17 ここ在る理由がほしい。辿り着かなきゃ、絶対に。
「教授!」
ああ、やっぱりここにいた。
蒼の隣に借りた、教授の宿泊部屋。
備え付けの椅子に腰掛け、分厚い本を読んでいた教授は、乱暴に開かれた扉と突然の乱入に、何度も瞬いている。
「目が覚めたんですか」
こちらの姿を目に停めた途端、ほっとしたように言われて、心配してくれたのかと蒼は嬉しくなる。
「心配かけて、ごめんね」
「まったくです。突然倒れるから何かと……まだどこか具合が悪いんですか。顔色が悪い」
「ううん、大丈夫。それより、これ。見て」
「ああ。知っています。鎖、ですね」
教授は意外と冷静に手を伸ばし、蒼の鎖をそっと撫でた。
驚かないところ見ると、この鎖の存在を既に認知していた様だ。
蒼はもう一度、己の鎖に触れる。
その途端、あの青色の文字が空中に踊った。
教授の表情が、今度こそ驚きに染まった。
「これは……賢者の導き、なのか」
「これが導き? こんな風に鎖に触ると、現れるものなの?」
「いえ……そう、ですね。とりあず、かけてください。また倒れられても困りますから」
教授は本を机に置くと、蒼に椅子を勧めた。
手渡されたひざ掛けを蒼がお礼を言って受け取ると、、教授は米神を指先で叩きながら口を開く。
「例えば、水を求めている者を水辺に転移させて導いたり、闇の中の迷子に光を指し示してゴールに導いたり、導きと一言で言っても、色々な方法があったと思います。ただ」
教授は、透明な鎖と青い文字を交互に見た。
「こんな方法での導きは聞いた事がない。それに内容が、やけに中途半端だ」
「やっぱりこれ、普通じゃないんだ。この鎖も、突然現れたし……しかも、左腕に」
蒼が差し出した左腕を見る教授の眉間に、しわがよった。彼は、慎重な調子で言う。
「導きによれば蒼が大地にいるのは、賢者が貴女を導いたから、という事になりますね。人間である貴女を、日本という異界から……ここに」
「賢者が、私を……?」
そうか。そういう意味なのか。
賢者が、蒼をこの世界に導いた。
それが、蒼が大地にいる理由。
心の準備なく告げられた衝撃に、蒼の心臓は鼓動を早める。
落ち着け。深く息を吸う。
「で、でも、ど、どうして、そんな……」
……無理だ。すぐに落ち着けるわけが無い。
「貴女は災種の解放を防げる――ここに、そうあります」
彼は、微かに明滅する青白い光を指差した。
「賢者は予言者だ。何らかの理由で災種が解放された未来を、視たのかもしれない。でも、予言を覆す事はできぬという〈約束〉がある。
その〈約束〉で縛られている賢者やオレ達には、その未来が決して望まぬものであっても、どうすることもできない。
けれど〈約束〉に縛られていない人間なら、未来を変える事ができるかもしれない。賢者はそう考え、貴女を、この世界に導いた……こんなところでしょうか。まあ、全て推測ですけど」
教授は軽く息を吸い、一呼吸置くと、再び蒼の鎖を見つめた。
「賢者が視たかもしれない未来の詳細や、賢者が動けない理由はわかりませんが、その鎖が本物でないという事はわかります。鎖から〈約束〉の気配を感じませんから」
緩慢な動きで手首を持ち上げると、しゃらん、と硝子色の鎖が鳴った。
氷の様な冷たい感触はあるが、重さはほとんど感じない。
「記憶混乱なんてしてない……私は人間」
一つ一つ、自分に言い聞かせるように口にすれば、蒼の心音は徐々に穏やかになった。
大きく息を吸い込み目を閉じると、瞼の裏の暗闇に、小さな光が見えた気がした。
――うん、大丈夫。
そっと目を開け、変わらずそこにある鎖を見つめる。
大丈夫。大丈夫だ。
「私が記憶喪失なのも、賢者のせいなのかな」
「その可能性は、ありますね。ただ、そう考える場合、賢者が貴女を記憶喪失にする理由が見当たらない、という問題が出てきますが」
