下
「今!我々は!人類の大変革期にあるのでございます!」
と阿奴多利光が駅前の広場で叫んだのは十月十三日の事である。彼は壇の上に立ってセプレツタムを天上に掲げ周りにカリヒア達が喜びの表情で彼を見ている。彼の話はシカディアンで散々聞かされた言葉ばかりである。「我々の勝利」「我らは一つ」「無知なあなた方ノディス」傍らで聞いていた何人かは侮辱と受け取って「黙れ!ひっこめ!」と彼を罵っていた。
そういった様子を私と瑠田竜子はやや遠くから傍観していた。この先何が起こるかは未知数であった。
Re―――――――――――――――――――――
そのうち彼らはキリーヒムを歌い始めた。私はそれを聞きながらこれまでの数々の出来事を回想した。カリヒアの集い、疑念、セプレツタム、「巨神カリュドゥス」、相田小見郎、、共感、虚像、世界統治、「我らは一つ」、そして今、何かが起ころうとしている。歌だけで終わるはずが無い。なにかとてつもない出来事が。それは善か悪か。歓迎するべきか忌むべきか。白い影が囁いた。
(善か悪かなんか、判断する必要ないのだよ。人は判断という過ちを犯すものだ。判断する事で決め付け、裁き、心が捻じ曲がる。)
いや、判断しなかったら・・・これまでの科学、歴史、法律、道徳は何なのだ。それは人間の決めつけから出た虚像に過ぎないのか。
(そうだ。現実は判断が生み出した偽者。そして今、まさに、人間の嘘である現実が崩されようとしている。歴史的瞬間に一緒に加わろうではないか。)
黙れ。
(意味なんていらない。何事も意味を求めるのが人間ノディスの悪癖)
黙れ、何様だ。
(我らは一つ我らは一つ我らは一つ我らは一つ・・・)
黙ってくれ!
(Re―――――――――――――――――――――)
瑠田に小突かれ、私は正気に戻った。「ねえ、見て」と瑠田は歌う阿奴多達を指差していた。
見ると、ほんの三十人だったはずの歌の群れがいつのまにか五十人ほどに増えていた。傍らの見物人達から次々と共感させられ、歌いながらゆっくりと歩いて歌の群れに加わっていったのだ。私は彼らを戦慄の思いで眺めていた。
五十、七十、そして群れが百人に達したとき異変が発生した。阿奴多の頭上に掲げていたセプレツタムが燃えたマグネシウムのように発光してどろどろと溶け、阿奴多の顔面に直撃していくつか地面に飛び散ったのだ。極度の共感、シンパシーに耐え切れずに外殻のF物質が崩壊したのだ。
恐ろしい事に中身のS物質の多くは阿奴多の身体と接触し融合していた。阿奴多の顔面が変化しだした。肌は蒼白に、両目が眉間のほうに集まって一つに結合し、鼻は消失、口は頬まで裂け、並んだ歯は凶暴なまでに尖った。それはカリュドゥスの顔であった。阿奴多は、S物質と融合した自分自身の身体で、その願いを具現化させたのだ。阿奴多はカリュドゥスになった。
「ああ、阿奴多さま、いやカリュドゥスさま」「そのときが来たのですね」「ああ」と周りのカリヒア達がカリュドゥスの身体に接触した。その瞬間、彼らの身体は白くそまり、カリュドゥスの身体の一部になった。そのように次々と人が融合され、最終的に百人もの身体を吸い取ったカリュドゥスはぐにゃぐにゃと150mもの巨人へと形作られながら、ビルの上まで浮かび上がった。
Re―――――――――――――――――――――
天上でカリュドゥスはその細く巨大な両腕を左右に広げ、体を仰向けに、顔は前に向きながらゆっくりと飛んだ。巨体が太陽を覆ったので後光が差し、持続的に鳴り響くキリーヒムが奇妙な静寂さと畏怖のようなものをもたらした。周りの空やビルは背景に見え、カリュドゥスだけがはっきりと現されていた。
ヒュウウウウウウ、ズガガーン。カリュドゥスの右胸にミサイルが激突し、爆発した。それをきっかけに、いつのまにか来た軍隊が総攻撃を開始した。先ほどからのミサイル、機関銃、戦車砲などが大量に無計画と思えるほどカリュドゥスの方に発射された。だが、カリュドゥスの目が突如閃光を放ったかと思うと、次の瞬間、とてつもない大爆発が聞こえ、軍の銃声がピタリと止んだ。
それをきっかけに傍観していた人々が圧倒され、口々に「我らはひとつ!」といいながら宙に浮かんだ。信じられない事に浮かんだのだ。そして彼らはカリュドゥスの方に向かっていった。
白い影が再び囁いた。
(そうだ。皆が“一つ”に向かっている。抵抗など無駄だと気づいたからだ。しかし、もう少し前に気付くべきだが)
黙ってくれ。
(なぜに青谷君、君はあれを拒絶するのかな?)
