15 全なる蒼き雫。教授からのプレゼント。
不法侵入してしまったものは仕方がない。
この際、他の部屋も見て回って賢者を探してみようという蒼の意見に、しぶしぶ教授が同意した時だった。
「……ん?」
蒼は、何かに呼び止められた気がして足を止めた。
「蒼? どうしました」
部屋の外に半歩踏み出していた教授が、早く来いと言うように開いた扉をこづくが、蒼は答えられない。
呼吸を潜めて、耳を澄ませる。
りぃん
薄いガラスが風に撫でられ、奏でたような、脆く小さな音。
空耳かと思ったが、違う。
頭の中に直接響いてくるような音色に誘われ、蒼は窓に近寄った。
りぃん
外からじゃない。
窓のそば。木製の大きな本棚。
教授の屋敷の書斎の一角のように、古ぼけた分厚い本がぎっしりとおさめられている。
「やれやれ。今度は一体なんですか」
「音が……聞こえない?」
「音?」
近寄ってきた教授に頷くと、彼は何も聞こえないというように眉根を寄せる。
本棚の前に立って、蒼は小さく首を傾げた。
しゃがんで、一番下の棚に並ぶ本の背表紙を、左側から順に、一冊一冊指で辿る。
「あ、これだ」
右から三番目。瑠璃色の、題名の無い本。
紺色の刺繍で何かの蔦が描かれたその本は、分厚さに反比例してとても軽かった。
表紙に指をかけると、何かにひっかかって開かない。それでもぐっと力をこめると、ぱかんと軽い音を立てて、やっと開いた。
「っわ! びっくりした!」
壊れたかと思った。そんな感じの開き方だ。
「本ではなく、箱、ですか」
教授も驚いたように、後ろから覗き込んでくる。
蒼は、教授にも本のような箱の中身が見えるように、彼と向き合った。二人して、まじまじと覗き込む。
「何か入ってる……。これ、石?」
「の、ようですね」
青い天鵞絨に収められていた瑠璃色の石を、ころりと掌の上に転がす。
透明で、深い海の色を湛える石は原石なのか、滑らかだが不均等な表面をしている。
光にかざして覗き込むと、不思議なことに、蛍のように明滅する小さな光の粒が、石の中をゆっくりたゆたっているのが見えた。
「うわわ、見てみて教授、ほら、光ってる。でも、全然熱くない。すごい、きれい……。これって、灯石と同じもの?」
「いえ、これは……」
石を手渡すと、教授も同じようにそれを光に掲げ、目を眇めた。
「驚いたな。これは、賢者の石です」
「へえ……って、まって、まった。それ、石ころを金にかえちゃうとかっていう、あのっ?」
「ああ、簡単でしょうね、その程度」
「うわー……異世界だ」
教授が物珍しげに覗き込んでいる石を、蒼も一緒になって覗き込む。
きらきらと輝きを移ろわせる石は、万華鏡のように見ていて飽きない。
「この石は別名『全なる蒼き雫』と呼ばれています。賢者がまだ〈約束〉で力を制限される前に、己の力の欠片を結晶化させて創り出した、ヒトビトを望みに導くための石」
「望み、に? じゃあ」
「残念ながら、無理です」
遮られてきょとんと瞬く蒼の掌に、教授はぽとりと石を落とした。
「この石を使えば、記憶が戻るかもしれない、と思ったんでしょうが、無理です。これは、オレや貴女が持っていたところで、ただの石ころに等しい価値しか持っていませんから」
「望みに導いてくれる石なんじゃないの?」
「ヒトビトの、とも言いましたよ。オレも貴女もヒトではありませんから、この石は使えない。もっとも今となっては、例えヒトであろうと、誰もそれを扱えはしませんけど」
「今となっては、ってことは……。もしかして〈約束〉絡み?」
「貴女も、大分〈約束〉の存在に慣れてきたようですね。その通りです」
教授が、微かに笑った。
今までに何度か見た、何かを諦めたような、何かに縛られているような冷たいそれに、蒼は一緒に笑うことができない。
――教授のこの表情は、あんまり見たくない。
「万能の力が込められた、ヒトの為に存在する石を、大地が野放しにするはずがない。今の賢者の石には、大地の許しがあり、かつ賢者が扱った場合のみ使用できる、という二重の〈約束〉が課せられています。
