11 教授胸倉事件。そして賢者の町へ。
一日の半分は馬に乗り、遅くないスピードで進んできたのにも関わらず、三日経っても鬱蒼とした森を抜けることはなかった。
お陰で、一度は姿を消した筋肉痛が、酷いことになっている。
しかもリーネ村を後にしてからずっと、野宿続きで体の調子がおかしい。
湖や川で簡単な水浴びをさせて貰ってはいるが、今は九月。
水は冷たいし、ちゃんとした入浴と違い、色々なことに警戒しながらの沐浴なので、体のだるさを完全に取り除けない。
こんな風に過ごした記憶などないものだから、戸惑いや何やで、気の休まる時間もない。
目覚めて真っ先に目にするのが味気ない天井でなく、どこまでも澄み切った青空なのは、とても安らぐ一日の始まりなのだけれど。
(身体と精神は別物だわ……)
結局、一騒動あったリーネ村で蒼の身元は分からなかった。
それで良かったのか悪かったのかは、まだ分からない。
蒼を襲ったアレフは、教授の説明のおかげなのかなんなのか、あの後妙に蒼を神聖視してくれて、村で流行っているというワンピースや綺麗な刺繍の入ったショールなんかを送ってくれた。
大妖精でもないし、使役獣というのがなんなのか理解できぬまま、けれど違うと言えばまた襲われそうだったので、ひきつった笑顔でその贈り物を受け取ったのも、もう三日も前の話だ。
月白は、大空に羽ばたいて行ったあと、姿を見せていない。
教授曰く、いつも気まぐれに現れては気まぐれに去っていく鷹なので、気にしなくていいとのことだった。
……大地はやっぱりよくわからないことだらけだ。
「鎖も相変わらずないし」
右腕を天にかざしてみる。
事件の発端になったその部分には、今は藍色の装飾が巻かれていた。
ふわふわな紐で編まれた、柔らかなブレスレット。
地味な鎖の周りに巻くことで、かわいらしく見せようという乙女達の間で流行っているものらしく、驚いたことに、教授がリーネ村でプレゼントしてくれた。
これを巻いておけば、袖がめくれても鎖がないことがごまかせるから、というのが理由だ。
確かに、アレフは教授のとっさの機転でごまかせたけれど、今度また鎖がないことで災種だと騒がれ襲われてはたまらない。
お守り代わりです、と言われて渡されたそれは、きらきらした透明なガラス玉が編みこまれていて、蒼はとても気に入っている。
「あー……風が気持ちいい」
さくさくという音に視線を動かせば、栗毛の馬が地面に生えた草を食んでいる。
更に視線を移して、教授が水を調達しに行った方を見るが、生い茂った木しか見えない。
まだ時間がかかりそうだ。
「本でも読んで、時間つぶそ」
馬の背に括り付けてある荷袋から本を取り出し、木陰を見つけて、簡単に泥と枯葉を払った根元に座り込む。
もはや何度目かの行動に、ためらいはない。
しばらく夢中で大地の歴史書を読みふけっていると、ふいに視界がかげった。
「また無視とはいい度胸ですね」
「あ、お帰り。無視?」
きょとんとした蒼を、水筒を片手に携えた教授が半眼になって見下ろした。
「さっきから、何度も呼んでいたんですが」
「げ、ごめん。気づかなかった」
「読書に夢中になるのは結構ですが、屋外では周囲への警戒を怠らないで下さい。ほら、さっさと森を抜けてしまいますから、立って」
「はーい。ね、森を抜けたらイリアス?」
「その通り。馬も十分休んだでしょうし、すぐ出発します。陽が暮れる前に町に着きたい」
蒼は服についた泥をはたいて立ち上がった。
長い黒髪が微かに冷気を含んだ秋風に攫われ、流れる。
四季の世界の今の季節は、秋。
空が遠い。
「つかまって」
先に馬に跨った教授に差し出された手をとり、補助を受けながら馬によじ登る。
スカートなので、跨るのではなく足を揃えて横向きに座れば、教授が蒼の背後から腕を伸ばし手綱を取った。
彼に抱きかかえられる姿勢は非常に恥ずかしいが、いまだに一人で乗馬できないのだから仕方ない。
リーネ村に行くまでは、教授の後ろが定位置だったのだが、一度落馬してから、教授に今の体制を強要されていた。
しかし、どうにも居心地が悪くてもぞもぞと動いていると、教授はむっとした様だった。
「恥ずかしがっている場合ですか。しっかり掴まっていないと、また落馬しますよ」
「……はーい」
仕方なく、彼に身を預ける。
馬の背中はかなり不安定だ。
何度も体験した高さではあるが、ほんの少しの恐怖心は抑えられない。
だから、しっかり彼の服を掴む。
ぐ、と教授がのどを鳴らして呻いた。
「しっかり、つかまり過ぎ、です。首が、絞まっているのですが」
「え? ああ! ご、ごめん!」
慌てて力を緩めれば教授は軽く咳き込み、のど元を押さえた。
「……女性に胸倉を掴まれたのは初めてです」
「だ、だって、どこ掴まっていいかわからないんだもん。てめー、教授このやろー、とか、そういう他意はないない!」
「妙に具体的なのが気になりますが……あったら蹴落とします。ほら、行きますよ」
「あ、ちょ、待って待って!」
蒼は焦って、けれど今度は殺人未遂を起こさない程度の力で服を掴む。
「はっ」教授の掛け声を合図に馬が駆け出す。
流れる風景を楽しみたいが、激しい振動に耐えるのに精一杯な蒼に、そんな余裕はない。
しかし、しばらくすれば、寝不足の蒼はうとうととしてしまう。
それくらいには、慣れた。
何とか教授の服を掴む手の力だけは抜かず、離しそうになれば自然と目が覚め、握り直す。
そんな事を繰り返し、瞼の裏に見える太陽の光が黄から紅に変わったころ、ずっと無言だった教授の声が、頭の上から聞こえた。
「――見えましたよ」
蒼は閉じていた目を開け、前方の風景に目を凝らす。
まっすぐ伸びた道の向こうに、夕焼けに染まった、おもちゃの様な町が見えた。
「水の町イリアス、賢者の住む町です。やれやれ、久しぶりに室内で眠れるな」