1 目覚めたら、知らない場所でした。
時々思い出したように浮かんでいる白の他は、ただひたすらの青。
自分の名前と同じ響き持つその色が、蒼の一番好きな色だった。
蒼というのは愛称で、本当の名前ではないのだけれど……。
本当の名前を付けてくれた親友――空色の髪の少女はまだ帰ってこない。
村の中で迷っているのだろうか。
蒼は小さくため息をつき、目を閉じた。
※ ※ ※
眩しくて目が覚めた。
「うー」
言葉になってないなと寝ぼけた頭の隅っこで感じながら、ごろりと寝返りを打つ。
途端、お腹が情けない音をたてて空腹を訴えた。
朝ご飯は何にしよう。
目玉焼きにトースト? ちょっと優雅に、シリアルにヨーグルトとアプリコットジャムをかけたものでもいいかもしれない。
大好きな紅茶の味と香りを楽しんで、しめのデザートは豪華にさくらんぼの缶詰をあけてもいい。
些細な幸福を考えながら、そっと目を開ける。
「……あれ?」
なんだかおかしい。そう思って一度目を閉じ、再び開ける。
「…………あれ?」
気のせいじゃない。真上に見える木の天井には、これっぽっちも見覚えがない。
きちんと理解すると同時に、体中の血の気が引いた。
体に巻きついていた布団を手荒に剥がし、慌てて身を起こす。手の下に柔らかなベッドの感触。
スプリングが、ぎしりと重い音を立てた。
「ど、どこ、ここ。え、ほんとにどこ、ここ!」
広い室内をせわしなく見回してみる。
壁紙は白く、床は高い天井と同じ木製だ。ベッドサイドの小さな机の上に、表題のない茶色い装丁の本と、溶けかけた蝋燭が無造作に置かれている。
灰一色のカーテンの、僅かな隙間から滑り込む透明な光が、本棚に並ぶ色褪せた本の背表紙を照らしていて、今が夜でないとわかる。
でも、ここがどこかは、やっぱりわからない。
しばらく呆然としていたが、無意識に手掛かりを求めたのか、伸ばした手が机の上の本に触れた。
「……記述書」
何気なく口にした後に、違和感を覚えた。
(何それ? そんなもの、知らない)
知らない?
なら、どうして頭に浮かんだの?
題名なんて、どこにも書いてないのに。
わからない。怖い、こわい、コワイ。
「や、やだ。なんで、何これ。私……私?」
ソレに気付いた時、再び全身の血の気が引いた。
パニックから、呼吸が止まりそうになる。
その時だった。ドアノブを回す音が、はっきりと耳に届いた。
「……っ!」
姿を見せたのは、一人の青年だった。
室内に一歩踏み入ってからこちらに気付き、ぎょっとした表情を浮かべ、僅かに後退する。
「な……誰ですか、貴女。ここで一体何を」
背が高い。切れ長の瞳とすっきり通った鼻筋を持った美貌の青年の問いに、彼女は返事を返すことが出来なかった。
青年の整いすぎた顔の造作に驚愕したせいでも、彼が見知らぬ人間だったせいでもない。
問題は彼がまとう服と色彩だ。
立ち竦む青年の瞳と髪は、冬氷を思わせる銀色。身にまとう緑青色の外套は、幻想小説の主人公が着ていそうな不可思議なデザイン。
こんな姿の人間には、現実世界ではお目にかかった事がない。
舞台用の衣装やカツラかとも一瞬思ったが、多分ちがう。作り物にありがちな安っぽい光が、さらさらの髪にもきらきらの瞳にも見られない。
(変なの……。でも、綺麗な人だなぁ)
見惚れて、けれど珍獣を見る様な目でに観察してしまうと、青年は気分を害したらしく、不快感をあらわにした。
「ここには、ヒトの盗品市場に出せるような物はありませんよ。見逃しますから、さっさと出て行ってください」
「は?」
最初、何を言われたのか理解できなかった。
やっと青年の言葉の裏側に気づいた彼女は、勢いよくベッドの上に立ち上がる。
長く素直な黒髪が、さらりと背に流れた。
「私は泥棒じゃない!」
すると、青年の口元が皮肉気な弧を描いた。
「別にごまかさなくてもかまいませんよ。捕縛して騎士団に突き出しに行くのも面倒ですから、見なかったことにして差し上げます。
ああ、ただ、一つ忠告を。次からは家主見つかりそうになっても、布団に隠れるのは止した方がいい。意味がない」
「別に隠れてたわけじゃないよ! だって私は……!」
そこで言葉が出なくなった。そして五秒後、糸の切れた人形のようにへたりと座り込む。
「そうだ……私」
ほしい答えが出てこない。自分の名前。
たった数文字のそれで安心できる筈なのに、思い出そうとすると思考が止まる。
彼女は、呆然とした表情で青年を見た。
「私……、誰?」
青年の鉄面皮が少しだけ崩れた。