16 発露。溶けてしまいそうに、熱い。
屋敷内をくまなく見て回っても、得られたのは賢者が留守だという事実だけだった。
勿論、狼の姿も、どこにも見当たらない。
単なる通りすがりだったのかもね、と冗談で言ったら、可哀想な子を見るような生ぬるい笑みが返ってきて、やらなきゃよかったと後悔したのはつい先ほどだ。
よいしょと、よじのぼるように窓を乗り越え外に出ながら、蒼は教授を振り返った。
「思ったんだけど、具体的にどういうことが起こると、封印してある災種が解放されちゃうの?」
「封印の水晶が砕けるか、封印者である始まりの七人の誰かがそれを望むかすれば」
教授も蒼に続いて窓枠を乗り越え、ついた泥を落とし、きちんと窓を閉めてから腕を組む。
「まあ、後者はありえませんから、災種が解放されたとしたら前者の説でしょうね。でも、{金剛石と同等の硬度を持つ特別な水晶ですから、そう簡単に砕ける筈はないんですが……」
「ありえないって、言い切っていいの?」
蒼が口を挟むと、教授はくだらないことを聞くなとばかりに、ひらひら手を振った。
「始まりの七人が、どれだけ苦労して災種を封じたと思っているんです。今だってオレ達始まりの七人は、災種の蔓延を望まないからこそ、ソレの消滅を実行してるんですが?」
「ああ、そっか」
始まりの七人には、災種を解放する理由がない。
だからありえない。
「納得したなら、結構。さ、今日はもう宿に戻るとしましょう。陽も暮れましたし、冷え込んできた」
空を見上げた教授につられ、蒼も天を仰ぐ。
ここについたとき紅一色だった空は紫紺に染まり、山際だけがほんのりと紅い。
頬を撫でる風は、確かに冷たかった。
「賢者が戻るまで、この町で待つの?」
歩き出した教授の後に続いて尋ねれば、彼は少し悩んでから首を振る。
「いや……いつ戻るかわからない賢者を待つのは、効率が悪い。オレは他の始まりの七人に会いに行って、記述書の件を確認しようと思います。蒼は、どうしますか」
「どうって、それで文句ないけど……何で?」
ぴたりと教授が足を止めた。
その背中にぶつかる直前で慌てて避ければ、呆れたような教授と目があった。
「なぜって、貴女の目的は、賢者の導きを受ける事でしょう。別場所にいる他の始まりの七人に会わなければならないオレとは違って、貴女には賢者が戻るまでここに滞在するという選択肢もある」
「あ、そ……っか」
言われて初めて、蒼はそれに気がついた。
彼について行く事が当たり前の様に思っていた。それは一つの手段でしかないのに。
どうしよう。残る?
でも。
(災種、放っておいちゃいけない気がする)
それに、この街に残っているだけでは、いけないような気もする。
「導きが欲しくないんですか?」
不思議そうな教授に、蒼は慌てて首を振る。
「欲しいよ。それは、ものすごく欲しい。どうして私はここにいて、これからどうすればいいのか……自分のこと、知りたいもの」
それが『蒼』としての、今の私の望み――。
そこで、思考にさっと影が落ちた気がした。
唐突に襲ってきたのは、熱い何かが胸の内からこみ上げてくるような衝動。
感じた熱はそれだけではなかった。
やっと包帯が取れたばかりの左手首。
そこが溶けてしまいそうに、熱い。
「あ……っつ」
「蒼? どうしましたっ」
教授の慌てた声が頭に響く。
けれど蒼には答える余裕が無い。
あつい。
じわじわと、熱い何かに手首を締め付けられるような痛みとしびれに、立っていられない。
全身の力が抜ける。
頭痛まで襲ってくればとうとうしゃがみこみ、そのまま意識を手放した。
*
真っ赤な絨毯、豪華なシャンデリア、そして豪華な衣装を身に纏った女性の像。
その像の脇に、男が立っている。
暗くて誰かまではわからない。
ただ、男の背後に揺らめく黒い影だけは、はっきりと見えた。
あれは、そう……災種。
「やめて!」
悲鳴が聞こえた。
男の足元に、倒れている人がいた。
空色の長い髪、藍色の外套。
後姿で顔は見えないが、多分まだ若い女の子。
男の方に震える腕を伸ばし、必死に何かを引き留めようとしている。
「だめだよ! やめて。それじゃ、だめ!」
「――これでいいんだ」
像の傍らの人影が囁いた。
(この声……聞いたことがある?)
――ああ……やっと、目覚めることができる。
響いたのは、切なげな女の声だった。
男が一歩前に踏み出した。
像の横に立つと、彼はそれを静かに見上げる。
「エ……ゼ……長い間待たせてしまった」
最初の部分が、かすれて聞き取れない。
男が両腕を天に掲げるように広げた。
空色の髪の少女が、また何かを叫んで。
黒い光が、ばちんとはじけた。
*
「――っ」
蒼は飛び起きた。
心臓がバクバク煩い。
「ゆ、め?」
おかしな夢だった。
夢というにはリアルで、けれどどこか現実味のない映像と、音。
意識をはっきりさせようと頭を振れば、自分の荷袋が視界に入った。
ゆるゆると辺りを見回すと、見覚えのある部屋だとわかる。
ここは、宿屋?
もう一度頭を振ると、徐々に記憶が蘇る。
ああ、そうだ。賢者の屋敷で、気を失ったのだ。
教授がここまで、運んでくれたのだろうか。
室内は暗く、すでに夜だという事が知れる。
ベッドの上でしばらくぼんやりしていた蒼は、左腕にひんやりとした冷たさを感じて一気に覚醒した。
「え、あれ? なに、ちょっとまてまて」
左腕を目の高さまで持ち上げ、呆然と呟く。
「なんで、鎖がついてるわけ?」
しゃらんと、涼やかな音を立てるのは紛う事なき永遠の輪。
この大地に生まれた者の証。
ガラスのように無色透明な鎖は、つなぎ目がない。外す事が出来ない。
どうやって巻かれたか分からない鎖を前に、途方にくれるしかない。
「なんで……。私、人間、なのに」
人間の、はずだ。
それとも教授が言ったように、記憶が混乱しているだけの、大地のヒトだったのだろうか。
もしそうなら、なぜ今まで鎖が無かったのだろう。
考えれば混乱した。ますます途方にくれる。
取り外せるか試そうと、蒼は微かに震える指で鎖に触れて。
「――えっ」
指先が、氷のような冷たさを捉えた直後、朝靄の様にぼんやりとした光が鎖を覆った。
薄暗い室内の真ん中を、光の線が走る。
ぎょっと目を見開けば、それが鎖から伸びていることに気がついた。
青白い光線はゆっくりと宙を踊る。
残像が、空中に淡い文字を浮かび上がらせた。
『これは賢者の導き。目を逸らさないで。
あなたはこの大地に必要な人間。
私がこの大地に導いた希望への鍵。
動けない私の代理人。
あなたの進むべき道はシオンと共に。
秋の世界から一歩を踏み出して、始まりの七人に会って。
彼らの手助けがきっと必要になる。
最後に私に会った時、あなたは全てを知ることができる。
虹色の光。それが出会いの合図。
これは予言者の予言。
あなたが城の災種の完全な解放を防ぐ。最悪の未来を防いでくれる。
今の私にはこれだけしか言えないけど。
でもどうかお願い。諦めないで』