10 出会いと誤解と銀の鷹。
「――い。おい。お前、大丈夫か?」
今度こそ、蒼は飛び起きた。
体が、動く。
目の前に見知らぬ青年がいて、不思議そうな顔でこちらを覗き込んでいた。
「おわ、びっくりした! 急に起きんじゃねぇよ」
「ご、ごめん、なさい……?」
「おい。顔、真っ青だぞ。うなされてたみたいだし、具合でも悪いのか?」
「あ……ううん」
顔を上げた蒼は、ほっと息をつきながら首を振る。
青年越しに見えるのは、太陽に照らされた、平和なリーネ村だ。
なんだ夢かと、蒼はもう一度息をついた。
「おい?」
「あ、えっと。ちょっと怖い夢を見ちゃって」
「夢?」
青年が、不審そうに首を捻った。
小奇麗なシャツにジーンズのようなパンツ、皮のサンダルという軽装を身に纏っていて、どうやらリーネ村の住人らしい。
「あんた、旅の人か? いくら村に近いからって、こんな所で寝るなんて不用心すぎるぜ。狼とか熊に襲われてもしらねぇぞ」
「く、熊? そんなもの、出るんですか?」
「はぁ? 森に近いんだから、当たり前だろうが。んなこと聞くってことは、あんた王都かどっかの街から来たのか。この村の誰かに用なのか?」
「用、っていうか……教授を待ってて」
「教授? 教授様がいらっしゃってるのかっ?」
青年の日焼した顔が、輝いた。
その表情は、憧れという感情を少しも隠そうとしていない。
「教授を知ってるんですか?」
「何言ってんだ、お前。教授様だぞ? 始まりの七人を知らないヒトなんて、この大地にいるのかよ。あの方達がいるから、大地は災種で溢れずに済んでるんだ。
ほんと、俺は幸せ者だよ。なんてったって、あの教授様の住む緑青の森の近くの村で生まれることができたんだからな。あの方のおかげで、この村は今まで一度も災種に襲われてないんだぜ」
「そう、なんだ。教授って、有名人だったんだ」
「お前、変なやつだな」
顔しかめた青年は、座ったままの蒼の前にしゃがむと、フードの中のこちらの顔を覗き込むように見てくる。
その顔には、警戒が現れ始めていた。
「教授様を呼び捨てにするし、待ってるとか言うし。あんた、本当にただの旅人か?」
ただの、ではないのだろうけれど、疑われるのもまずい気がして、蒼はフードを取り去り、座ったままの背筋を伸ばした。
「私は、ほんとに教授を待ってるだけで」
「それなら――ん?」
初めて真正面から目があった時、青年は驚いたように目を見開いた。
はっとして、蒼は地面に両手をつき、青年の方に身を乗り出した。
「うわ! な、なんだよ」
「あの! 私のこと知ってるんですか? あ、いや、知られてても困るんだけど、その、私、記憶喪失で」
「え? ああ……いや、悪い。知らない」
ぽりぽりと頬をかき、青年は首を捻った。
「似てると思ったけど……違うな。俺の知ってるあの方なら、記憶喪失になるだなんて、絶対ありえない。ないない」
青年は、困惑したように、蒼の目から視線を落とす。
その途端、顔色を変えた。
「鎖が……ない?」
「……あ!」
言われたことの意味に気が付いて、蒼は地面についていた両手を慌ててひっこめた。
腕を突っ張っていたせいでマントがはだけ、ワンピースの袖口から、何の装飾もない腕が見えてしまっていた。
しかし蒼の動きは一瞬遅くて、じゃらりと鎖のまかれた青年の腕に、掴まれてしまう。
逃れたくとも青年の力は強く、袖を肘の辺りまで簡単にまくられてしまった。
冷やりと素肌に触れた風と、青年のまとう固い空気に、蒼の顔は青ざめる。
これは、まずいような気がする。
ものすごく、まずい気がする。
「うそ、だろ。お前、なんで鎖が無いんだよ。ヒトじゃないのか?」
「ヒトじゃなくて、私は人間……痛っ!」
「ふざけんな。人間だ? 騙されねぇぞ。聞いたことがあるんだ、災種がヒトのふりしてヒトを殺しに来るっていう話を。お前、そうなのか?」
「違……う! 私は、鎖はないけど、災種なんかじゃない!」
「信じられるもんかよ。そうか、わかったぞ。お前、教授様を狙ってきたんだろう!」
「だから違うってば……痛っ、やだ離して!」
ふりほどこうと暴れると、尚更腕を強くつかまれる。
ぐっと引き寄せられて、右腕を背中の方にひねりあげられた。
「い……っ!」
余りの痛さに悲鳴が喉の奥でつぶれた。
ぎしりと、骨の軋む音を聞いた気がして、血の気が引く。
息が、できない。
やだ。怖い。痛い。
――教授!