私は気をそらすため、突然何故か前に歩き出した瑠田を見ていた。彼女は阿奴多のいた壇の傍で立ち止まり、何故か両手で地面をタッチした。
(そんな奴なんかどうでもいいだろう。青谷君、どうしてあれを拒絶するのかな?君は只の人間に過ぎないのに。)
瑠田は立ち上がり、そのまま止まった。
(君が人間だからと言って、凄い事は何も無い。だがあっちでは君と同じ特別でない人間達が己の醜いエゴを捨て、真に神聖たるものを支え続けている。それは偉大なる行為で、彼らは賞賛に値する。それに比べ、君の抵抗は絶大な心理から逃げてひたすら自己満足に浸っているだけだ。)
そうなのか。結局カリュドゥスを虚構に決め込んだのは私自身の考えや現実が偽者だったからなのか。
いいや違う違う、あのカリュドゥスこそ、阿奴多、いや相田小見郎の自己満足ではないか。
(何を言う。阿奴多の行為が自己満足なんて大きな間違いだ。なぜなら、現にカリュドゥスは存在するではないか。)
そうだ、そうなのだ。何が正しい。どうすればいい。
Re―――――――――――――――――――――
混乱した私に、キリーヒムは癒しの音楽のように胸に染み渡った。その時私は納得した。そうだ。これが解決だったのだ。我らは一つだ。これこそが自然の行く道なのだ。
(さあおいで)
はい、今行きます。全ては一つのカリュドゥスさま。
地面から足が離れた、周りのビルや空は認識できず、カリュドゥスの存在しか見えなくなった。分からなくなった。分かる必要も無い。現実を捨て去るのだ。凶暴にしか見えなかったカリュドゥスの顔も今では非常に厳粛かつ優しく見えた。よんでいる、かれのもとにいこう、あたらしいせかいにいくのだ・・・
どす、いた、なんだ、むねにしょうげきが。きがついたらいつのまにかどこかしらないところにあしをつけていた。どうしたのだろう、めのまえにひとがいる。ここわあたらしいせかいかな?
