婚約破棄された公爵令嬢は、王太子のいない未来を選ぶ
王宮の大広間に、王太子の声が響いた。
「アデライード・フォン・ヴァルディーヌ! お前との婚約を破棄する!」
磨き上げられた大理石の床。
壁に飾られた歴代国王の肖像画。
そして、今日のために集められた貴族たち。
そのすべてが、私の前に立つ王太子を見ていた。
彼の隣には、淡い桃色のドレスをまとった少女がいる。
男爵令嬢、ミレーヌ・ロゼリア。
王太子の腕に寄り添い、こちらを見つめていた。
私は二人を見た。
そして、王太子に向かって一礼した。
「承知いたしました、殿下」
「……何?」
王太子、レオンハルトは眉をひそめた。
予想していた反応ではなかったのだろう。
彼は私が泣き出すと思っていたのかもしれない。
あるいは、彼の足元にすがり、婚約を続けてほしいと懇願するとでも。
けれど、そんなことをするつもりはなかった。
「婚約破棄を承知いたしました。必要な手続きにつきましては、後日、父から王家へご連絡いたします」
「待て。お前は何も言わないのか」
「何をでしょうか」
「私の決定に不満はないのか!」
私は少しだけ考えた。
不満がないわけではない。
ただ、その不満を今ここで口にする必要はなかった。
「殿下がお決めになったことですので」
「そうか……」
レオンハルトは、どこか満足げに頷いた。
彼の隣で、ミレーヌが小さく笑った。
私はもう一度一礼し、大広間を後にした。
背後から、王太子の声が聞こえた。
「これで、ようやく自由になれる!」
その言葉に、私は足を止めなかった。
自由になるのは、私も同じだった。
*
私とレオンハルトの婚約が決まったのは、十年前のことだった。
当時、私は八歳。
彼は十歳だった。
王家とヴァルディーヌ公爵家の結びつきを強めるための政略婚約。
それ自体に、不満はなかった。
王太子妃となることは、私にとって一つの役目だったからだ。
王太子妃教育を受け、王宮の仕組みを学び、貴族たちの関係を理解する。
私はそれを、真面目にこなしてきた。
レオンハルトも、幼い頃は優しい少年だった。
私が難しい勉強に苦戦していると、彼はよく隣に座ってくれた。
「アデライード。そんなに難しく考える必要はないぞ」
「ですが、殿下。こちらの計算が合いません」
「ならば、もう一度やればよい」
彼はそう言って笑った。
その笑顔を、私は好きだった。
けれど、いつからだろう。
彼は私の話を聞かなくなった。
私が王宮の予算について意見を述べれば、彼は「細かいことは任せる」と言った。
貴族間の問題を報告すれば、「お前は心配しすぎだ」と笑った。
王太子妃教育の成果を伝えれば、「そんなことより、もっと楽しい話をしよう」と話題を変えた。
そして、ミレーヌと出会った。
彼女は男爵家の令嬢だった。
明るく、愛らしく、誰にでも気さくに話しかける少女。
レオンハルトは、彼女を気に入った。
最初は、ただの友人だったのだろう。
しかし、いつしか二人は頻繁に会うようになった。
王宮の庭園。
王立学院の図書室。
王都の劇場。
私が知らない場所で、二人は時間を過ごしていた。
私は何度か注意した。
「殿下。ミレーヌ様とのご関係について、少し慎重になられた方がよろしいかと」
「何を言っている。彼女は友人だ」
「ですが、周囲はそう見ておりません」
「周囲など気にする必要はない」
彼はそう言った。
そして、私を見て笑った。
「アデライード。お前は少し堅苦しい。もっと気楽に考えればよいのだ」
私は、それ以上何も言わなかった。
彼が私の話を聞くつもりがないことを、理解していたからだ。
それでも、私は王太子妃教育を続けた。
王妃陛下の補佐をし、王宮の書類を確認し、各地の領地から届く報告を整理した。
レオンハルトが目を通さない書類も、私が確認した。
彼が忘れた会議も、私が代わりに調整した。
彼が約束した支援金も、私が財務官と相談して手配した。
いつしか、王宮の人々は私に相談するようになっていた。
それが当然だと思っていた。
婚約者なのだから。
