14 不法侵入。何度でも言いますよ、大馬鹿者。
後ろ足で立ち上がれば、150センチそこそこの身長の蒼と、同じ高さになりそうだ。
教授は突然現れた大きな肉食の獣に、緊張を隠せない。
ぴくりと、左の指先が震えた。
背後に庇った蒼は、おとなしくじっとしているが、微かに緊張が伝わってくる。
その気配を感じながら、教授は狼の瑠璃色の瞳を睨み付ける。
長い尾がふらりと揺れて、前足が微かに踏み出されて。
――くる。
力を込めた左腕で、鎖が小さく音を立てた。
「……っ」
けれど狼がとったのは、予想外の行動だった。
踏み出したのは前ではなく、後ろ。
現れた時と同じように、何の前触れもなく茂みへと身を翻す。
あまりの唐突さに、反応できない。
更にはほっと息をつくことすらできず、教授は体を強張らせる羽目になった。
斜め後ろにいた蒼が、狼を追う様に茂みへ身を滑らせたのだ。
「っ! どこに行くんですか! 蒼!」
伸ばした手は、宙を切る。
蒼は足音だけ残して視界から消えた。
「まったく……!」
自分でも珍しいと思いつつ、ち、と舌打ちをして後を追う。
すでに姿が見えないので、まだ揺れている葉を目印に駆けるしかない。
窓ガラスの件といい、予測のつかない行動が得意な彼女に、苛々が頭を持ち上げる。
視界が開け、見えたのは大きく開け放たれた窓。
大分遠回りをして、屋敷の反対側に出たらしい。窓枠には、微かに泥がついていた。
「何度不法侵入すれば気が済むんだ、あの娘は……!」
放っておくわけにもいかず、蒼に習って窓枠を土足で乗り越えた。
越えた先は、紫紺の絨毯が敷かれた薄暗い廊下。
右に進めば台所、左に進めば階段だ。
(……ん?)
一瞬ちりり、と痛んだ右の米神に手を当てた直後、階段の方から小さな物音が聞こえた。
「蒼! どこですか!」
どうせこの屋敷の主は留守だ。多少声を張り上げても問題はない。
階段を駆け上がり、二階に出る。
一つだけ開いている扉から、影が伸びた。
「蒼?」
「あ、教授。遅かったね」
蒼は部屋の中央で、室内をきょろきょろと見回していた。
その緊張感の欠片もない声色と仕草に、押さえていた苛々がとうとう弾けた。
「この大馬鹿者! 突然何ですか貴女は!」
「ええっ。何ですかって……。そっか、これ不法侵入っ? あ、えーっと」
「言い訳を考えないで下さい」
やっと慌て始めた蒼の言葉を遮って睨めば、彼女は両手と頭を同時に振った。
「別に、ごまかそうとかしてる訳じゃなくて」
「じゃあ、なんです」
「あの狼、教授の家にもいたの。だから追いかけてみたんだけど……教授?」
教授が額に手をあて力なく項垂れれば、蒼が大きな黒目を瞬いた。
指の隙間から彼女を睨んで、教授はすぅっと息を吸いこむ。
「この――大馬鹿者!」
蒼が、びくりと身を強張らせる。
けれど彼女が次に取った行動は、あの狼のようにこちらの予想を裏切るものだった。
頭一つ分は低い位置から気丈にも睨み上げてくる。
もっとも、ちっとも迫力がないから怖さなど欠片も感じない。
「ばかばかって、何度も繰り返す事ないじゃない!」
「何度でも言いますよ、大馬鹿者。危険かもしれないのに、なぜ後を追ったんです!」
蒼は、むっとしたようだった。
綺麗な形の眉と漆黒の瞳が、きりりと吊り上げられる。
「何が起こってるか知りたがってるのは、教授もじゃない。手がかりかもしれないんだよ、あの狼。だから、後を追わなきゃって思って」
「だからって、危険に一人で突っ込んでいくのは馬鹿のする事です。言ったでしょう、貴女は自分自身の事をまず考えろと。……あまり、無茶はしないで下さい」
台詞に疲れを滲ませてやれば、蒼は自分が心配されているという事にようやく気がついたようだった。
黒曜石のような輝きをした大きな目を更に大きく見開いて、ぽかんと口をあける。
それからみるみるうちに頬を赤く染め、きょろきょろと落ち着かない様子で目線を彷徨わせた。
無言で待ってやると、観念したように項垂れる。
「ご、ごめんなさい」
「まったく。次からは、もう少し考えてから行動してくださいよ。それより、狼は?」
室内を見回すが、どこにも藍色はない。
あるのは、彼の屋敷にあるような家具類だけだ。
「それがさ。ここまで追ってきたのはいいんだけど、いないんだよね」
小さな子供のように唇を尖らせる蒼を見て、教授は腹の底から溜息を搾り出した。
「そのようですね……。しかし肉食獣相手に、良く突っ込んでいけましたね」
「びっくりはしたけど……なんでだろう、追いかけても大丈夫って思って」
「ほう。その自信の根拠は?」
「勘」
教授は、蒼を見下ろすようにして睨む。
「却下。そんなもの根拠とは言いません。賢者の使役獣だと思うとか、説得力のある意見ならともかく」
「使役獣? それ、なんなの。前に私のこと、教授の使役獣だってアレフに嘘の説明してたよね」
ずっと気になっていたのか、蒼は瞳に興味という文字を浮かべて繰り返した。
教授は彼女を睨んだまま答えてやる。
「知能が高く、空間転移などの特殊な力を持つ獣や妖精は、一般的に霊獣と呼ばれています。彼らの中には自らの意思で、他の種族に付き従ってくれる者もいて、そういった霊獣を使役獣と呼ぶんです。
月白が、そうですよ。彼は俺の使役獣です」
「あの、おっきい鷹さんが? そっか。だから、私のこと助けてくれたんだね」
演技などではなく、心の底から感心しているだけの蒼を見て、教授は本格的な頭痛を覚えた。
「あのですね。ここは、貴女が生活していたという大地じゃないんですよ。感動するだけじゃなく、ちょっとは危機感を持ってください」
「はいはーい」
ひょいと頷く蒼に反省の色は見られない。
本当に了解しているのか、この娘は。
「してないんだろうな……絶対」
きっとそれが正解だ。