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賢者のイシ  作者: 駿河甲斐
act1 蒼
4/98

3 痛みは現実を教える。そして与えられたものは。

「大馬鹿者」

「い……いたたたたぁ!」

左手を白い包帯で力任せにぐるぐる巻きにされれば、押し殺せない悲鳴がこぼれた。

抗議の意味を込めて、涙目で青年を見上げれば、冷たい銀色と目が合う。

「痛いのは当然です。素手で窓ガラスを叩き割ろうなんて、大馬鹿者以外の何者でもない。自業自得です。――ほら、動かないで」

ついさっきの痛みを思い出して、思わず手を引きかけるが、青年は思いのほか丁寧な手つきで、包帯の最後を手首で結んでくれた。

ちらりと目を向けたガラスには、蜘蛛の巣みたいに見事なヒビが入っている。

つまり、それほど強く叩き付けた左手の甲は、直視を躊躇うくらい真っ赤に腫れ上がっていた。

痛みのリズムはずきずきと絶え間なく、火で焙られているように熱い。

「これで分かったでしょう。貴女は痛みを感じている――つまりここは現実だと言うことです。痛みは、意識と身体を繋げるものなんですから」

「うー……」

頭中を踊る痛みと混乱と戦う彼女を尻目に、青年は包帯や消毒液を救急箱にてきぱきと詰めていく。

どうやら治療は終了のようだ。

青年は無言で救急箱を持ち上げると、それを持ったまま扉の向こうに消えた。

「……いたい」

呟きに返るものはない。

耳の奥に鼓動が聞こえるほどの静けさだ。

そうしてそれに浸れば少し冷静になった。

真っ先に胸を占めたのは、感情に任せて暴力的な行為に走った自分への戸惑いと恐怖。

どうしてあんな非常識な事が出来たのかと、理解できない。

普通の思考状態ではなかったとはいえ、やりすぎだ。信じられない。

一人で赤くなったり青くなったりしていると、青年が手ぶらで帰ってきた。

「ええと……教授?」結局名前が分からないので、そう呼ぶしかない。

「なんです」

「ごめんなさい」

頭を下げると、彼は唇の端を微かにあげ、先ほどと同じソファに腰掛けた。

「怒ってはいません。驚きはしましたが」

数分前までの苛々を綺麗に消し去った青年に、彼女はほっと息をつく。

彼は視線をテーブルに落とし、続けた。

「オレも大人気なかったと思います。自分でも、なぜ余裕がなかったのかはかりかねますが、結論を出すには性急すぎた。すみません」

まさか謝られるとは思わず、彼女は慌てる。

「ううん。私も、やりすぎたから。その、頭の中が真っ白になって、それで、つい」

「つい、で貴女はいつも窓ガラスを割るんですか」

「わ、割らないよ! ……と思います。記憶ないから、断言できないけど……」

自信の無さから俯き加減になれば、自然と言葉尻が消え入った。

教授は小さく苦笑した後、真剣な表情に戻って腕を組む。

「記憶がない、か。問題はそこですね。確認しますが、人間で日本人であるという以外の記憶は全く無いんですね?」

「うん……全然……思い出せない」

長い睫を震わせ、膝の上で拳を握り締める。

何度も思い出そうとした。今だって、思い出そうとしている。

けれど、記憶の糸は必ず途中で切れてしまう。

すくった水が指の合間から零れていく様な絶望感だけがつのってゆく。

――結局、何もつかめない。

思い出すという行為がどんなものなのかさえ、分からなくなりそうで。

「面倒だな」

教授が苦虫を噛み潰した様な表情で呟いて、彼女はびくりと肩を揺らす。

もう何度目かの不安と緊張で、指先の温度が下がったのが分かった。

眦を落として情けない顔になった彼女を見て失言に気づいたのか、教授は組んでいた腕を解くと、困ったように天井を仰いだ。

「不安にさせたなら謝ります。言い訳させてもらうと、今、とてつもなく眠いんです。おかげで、平常通り頭が働いていない」

「……寝てないの?」

「ちょっと忙しくてね。それより、もう少し詳しく状況分析をしてみましょう。結論を出すまではいかなくても、仮説くらいは立てられるでしょうから。ただし――」

教授は言いながら、胸元のポケットから万年筆と手帳を取り出し、テーブルに置いた。

「これは夢、という仮説は論外ということで」

ちらりと窓を見て言われ、彼女はへらりと笑ってみる。

けれど、青年の銀の瞳は冷えた光を湛えるばかりで、彼女は慌てて表情をひきしめ直すしかない。

教授は大きなため息をついて、やれやれと首を振った。

「ではまず、視覚的な面から検討しましょうか。例えば……そうだな、服はどうです。自分が今着ている服について、違和感などはありますか?」

指摘されて初めて、彼女は自分の服装を意識する。

そこまで気が回らないほど動揺していたのだと、改めて自覚した。

長袖の白いワンピース。