王太子妃になるのだから。
けれど、レオンハルトは違った。
彼は私の仕事を知らなかった。
いや、知ろうとしなかった。
*
婚約破棄の翌日。
私は父の執務室を訪ねた。
「お父様。王家との婚約について、正式に手続きを進めていただきたいのです」
父は書類から顔を上げた。
「本当にいいのか、アデライード」
「はい」
「王太子殿下は、いずれ後悔するかもしれない」
「それは殿下がお決めになることです」
父はしばらく私を見つめていた。
やがて、深く息を吐いた。
「……わかった。お前の意思を尊重しよう」
「ありがとうございます」
「ただし、一つだけ確認しておきたい」
「何でしょうか」
「お前は、王家に何か要求するつもりはあるか」
私は首を横に振った。
「婚約に伴って交わされた契約を、適切に整理していただければ十分です」
「それだけでいいのか」
「はい」
父は頷いた。
そして、机の引き出しから一冊の帳簿を取り出した。
「ならば、こちらも整理しよう」
私は帳簿を見た。
そこには、王家に対するヴァルディーヌ家の支援が記されていた。
王太子妃教育に関する費用。
王宮の行事に必要な物品。
王太子の視察に伴う人員と馬車。
王太子が個人的に希望した事業への融資。
そして、私が婚約者として調整してきた各種契約。
その多くは、ヴァルディーヌ家が負担していた。
「お父様……」
「お前が王太子妃となることを前提に、我が家は王家を支えてきた」
父は帳簿を閉じた。
「その前提がなくなったのなら、契約も見直す必要がある」
「……はい」
「心配するな。王家に不当な要求をするつもりはない。だが、我が家が負担する必要のないものまで、これからも負担する理由はない」
父は静かに言った。
「それだけのことだ」
*
婚約破棄から三日後。
王宮に、ヴァルディーヌ公爵家からの書簡が届いた。
内容は、婚約に関連する契約の見直しについて。
王家に貸与していた物品の返却。
ヴァルディーヌ家が負担していた費用の精算。
王太子妃教育に関する契約の終了。
そして、私が調整していた各種業務の引き継ぎ。
どれも、当然の手続きだった。
しかし、王宮は混乱した。
「……何だ、これは」
レオンハルトは、執務室で書簡を読んでいた。
隣にはミレーヌがいる。
「殿下、どうかなさいましたか?」
「ヴァルディーヌ家から、契約の見直しを求められた」
「契約の見直し?」
「馬車や人員の貸与を終了するらしい」
ミレーヌは首を傾げた。
「でも、婚約破棄をしたのですから、当然ではありませんか?」
「……そうだな」
レオンハルトは書簡を机に置いた。
「だが、これほど多くのものを借りていたとは思わなかった」
「殿下がご存じなかっただけでは?」
ミレーヌは悪気なく言った。
レオンハルトは眉をひそめた。
「何だと?」
「だって、アデライード様がいつも手配してくださっていたのでしょう?」
「……」
「殿下は、あまり細かいことを気にされない方ですから」
レオンハルトは、何も言わなかった。
その言葉が、妙に胸に引っかかった。
*
翌週。
王宮の執務室から、ヴァルディーヌ家が貸与していた馬車が引き上げられた。
王太子の視察に同行していた人員も、契約に従って配置を変更された。
王宮の行事に使われていた物品も、返却された。
それらは、どれも正式な手続きに基づくものだった。
王家が困ることはない。
必要ならば、新たに契約を結べばよいのだ。
ただし、その費用は王家が負担することになる。
そして、王家には別の問題もあった。
「殿下。来月の地方視察ですが、日程の調整が必要です」
「なぜだ」
「これまでアデライード様が各地の領主と調整しておられましたので」
「ならば、別の者に任せればよい」
「承知いたしました。ですが、各地の領主から返答が届くまで、少々お時間をいただくことになります」
「……」
「また、視察に必要な宿泊先や馬車の手配も、改めて行う必要がございます」
「……わかった」
レオンハルトは机に手をついた。
「では、会議の資料はどうなっている」
