2 知らない人は『教授』を名乗り。そして喧嘩勃発。
名前はわからない。
どうしてここにいて、家主のベッドで寝ていたのかもわからない。
わかるのは、自分は日本人だということ。それから日本でのごく簡単な常識。
それ以外は、まるで思い出せない。
ソファに腰掛けた銀髪の青年にそう告げれば、彼は考え込む様に黙ってしまった。
青年の正面のソファに腰を落ち着けた彼女は、その隙に室内をそっと観察する。
とりあえず、泥棒ではないと納得してくれたのか、別室で話を、と案内されたこの部屋は豪華な洋室だ。
綺麗に磨かれた鏡みたいな窓も、本が乱雑に積み重なったテーブルも大きい。
そのテーブルを囲むソファの座り心地は抜群だ。
ふと、視界の隅に動くものをとらえて視線を移す。
青年の背後にある、外との境の窓ガラス。
そこに映っている、不安そうな顔をした黒髪黒目の10代後半くらいの少女と目が合った。
(あれが、私……?)
知らない。実感がわかない。
ガラスの中の少女の顔が情けなく歪む。
息苦しい沈黙に不安があおられ、彼女は堪え切れずに口を開いた。
「あ、あの!」
「何です」
青年は考え込んでいた割に、テンポ良く反応した。
宝物のように綺麗な銀の瞳を真正面から受け、彼女は少しどぎまぎしてしまう。
「えっと……あ、あなたの名前は?」
「オレは教授です」
「え……と? きょうじゅ、さん? それ、本名?」
「は? 違うに決まっているでしょう。真名は別にありますよ」
馬鹿にするような物言いに、この人顔はいいけど性格悪そう、とこっそり思う。
「なら、最初から本名を教えてくれればいいのに」
「オレがヒトだったなら教えても構わないんでしょうが、教授である以上、真名を教える訳にはいきません。そのくらい常識でしょう」
「え、や、きっぱり言われても、わけわかんないんだけど。人だったならって、なに言ってるの? あなたも私と同じ人間じゃない」
「人間? 貴女こそ何を言っているんです」
青年が猫っ毛らしい銀の前髪をかきあげると、苛ついたような表情が見て取れた。
「アストリア暦1125年、ケイン・アレスタ著、『時の扉』」
「はぃ……?」
唐突な話題の変更についていけない。
青年はそんなこちらの構うことなく、続ける。
「さっき貴女が言った、人間という種族が出てくる物語ですよ。アレスタ氏の代表作で、今から200年ほど昔に書かれた大作。
ああ、そうか、思い出した。確か日本とは、その中にでてくる国の中の一つでしたね。……ふぅん、なるほど。貴女が陥っている状況は、なんとなく理解しました」
理解したといいながら少しも嬉しそうでない。
彼は胡散臭そうに目を細めた。
「何らかの原因での記憶喪失。さらには、その穴が開いた部分に、空想上の生き物でしかない人間だという妄想がはまってしまって、記憶の混乱が生じているんでしょう」
「ちょ、ちょっと待って。人間が、空想上の生き物……妄想って、ほんとにさっきから何言ってるの?」
「真実を。いいですか。この大地の名前はアストリア。地方は五つ。春の世界、夏の世界、秋の世界、冬の世界。
そしてそれらに囲まれた位置にあり、今この場所である四季の世界。日本なんていう場所はどこにもない」
「日本が、ない?」
ああ、ほんとうに意味がわからない。
頭の中がぐるぐると渦巻いているようで、泣きそうだ。目と鼻の奥が痛い。
ややあってから搾り出した声は、自分でも驚くくらい掠れて震えた。
「ここが外国だっていう意味? 日本がどこにあるか知らないの?」
「知ってますよ。日本は物語の中にある国です。ここにも本がありますが、読みますか?」
彼女は、黒い瞳を限界まで見開いた。
「変なこと言わないで! 私は確かに記憶喪失みたい、だけど、日本が実在する国だってことくらい覚えてる! な、名前はわかんないけど、人間で日本人だってことも……!」
「うるさい。そんなに大きな声を出さなくても、聞こえます」
不快だと顔中に書いた青年に怯み、彼女は先の言葉を飲み込んだ。指先が震える。
青年はソファに深く背中を預けると、面倒くさそうな表情で続けた。
「繰り返しますが、いいですか。人間も日本も架空の存在です。寝ている間に、人間になった夢でも見たのでは?」
「夢? そんなわけない。夢だっていうなら、今の方が夢だよ!」
「今の貴女は寝ているようには見えませんが。なんなら、鏡を持ってきましょうか?」
「目を開けてたって夢くらい見れる!」
「それは素晴らしい特技をお持ちで。ですが貴女がなんと言おうと、ここは現実です」
「違う!」
彼女はソファを蹴り倒す勢いで立ち上がった。
混乱と不安が頭の中で渦を巻いている。
体は、熱いのか冷たいのかわからない。
「水掛け論になりそうだな……面倒くさい」
時間の無駄だ、と彼は吐き捨てた。
「わかりましたよ。では貴女の見ている夢という事にしておきます。それで満足ですか?」
その投げやりな言い方に、かっとなった。
「夢だったら、私、こんなに困ってない!」
「支離滅裂ですね。夢だと言ったり、違うと言ったり。面倒くさい」
「うるっさいっ。わけがわからないんだから、しょうがないじゃない!」
呆れを含ませた彼に、更に腹立たしくなる。
そして急に、怖くなった。どうして怖いのか分からない。
けれど怒鳴っていないと、うずくまって泣き出してしまいそうな恐怖がある。
視線を上げると、こちらを冷酷に見やる青年が見えた。そこで、ふつりと何かが切れた。
目の前で、蒼い光が瞬いた気がした。
「――夢なら」
「なんです」
怒鳴りつけられたのが不愉快だったのか、顔をしかめた青年に、彼女は低い声で告げた。
「この部屋、目茶苦茶にしても構わないよね」
ガラス張りの窓に一気に歩み寄る。
そしてためらいなく振り上げた拳を、光を反射する平面に力の限り叩き付けた。