襟に通された紐の締め方によって胸元の開き具合を調節できるようだが、その青い紐は今、頑なに結ばれている。

ふわりと広がる袖口には、繊細なレースがあしらわれていた。そのレースをひらひらさせながら、悩む。

「うーん、違和感って言われても、別になんとも……。この格好、変なの?」

「いえ、特には。この大地(アストリア)では見かけないこともありません。貴女の言う、日本ではどうですか」

「普通の服、だと思う」

「そうですか。服は判断材料には……」

なりませんね、と続けるかと思ったのに、教授は唐突に口を閉ざし、目を見開いた。

二呼吸の間を置いた後、身を乗り出した彼に、右腕をわしづかみにされる。

「ちょ……い、痛っ」

「まさか、そんな……鎖が、無い?」

「くさり? って、い、いたたた! な、なになに、ぎゃあ!」

突然、掴まれている方の袖をまくられておかしな悲鳴が出た。

それでも教授は手を解放してくれず、むき出しにした彼女の手首を見つめ続ける。

わけがわからないやら恥ずかしいやらで、思わず、ガラスみたいにぶっ叩いてやろうかと動きかけた反対側の手は、寸でで止まった。

(瞳の、色が)

教授の瞳。桃色に染まって見えるのは、気のせいだろうか。

ざわり、と胸の奥がざわめいた。

なんだろう。なんだか、とてもよくない感じがする。

けれど、そう感じて瞬いた次の瞬間には、桃色はもうどこにも見えなくなっていた。

もう一度覗き込んだ彼の目は、月の銀色。

そのことにどこか深い安堵感を覚えた自分に戸惑いながら、けれどその理由を理解する間もなかった。

腕を握る教授の手に、更に力が込められて、再び悲鳴を上げる羽目になる。

「どうして。貴女は〈約束〉(マナ)に縛られていないんですかっ? 一体、これはどういう――」

「いだっ! だ、だから、いた、痛いってば! やだって、離し、てっ」

ありったけの力で腕を引けば、二人の掌がぶつかり、乾いた音を立てる。

それで我に返ったのか、教授は焦った様子で身を引いた。

「す、すみません。つい……大丈夫ですか?」

大丈夫じゃない。つい、で貴方はいつも乙女の柔肌を握りしめながら凝視するんですか。

反論したかったけれど、もう色々と疲れすぎて、諦めた。

「平気……。それより、一体なに?」

「……貴女は、大地(アストリア)の生まれではない、と?」

やはり腕を凝視されながら尋ねられ居心地が悪いが、彼女は正直にうなずいた。

「あすとりあなんて、知らない。私が生まれたのは、日本だよ」

「……そう、ですか」

教授は戸惑う様に瞳を揺らし、少し赤くなった彼女の右腕を、今度は壊れ物を扱うかのようにそっと取った。

「信じられませんが……。持っていなくてはならない物を、貴女は持っていない」

教授は取った時と同じくらい丁寧に彼女の腕を離すと、今度は自身の左袖をまくる。

その腕に巻きついている細い銀の鎖が、しゃらりと涼やかな音を奏でた。

「きれい……」

思わずこぼれた賛辞に、しかし返ってきたのは曖昧で自嘲気味な教授の苦笑だった。

「綺麗、ね。大地(アストリア)生まれなら、決してそんな感想は持ちえない」

「なんで? きらきらして、宝石みたいなのに」

「これは、宝なんて輝かしい物じゃありません。この鎖は〈約束〉(マナ)の証。この大地(アストリア)に生まれたヒトなら、必ず身に着けている物です」

「え。必ずつけなきゃいけないの? 子供も、大人も、みんな?」

「つけなければいけないというか、必然的に身に着けることになるんです。大人も、子供も」

「なにそれ、不思議。えっと、つまり国民の義務とか、そういうもの?」

「義務ではなく、そういう約束なんです。鎖は、母親の胎内にいる時からヒトの腕に巻きついているんですよ」

――いま、何と言われた?

「まってまって。え、つまり、鎖が体の一部っていうこと? あ、ありえない……!」

「オレにとっては、貴女のその反応こそがありえません。事実、というか常識なんですよ、これは。この鎖はヒトの成長と共に輪を大きくしていき、一生外れません。

どんなに鋭い刃物や獣の牙をもってしても、決して切断することはできない。だから、鎖を持たないヒトなんて、存在するはずがないんですよ」

教授が鎖を指で弾く。

鎖が奏でた鋭い音は、冷え切った冬の空気を思い起こさせた。

「だから鎖を持たない貴女は、少なくともヒトではないということです」

「や、やっぱり全然わかってくれてない!」

思わず頭を抱える。

「さっき、わかったって言ったのに。人だってば、私は!」

「人間だというんでしょう?」

「だから人間だって……あれ? うん?」

あっている、その通りだ。

けれどほんの数秒前は人ではない呼ばわりしてくれていなかったか。

それとも何か、聞き間違えた?