だから、この石によって誰かが望みに導かれる、ということはこの先二度と、ないでしょうね」
「ない、の? だって、大地に使うことを許してもらって、それから賢者に頼めばいいだけなんでしょ? だったら」
「大地が許すはずがないでしょう。許されるはずがない。〈約束〉が生まれた経緯を、もう忘れましたか」
教授の声色は冷たい。
けれど蒼は納得できなくて、石を握りしめる掌に力を込めた。
「ちゃんと覚えてるけど、許さないってことは、ずっと怒り続けるってことだよね。それ、考えただけでも疲れる……私なら無理、絶対。
それに、ヒトだって結局は絶滅させられずに、大地の上で生きて暮らしてるわけだし。いつか許すつもりがあったから、大地も、そういう条件をつけた……って考えたりしないの?」
「貴女の前向きさは尊敬できますが、大地に関しては、そんな甘い考えでいれば命に係わりますよ」
静かにため息をつく教授は、怒るというよりは小さな子どもを諭すような口調だ。
「ヒトが生かされたのはあくまで仕方なくであって、そこには恩情など欠片もなかったと説明しましたよね。そもそもオレ達始まりの七人を大地が許すなど、ありえないんですよ」
淡々と喋る教授の表情は、やっぱり諦めに満ちていて。
蒼はその表情に気を取られ、教授から手渡された青い石を、思わず落としてしまった。
ぽすりと、情けない音を立てて絨毯にもぐりこんだ石は、まるで今の蒼の気持ちの様だ。
どうしてそんな風に苦しそうな顔をするのか、聞きたいけど聞けない。
また、関係ないことだからと拒否されるのが怖くて、知りたいと思う気持ちを心の底の方にもぐりこませて、蓋をしてしまうしかない。
そんなことを考えていて反応が遅れた蒼に代わって、教授が石を拾い上げた。
親指と人差し指でつまんで眺めて、少し考える素振りを見せる。
「これ、持っていきますか」
「うん……って、いやいや、え? 本気?」
泥棒するつもりか。驚くと、教授はあっさり「別に構わないでしょう」などと言う。
「もしかすると、これは、貴女が持っているべきなのかもしれませんから」
「私が? なんで?」
「音が聞こえたと言いましたね」
「うん」目を閉じ、耳の奥で思い出す。「すごく、綺麗な音だった」
「その音に導かれて貴女は石を見つけた――導きし存在である、賢者の創造物をね。そこに、何らかの賢者の意図があることは、間違いないでしょう。
貴女は石を見つけさせられたんですから、泥棒ということにはなりませんよ」
なるほどと蒼は納得する。
けれど、他人の物、しかもかなり曰くのありそうな代物を勝手に持ちだすのは、勇気がいるし後ろめたさはぬぐえない。
「不法侵入者が何を今更悩んでいるんですか」
「う」
蒼は目をお魚みたいに泳がせる。教授が、ひょいと肩をすくめた。
「どうせそれも、今は単なる綺麗な石ころでしかないんです。賢者に何か文句を言われたら、オレが弁解して差し上げますよ」
「ほんとに? むー……じゃあ、ちょっと借りていくってことに、する」
はいどうぞと、蒼の掌に、再び石が落とされる。
どこにしまっておけば無くさずにすむかと考えていると、教授が石に、そっと手をかざした。
「『連なりし檻を授ける』」
ふわりと、掌に風を感じた。思わず目を閉じる。
再び開いた目に入ったのは、蔓に似た銀細工で青い石をそっと閉じ込めた、可愛らしいペンダント。
「可愛い……」
「はいはい、見惚れるのはその位にして。ほら、貸してください」
かなり好みなデザインと、それから異世界の不思議再びな光景に、蒼がうっとりしていると、横から手が伸びてきてペンダントをさらっていった。
あ、と思う間もなく、教授の手によって、さっさと首に下げられてしまう。
胸元で静かに揺らめく青い光を見下ろして、蒼は頬を緩ませた。
「ありがとう、教授」
「いいえ。適当にしまわれてしまうと、転んだ時にどこに落とされるかわかりませんからね。そうしておけば、流石の貴女でも無くさないでしょう」
「なんで転ぶこと前提なの」
教授は答えず、口元だけで小さく笑う。
その笑みに温度を感じ取れば、蒼はほっとして、怒るのも忘れて一緒に笑った。