「理由……かぁ。そうだよね、確かに」
大地では人間は架空の存在だというし、その上記憶喪失だなんて、自分で思うのもなんだが胡散臭い事この上ない。
嘘つき呼ばわりされて、見捨てられる確率の方が高い。そうなったら、賢者の導きに従うどころではない。
つまり、蒼を記憶喪失にする事は、賢者にとって己の首を絞める事と同意だ。
実際、教授に拾われなければ、死かそれに近しい結末を迎えていただろう。ぞっとする。
「賢者以外の誰かがそうした……大地に導く際何か失敗した。これらの可能性もありますが、いずれにせよ推測の域は出ません」
そう言って、ふっと息をついた教授は真正面から蒼を見つめた。
「蒼、良く聞いて下さい」
教授の真剣な表情に蒼が姿勢を正した時、鎖に指が触れ、漂っていた光がかき消える。
暗い室内を蝋燭だけが照らした。
「貴女のことだ。賢者の導きに従うつもりでいるでしょう?」
「だめ?」
だってせっかく手に入れた道。記憶の手がかり。
従う気満々なのだけれど。
「駄目、というか」
教授は瞬時、言いあぐねる様子を見せた。
「賢者の導きに、間違いはありません。でも、その道程が楽とは限らない。特に災種絡みの時は。死んだ方がましだと思うような経験をする可能性もある。それでも、貴女は」
「――うん。それでも」
蒼は静かに遮り、お腹の前で指を組んだ。
無意識に指先に込められた力が、色白な手の甲を更に白く染める。
「今の私には、それしかすがる物がないから。ううん……違う、それじゃ後ろ向き過ぎるよね」
蒼は落としていた視線を上げ、真っ直ぐ教授にぶつける。
「なんていうか、何もかもがゼロに近い今の私は、すごく曖昧な存在だと思う。でも、この大地に私にしかできないことがあるなら、きっとそうじゃなくなるんじゃないかって……思う。
だから、今はその私にしかできないこと……進む、道が欲しい」
この大地に縁がなかった自分の、この大地での存在価値を得られるのならば、それを求めたい。
ここに在る理由が欲しい。
「その道が険しくても、諦められないよ。諦めたくない」
道の先に本当の自分が待っているなら、尚更だ。
辿り着きたい。絶対に。
辿り着かなきゃ。絶対に。
「私は私なんだって、今よりもっと自信を持って、言えるようになりたいから。それに、賢者の予言通り、私が災種の解放を防ぐことになるんなら、教授の手助けにもなるんじゃない?」
「……ゼロに近いって言う割に、そういう考えができる所はさすが蒼、って感じですね」
「どうせ、さすがお気楽、っていう意味でしょ」
「さあね。解釈はお任せします」
「じゃあほめ言葉として受け取る。それより……心配してくれて、ありがとう」
教授は無言で肩を竦めた。
蒼は「照れ屋さんめ」と心の中で呟く。
口に出したら「大馬鹿者」と拳骨のおまけが飛んできそうだ。
そう考えるとおかしくなって、蒼は笑った。
*
向日葵の様な笑顔を浮かべる蒼を、教授は奇妙なむず痒さを感じながら見つめた。
(身元不明で記憶喪失。賢者の導きにより、本来は物語の中にしかいない人間と確定。更には予測不能な突発的言動が得意)
信じると決めたし、賢者の導きという裏づけができたとはいえ、人物像を反芻してみれば、なんて不安要素だらけだろう。
……でも。
――その道が険しくても諦められない。
自らの生き方を探したいと、はっきりと提示して見せた彼女は、とても眩しかった。
新しい生き方を探す事など、とっくに諦めている自分には、とても。
突然知らない場所に放り出されたのだから、本当は不安な筈がないのに、彼女は笑えている。
前に進もうとしている。
立ち止まらない。
彼女を支えている、強さの源はなんなのか。
(オレはこの強さを知っている……?)