「混乱してますね」

「誰のせいだと……」

「わかりました。まずは貴女に、この大地(アストリア)の常識を授けましょう」

きょとんとして教授を見れば、鎖を袖口に隠した彼は、今まで見た中で一番柔らかい苦笑を浮かべている。

この大地(アストリア)のことをきちんと理解すること。それがきっかけで何か思い出すかもしれません。それで駄目なら、他の方法を考えましょう。

貴女の記憶が戻るまでにどのくらいの時間が必要になるかは定かではないですが、幸いこの家には空き部屋がいくつかありますから。好きな部屋を使ってもらって構いません。それでいいですね?」

すぐには返答できなかった。

だって、一体何を言われたのかよくわからない。

ようやく理解すれば、驚きに声が詰まった。

「ここにいて、いいの?」

「理解に大分時間がかかりましたね」

嫌味のような返答にも、怒るよりも困惑しかできない。

「でも、最初出てけって」

「それは、貴女のことを泥棒だと思っていたからですよ。犯罪者を歓迎して何の得がありますか。それに、あの時と今では、まるで事情が違います」

「そう、なの? 何が違うのか、全然わかんないんだけど……」

「……いいですか? 信じがたいですが、貴女には鎖が無いという由々しき事実がある。周囲に悪影響を与える危険性を保持しているかもしれない貴女を、放っておくわけにはいかないんです」

「……なんか、その言い方だと、私がまるで、変な病原菌みたいに聞こえるんだけど」

「病原菌? ああ、いえ」

睨むと、教授は再度の失言に気付いたのか、渋い表情で目元を押さえた。

「まいったな、そういうつもりで言ったんではないんです。つまり、ですね、オレの責任の話をしているだけですから」

責任? どういう意味だろう。

そう思って怪訝な顔で睨む様にすれば、返ってきたのはわざとらしく深いため息だった。

「勿論、貴女が出て行きたいというなら――」

「お世話になります!」

止めませんが、と最後まで言わせず、慌てて頭を下げる。

けれど、はたと気づいたことがあれば、そのままの姿勢で固まった。

冷や汗すら浮かんできた首を捻って教授を見ると、思った通り、不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。

「なんです」

「えーっと、その」

「だから、なんです」

「その、ね。私、無一文なんだけど……」

ああ、と呟き、教授は何故か感心したような、それでいてどこか呆れを含ませた表情を浮かべた。

「律儀というか馬鹿正直というか」

「う……」

「心配しなくても、別に宿代を取るつもりはありませんよ」

「ほ、ほんとに?」

「ええ。どうせ部屋は余っていま――うわっ」

不安顔から一転。表情を輝かせてソファから飛び上がり、テーブル越しに教授の手を握り締める。

怪我の痛みなど全然気にならないくらい、うれしくて、泣きたかった。

「ありがとう!」

「いえ、別に、お礼を言われるほどのことでは」

「ううん、そんなことない、ありがとう! あー、よかった。すっごい、ほんと、よかったぁ……」

「……忙しい人ですね。落ち込んだり、喜んだり」

教授は、やや気押された様子で、その目は珍しい生き物を見るそれだった。

「で、これもまた、つい、ですか?」

「これ?」

「手。離していただいても?」

「え? あ、わぁ!」

己の両手で、ぎゅっと握りしめ続けていた教授の手を慌てて離す。

「ご、ごめんなさい。つい……」

そこで、沈黙。二人の目が合う。

間をおかずして、彼女は噴出した。教授も、何かを堪えるようにそっぽを向いている。

「ああ、そうだ。呼び名は何がいいですか」

突然出された質問に、苦笑程度だった教授と違って笑いの渦から抜け出せていなかった彼女は、瞬時に反応できなかった。

呼び名?

「って、私の?」

「そう。仮でも名前がないと不便ですから」

彼の言う事はもっともだ。

けれど突然、仮といえども名を決めろと言われて、すぐに思いつく方が難しい。

そんな彼女の困惑を読み取ったのか、教授は少し思案した後「(あお)」と漏らした。

「蒼、はどうです?」

教授が、手帳の紙面に書きつけた文字を覗き込みながら、彼女は小首を傾げる。

「どうして、蒼?」

「どうして、と言われても。ふと思い浮かんだので」

彼女は、ふぅんと頷いた。

「蒼か」と口の中で転がすと、不思議な程しっくりなじんだ。

うん、いいかもしれない。

「じゃあそれで。あおは一番好きな色だし、文句ないです」



この時から、記憶喪失で身元不明の彼女は蒼になった。


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