「――うわぁ! な、なんだ!」
悲鳴が聞こえたと思ったら、不意に右腕の痛みが消えた。
次の瞬間、蒼の体は自由を取り戻し、ふらりと地面に倒れこむ。
「い、いてぇ! よ、よせこら!」
ばさり、と大きな羽音が聞こえた。
痛む肩を反対側の手で押さえ、涙目で振り向くと、視界が銀色に埋め尽くされる。
ばさり、と羽音が聞こえる。
教授が助けに来てくれたのかと思えば、そうではなかった。
一羽の鳥が、倒れた青年の背中に悠々と止まっていた。
ふわふわできらきらした羽毛は、教授を思わせる銀色。
嘴とかぎづめは、一目見ただけで、捉えた獲物を決して逃がさないとわかるほど鋭利で冷たい。
猛禽類の金色の目が、静かにこちらを見ていた。
「月白。どいてあげなさい。そのままではいくらアレフが頑丈でも死んでしまう」
「教授!」
村の方からやってきたのは、今度こそ教授だった。
高貴な大鷹は羽ばたきを一つ、その巨体の重さを感じさせぬほど軽やかに宙に舞って、教授が差出した腕にすんなり止まる。
まるで有名な絵画か彫像のように、優雅な姿だ。
「姿が見えない、連絡も取れないと思ったら、ヒトにじゃれついているなんて。今までどこで何をしていたんですか、貴方は。
……そうですか。別に、秘密にしておきたいなら、無理には聞きませんよ。そういう契約ですしね」
会話をするかのように、教授と鷹の視線が交わる。
蒼が呆然とその姿を見ていると、教授がこちらを見た。
呆れたような顔で左手を差出し、蒼がつかまって立ち上がるのを助けてくれる。
「貴女も。大人しく待っていろと言ったのに、なんです。なぜ、アレフに拘束される羽目になっているんですか」
「え? 見えたから、助けに来てくれたんじゃないの?」
「見えるわけないでしょう。オレはここから離れた建物の中にいたんですよ。気づいたのは、月白です」
月白というのが、鷹の名前のようだった。
鷹は相変わらず教授の腕にとまったまま、静かに蒼を見ている。
猫の目のように鋭い瞳なのに、なぜだか少しも怖くない。
それどころか、可愛いとすら思えてしまう。何せ、恩人……恩鳥だ。
「月白が教えてくれたから間に合ったようなものの……。アレフが本気を出したら、貴女の細腕など、簡単に折られていましたよ」
「折れ……っ?」
「で、アレフ。自警団員である貴方が、なぜ守るべき女子供に手を上げようとしていたんです」
冷やりとした口調で教授が問う。
のろのろと起き上がりかけていた青年、アレフは、ぎょっと目を剥いた。
「誤解です教授様! お、俺は、そいつの腕に鎖がなかったから、災種がヒトの姿に化けて、この村や教授様を襲いに来たんだと……。
そうだ! そいつ、鎖が無いんです!」
なるほど、と傍らの蒼にしか聞こえない音量で呟いて、教授は微かに目を細めた。
ばさり、と月白が羽ばたき大空に舞いあがる。
ガラス細工みたいな羽根の輝きは、一瞬の内に蒼穹の彼方に消えた。
その様子を静かに見送った後、教授はひたりとアレフを見返した。
「アレフ。この娘は災種ではありません。それは始まりの七人であるオレが保証します」
「で、でも。鎖が」
「鎖が無いのは、この娘がヒトの姿に変化している妖精で、使役獣だからです」
「は? なにそむぐ」
「え、えぇ! そうなんですかっ」
蒼の疑問は、教授の手で口をふさがれたせいで、わけがわかないままに終わった。
反対に、納得したのかアレフは素っ頓狂な声を上げ、先ほどの警戒とは打って変わった好奇心に満ちた目で、蒼を見てくる。
気持ちのいいものではなくて、蒼はぎっとアレフを睨んだ。
まだ謝ってもらっていない。
それまでは絶対に許してやるものか。
しかし、アレフは敵意をむき出しにしている蒼にはまるで気づかず、ひたすら感嘆のまなざしを投げかけてくる。
「すげぇ……さすが教授様。妖精だなんて、ぜんっぜんわかんなかったです。へぇ……妖精か。ここまではっきりしたヒトの姿になれるって事は、かなりの大妖精ですよね。
それを使役するなんて、すげぇ……さすが教授様」
蒼は口をふさがれたままで、何も言えない。
けれどどうやら助かったようだとわかり、ほっと肩をなでおろす。
肩の痛みも、それから乗馬が原因の痛みも、今はすっかり消えていた。