いました」
「そ、そうなんだ。冷静……なのかな。私」
今度は蒼が戸惑う番だ。教授は頷いた。
「昨日と比べたら、大分落ち着いている思いますよ。オレとしては、助かります。ああ、これ、貴女の記憶を辿る手がかりになるんじゃないですか?」
「これってどれ?」
「僅かな時間で見知らぬ環境に順応できる図太い神経の持ち主であること。ほら、そういった根本的な部分は、例え記憶喪失になっても変わらなさそうですし」
「ど、毒舌……!」
だが、言われてみればそうかもしれないと、少しでも納得してしまった自分がいて、蒼は肩を落とした。
(図太い神経とか……ぜんぜん嬉しくない)
確かに昨日は恥ずかしいくらい、泣いてわめいて、取り乱してしまった、と思う。
けれど、今日は異世界からの来訪者だ記憶混乱だと言われても、恐怖も不安も余り襲ってこないのも、事実だ。
朝起きて、記憶がない事を再確認した時もそうだった。不安は確かにあったけれど、昨日ほどじゃない。
言われてみれば確かに、十分、落ち着けていると思う。
(なんでだろう……教授のおかげ、とか?)
そういえば、今朝目が覚めてから取った行動は、屋敷の探検でも森の散策でもなく、教授を探すことだった。迷いもせず、彼に会わねばと思ったのだ。
そうして、教授の姿を見つけて安堵したのを覚えている。
第一印象がよろしいとは言いがたい初対面の人物を、頼りにするのはどうか、とは思う。今も毒舌を披露してくれたばかりの相手だ。
ところが、彼に対して安心感を覚えている自分がここにいることは、紛れもなくて。
例え第一印象が悪くても初対面でも、記憶喪失だということをひっくるめた自分を、ちゃんと知ってくれている人がいる。
それはとても大切で、安心できることなのかもしれないと、蒼は思った。
(教授のこと、信じても良い……かなぁ)
向かいに座った教授をちらりと見れば、眠そうな表情で本のページをめくっている。
蒼はふと、その目元の違和感に気づいた。
(……あれ?)
違和感を口に出すより早く、教授は手にした本を閉じ、蒼の方に押しやった。
「さて。オレの調べ物も一段落しましたし、今なら質問を受け付けますよ。何かありますか?」
「教授、寝た?」
「は?」
少し唐突だったかと、蒼は慌てて言い添える。
「や、なんか、目が赤い気がして。それに、昨日寝てないみたいなこと言ってたから……。調べ物って、私に関することでしょ? 私なら、とりあえずまだ一人でも頑張れるし、教授は」
「寝なくても問題ありません」
完璧に台詞を先回りされ、蒼は口を閉じる。
教授は、手を軽く払うように動かした。
「貴女のせいで寝不足なわけではありません。何故鎖がないのか、オレが調べたいから調べているだけです。自分の意思でね」
有無を言わせない口調に蒼が黙ると、教授はさらに続けた。
「気遣いは感謝しますが、貴女が今一番気にかけるべきなのは貴女自身のことです。それにオレは昨日、貴女に大地の常識を授けると約束しました。それを覆す気はありません」
「……ありがと」
小さく返しながら、蒼は少しだけ泣きそうだった。
(やっぱり信じても良いかなぁ)
もう一度心の中で呟いた。