「アデライード様が確認されていたものは、すでに引き継ぎが完了しております。ただし、殿下のご承認が必要な書類がございます」
「何だ」
「こちらです」
書類の束が机に置かれた。
レオンハルトはそれを見た。
数十枚。
どれも、彼が署名する必要のあるものだった。
「……こんなにあったのか」
「はい」
「アデライードは、これを全部確認していたのか」
「はい」
侍従は淡々と答えた。
「殿下がご多忙でございましたので」
レオンハルトは書類を見つめた。
彼は、アデライードが何をしていたのかを知らなかった。
彼女がどれほど多くの仕事を担っていたのかも。
ただ、いつもそこにいて、必要なことを整えてくれる。
それが当然だと思っていた。
*
その頃、私はヴァルディーヌ家の領地にいた。
屋敷の窓から、庭園を眺めていた。
王宮にいた頃と比べると、ずいぶん静かな日々だった。
朝はゆっくりと食事をとる。
午後は領地の書類を確認する。
夕方には庭を散歩する。
それだけのことが、ひどく新鮮だった。
「お嬢様」
侍女が紅茶を運んできた。
「王都からお手紙が届いております」
「ありがとう」
私は封筒を受け取った。
差出人は、レオンハルトだった。
封を切る。
そこには、短い文章が書かれていた。
『一度、話がしたい』
私は手紙を読み終えた。
そして、封筒に戻した。
「お返事はどうなさいますか?」
侍女が尋ねた。
「お断りしておいて」
「承知いたしました」
私は紅茶を口に運んだ。
もう、話すことはなかった。
*
婚約破棄から一か月が経った。
王宮では、次第に問題が表面化していた。
王太子が担当するはずだった事業の進行が遅れている。
各地の領主との調整が滞っている。
王宮内の書類が積み上がっている。
そして、ミレーヌが王太子妃候補として振る舞うようになったことで、貴族たちの間に不満が広がっていた。
彼女は明るく、愛らしい少女だった。
しかし、王太子妃として必要な知識は持っていなかった。
会議の場で、領地の税収について質問されても答えられない。
貴族間の問題を相談されても、適切な判断ができない。
王宮の行事に必要な手配も、どこから手をつければよいかわからない。
それでも、レオンハルトは彼女を庇った。
「ミレーヌは、これから学べばよい」
彼はそう言った。
だが、貴族たちは納得しなかった。
王太子妃教育には、長い年月が必要なのだ。
その役目を担ってきた私を、自ら手放したのはレオンハルトだった。
そして、彼はようやく理解し始めていた。
私がいなくなったことの意味を。
*
ある日の午後。
私は父とともに、領地の会議に出席していた。
領民からの報告を聞き、今後の収穫について話し合う。
会議が終わる頃、執事が部屋に入ってきた。
「お嬢様。王太子殿下がお見えになりました」
私は顔を上げた。
「……殿下が?」
「はい。お会いになりたいとのことです」
父が私を見た。
「どうする?」
私は少し考えた。
「お会いします」
執事が退出する。
しばらくして、レオンハルトが部屋に入ってきた。
彼は以前よりも疲れた顔をしていた。
服装も、どこか乱れている。
私は立ち上がり、一礼した。
「お久しぶりでございます、殿下」
「アデライード……」
彼は私を見つめた。
そして、言った。
「話がしたい」
「お手紙で承知しております」
「そうか……」
彼は視線を落とした。
「私は、お前に謝りたい」
私は黙っていた。
「婚約破棄をしたことを、後悔している」
レオンハルトは続けた。
「お前がいなくなって、初めてわかった。私は、どれほどお前に支えられていたのか」
「……」
「お前が調整していた仕事も、手配していたものも、すべてが当たり前だと思っていた」
彼は顔を上げた。
「私は、間違っていた」
その言葉を聞いても、私の心は動かなかった。
かつてなら、嬉しかったのかもしれない。
彼が私の努力を認めてくれた。
私の話を聞いてくれた。
そう思えたかもしれない。
けれど、今は違った。
「殿下」
「……何だ」