つきん、と頭の奥が痛みを訴えた。
何かが足りないような気がする。
思い出さなければいけない何かが、あるような。
「……お気楽娘に影響されたか」
自分は記憶喪失などではない。
だからきっとこのおかしな胸のざわめきは、一緒にいるとリズムが狂わされる蒼のせいだ。
「教授?」
蒼が、不思議そうに覗き込んできた。
元々の童顔を更に幼く見せるその仕草に、先ほど自らの意思を示して見せた時の凛とした空気は欠片もない。
きっとこの娘は、自分の言動がこちらの心をどれだけ揺さぶっているのかなんてことは、まるで理解していないのだろう。
自分だけが動揺していることが少し悔しくて、教授は無防備な蒼の額を指で弾いてやった。
「いだっ! な、なんでデコピンっ?」
「さあ、ね。そういえばまだ体調がよくないのでは? 明日は旅支度で忙しくなると思いますから、貴女はもう休んだ方がいい」
「体調は問題ないけど……旅支度って何?」
……わかった。彼女の予測不能な行動は、計画性が皆無な実態に起因しているに違いない。
「賢者の導きにしたがって、秋の世界に向かうんでしょう」
「ええと、うん。そのつもり、だけど?」
「準備も無しに旅立つつもりですか、貴女は。ここから半月はかかるんですよ」
蒼は「半月も?」と驚いた後、急に不安そうに体を縮めた。
「……秋の世界、教授も、その、一緒に?」
来てくれるのか。そう、尋ねたいのだろう。
答えなど、言葉にせずともとっくに伝わっていると思っていた教授は、己の考えの甘さに舌打ちした。
説明しなければならないか。
まったく……面倒だ。
「――蒼の進むべき道はシオンと共に。賢者の導きには、そうありましたよね」
「うん。あ、じゃあまずは、そのシオンってヒトを探さないといけないってこと?」
「その必要はありません」教授は次の台詞を少し躊躇する。「シオンは……オレです」
「オレデス?」
「だから、それはオレの名前です。個としてのね。教授は種族名だと言ったでしょう」
「そういえば……言われたかも」
思い出したように、蒼はポンと手を打った。
「そっか、そうなんだ。教授って、シオンって名前なんだね。シオンか。確かにシオンって感じする……かも」
一人でぶつぶつ言った後、彼女は突然首をかしげた。小動物のような動きに思わず頬が緩みそうになる。
「あれ? でも、賢者と会った事ないんじゃなかったっけ。なのに、なんで名前知られてるの」
「さあ。彼女が視た予言の中で知ったと考えるのが、妥当ではないかとは思いますが」
教授は曖昧に答え、とにかく、と続ける。
「まったく別人のシオン、である可能性もあるにはありますが、賢者に導かれた貴女が目覚めたのは、シオンであるオレの家だった。つまり、賢者が貴女と共に歩かせたがっているシオンとは、オレであると考えるのが自然でしょう」
蒼が、自分と最初に出会ったのが偶然ではないと言い張っていたのも、あながち的外れではなかったという事になる。
妙な自信をつけさせる事になりそうなので、指摘してやるつもりは全くないけれど。
「導きがどうあれ、大地に災種絡みの異変が起きているのは間違いが無いんです。オレも貴女同様、始まりの七人と会わなければならない。この先も、どうやら道は同じだ。
だから、共に行きましょう」
蒼はきょとんと瞬いている。
けれどやがて理解したのか、しばらくすると頭が外れるのではないかと心配になるくらい、何度も頷いた。
「う、うんうん! よろしく! 良かった……教授がいてくれると、すごく心強い」
「――それは光栄の至り」
心底ほっとしたような蒼に、教授は少しだけ複雑だ。
ヒトではない教授だが、正真正銘の男なのだ。
出会ってたった三日の異性をあっさり信じ、頼れる彼女は色々な意味で危うすぎる。
けれど、それに呆れを感じても、何故か不快ではない。
そう思わせる何かが彼女にあるのか。
――本当におかしな少女だ。
「秋の世界にいる始まりの七人って……確か、城主、だっけ」
「ええ――そう。秋の世界の首都に『閉じる存在』である城主がいます。導きにあった城とは、恐らく城主の住まう城でしょう。そこに災種を封じた水晶の一つもある……はず」
「あるかないか、はっきりしてないの?」
「いえ、あるにはあります、確実に。ただ、城内のどこにあるかがわからないだけで。それに関する記憶が曖昧というか……。あそこの災種は、少々その、特別ですし」
「特別?」
蒼が顔に疑問符を浮かべた。
わざと詳しい説明を省いているのだから、無理もない。
「とにかく」
教授は話を切り上げ、暗い窓に目を向けた。
「行ってみるしかありませんね。秋の世界に」