「私は、殿下を支えるために努力してまいりました」
「ああ」
「ですが、それは殿下が私の努力を当然のものとして扱うためではございません」
レオンハルトは黙った。
「私は、殿下の婚約者として、王太子妃となるために学んできました。ですが、殿下は私の話を聞こうとはなさらなかった」
「……」
「私が何を考え、何を望んでいるのか。殿下は、一度でも尋ねてくださったでしょうか」
彼は答えられなかった。
「殿下が婚約破棄を宣言されたとき、私は悲しくなかったわけではありません」
私は静かに言った。
「ただ、あの瞬間に、ようやく自分の人生を選べるのだと思いました」
「アデライード……」
「申し訳ございません。私は、もう王太子妃になるつもりはございません」
レオンハルトは、私を見つめた。
「……もう一度、やり直すことはできないのか」
私は首を横に振った。
「できません」
「なぜだ!」
彼の声が大きくなった。
「私は反省している! お前の大切さも理解した! もう二度と、お前を軽んじたりしない!」
「殿下」
「私は、お前と結婚したいのだ!」
私は彼を見た。
その言葉を聞いて、ようやく理解した。
彼は、私が必要なのだ。
私という人間が必要なのではない。
私が担っていた役割が必要なのだ。
仕事を整理する者。
貴族との関係を調整する者。
彼の失敗を補う者。
そして、彼が何も考えずにいられるよう、すべてを整える者。
彼はそれを、再び手に入れたいのだ。
「殿下」
私は一礼した。
「私は、殿下のいない未来を選びます」
レオンハルトは、何も言わなかった。
私は続けた。
「どうか、お帰りくださいませ」
*
それから半年後。
王宮では、正式に王太子妃候補の選定が始まった。
ミレーヌは候補から外された。
彼女が王太子妃教育を受けていなかったこと。
貴族たちとの関係を築いていなかったこと。
そして、王太子の婚約者として必要な責務を果たせなかったこと。
それらが理由だった。
レオンハルトは、彼女を庇おうとした。
しかし、王妃陛下は許さなかった。
「あなたは、王太子妃に何を求めているのですか」
王妃は息子に尋ねた。
「……支えてくれることです」
「では、あなたは王太子妃を支えることができますか」
レオンハルトは答えられなかった。
「あなたは、アデライードがどれほど努力してきたかを知らなかった」
王妃は静かに言った。
「知ろうともしなかった」
「……」
「その結果、あなたは彼女を失ったのです」
王妃は立ち上がった。
「次の婚約者を迎える前に、まずはあなた自身が王太子としての責務を学び直しなさい」
レオンハルトは、何も言えなかった。
王太子としての教育が、改めて始まった。
彼がかつて私に任せていた仕事も、今度は自分で行わなければならない。
書類を確認する。
会議に出席する。
貴族たちと話し合う。
領地の報告を読む。
そして、自分の判断に責任を持つ。
それは、彼が今まで避けてきたことだった。
*
私は、ヴァルディーヌ家の領地で暮らしていた。
父の仕事を手伝いながら、領地の運営について学んでいる。
王宮にいた頃とは違う。
自分の意見を述べることができる。
自分の判断で動くことができる。
そして、誰かの顔色をうかがう必要もない。
ある日、父が私に尋ねた。
「アデライード。これからどうしたい?」
私は窓の外を見た。
領地の街並み。
市場を歩く人々。
遠くに見える畑。
私は、少しだけ笑った。
「もっと、いろいろなことを学びたいです」
「そうか」
「王太子妃になるためではなく、自分のために」
父は頷いた。
「それがよい」
私は、机の上に置かれた書類を手に取った。
そこには、領地の新しい事業計画が記されている。
私は自分の名前を署名した。
アデライード・フォン・ヴァルディーヌ。
王太子の婚約者ではない。
ただの、ヴァルディーヌ公爵家の娘。
それでよかった。
私は、もう誰かのためだけに生きるつもりはない。
自分の人生を、自分で選ぶ。
それが、私の新しい始まりだった。