「ここは、どこ?」
「ここはびるのうえよ。」
「びる?びるってなあに?」
「びるがわからないの?おもいだして。あおたにくん。」
「あおたにくん?そこに『あおたにくん』くんがいるの?」
「ああ、もう、すっかりげんじつをわすれているのね。しかたないね。」
バァアアアアアアアン
突然電撃のような衝撃が走り、私は驚いて辺りを見回すと、自分がビルの真上にいるのに気付いた。やや遠くにカリュドゥスの横姿が見える。瑠田が突然目の前に現れて、私は吃驚した。
「わ!瑠田さん!」
「・・・やっと正気に戻ったのね。」
そうだ。私は今まで謎の白い影の説得で共感させられたのだ。しかし・・・
「どうしてここにいるんだろう。」
「あなたがここまで飛んできたからよ。」
瑠田が言う。私は嘘だと思った。共感させられた人は真っ直ぐにカリュドゥスの方に向かうはずだ。ここにカリュドゥスがいないのはおかしい。私は瑠田を疑わしいという目つきでじっと見ると、瑠田は「バレたか。」と私の知る限り始めて微笑んで話した。
「あのカリュドゥスは何か分かる?あれはね、思いを実現化するS物質が、阿奴多の願いと人体とを融合してできた代物なの。他の人が阿奴多と融合しているのは共感があるから。そもそも阿奴多は共感を第一に求めているのよ。皆、僕を見てくれ、僕を認めてくれ、僕と同情してくれ、多くの人がその為に身を犠牲にしているのね。そしてカリュドゥスは想像力が形に表れた強大な力。何者にも抵抗できない。」
瑠田の言葉は、白い影の言葉の嘘を暴くものであった。だが、よく考えると先ほどの質問に答えていない。
「でもどうして、僕はここにいるの?」
「分からない?私は阿奴多と同じ。軍隊が滅んだ後に、阿奴多のいた壇の上でセプレツタムに接触したのよ。」
「え?あ、それじゃあ・・・」
そうだ。白い影がささやく時、彼女は奇妙な行動をしていた。あれはそういう意味だったのか。そして瑠田は次に恐ろしい話をした。
「カリュドゥスを滅ぼす事はできない。奴の体は心から来ている。奴を滅ぼすにはほっとくしかない。共感させるべき全人類がいなくなったとき、つまり皆と不自然な合体をするための共感の目的が失ったとき、カリュドゥスは自分自身が崩壊する。」
それは世界滅亡を意味した。次に彼女は更に絶望的な事を言った。
「だから、青谷君、あなたもカリュドゥスに向かわないといけないわ。」
「そんな・・・・じゃあ、どうして僕を助けたんだ。」
「約束するためよ。青谷君。いつか迎えに来るからね。」
そう、微笑んで瑠田が話したとき、足が地面から離れるのを感じた。私は空中でもがいたがムダだった。私は瑠田を見たが彼女は微笑んでいるだけであった。その彼女も背景のビルもろとも向こうに離れて行った。私は心の中で瑠田とこの世に別れを告げた。私は覚悟した。行こう。カリドゥスの元へ。
私はカリュドゥスと接触した。
Re―――――――――――――――――――――
世界が開けた。
それはカリヒアの集いで見た光景と全く一緒だった。
草原に青空。皆が円に並び、中央にカリュドゥスの顔をした阿奴多、ただ一つ違う点は人数が異常に多い。中央の阿奴多がゴマ粒にしか見えない。皆が一斉に物凄い音量でキリーヒムを歌っていたので、私も歌い始めた。もはや思考する必要も無い、永久的な至上の歓喜と、幸福の光に包まれ、私自身も光を発し、何もかも、喜び以外の現実は捨て去られた。だが忘れない。「迎えに来るからね」待ってます。いつまでも。
「我らは一つ!」
「我らは一つ!」
「我らは一つ!」
「我らは一つ!」
「我らは一つ!」
「我らは一つ!」
「我らは一つ!」
ずん。突然の重い衝撃。キリーヒムは徐々に消失し、阿奴多が蹲った。どうしたのかと皆が見ると阿奴多は顔を上げて突如黒々と溶け出した。それに共感され、阿奴多の周りの人も溶け出した。それにも共感され、次々と人々がドミノ倒しのごとく黒く溶け始めた。早く。溶ける様はまるで落とした泥のようであった。早くしないと。すでに並んで十人向こうに溶けているのが見えた。早くしないと私も。五人向こうで人が黒く溶けた。早くしないと私も溶ける。四人向こう、三人向こう、二人、そして目の前の人が溶け始めた。早く!
突然手が現れて片手が掴まれたかと思うと、私はすさまじい速さでカリュドゥスから離れて体が持ち上がった。瑠田竜子が私の手を掴んでいた。
「迎えに来たよ。」
そして突然手を離した。私はあわてた。
「うわわわわわ、落ちる!」
「大丈夫、落ちないよ。」
本当であった。空中なのに足が着いていた。
「青谷君、あなたもカリュドゥスに触れて、私と同じになったのよ。今、この世界には私とあなたしかいない。少なくとも地球上ではね。」
瑠田がそう言って、三度目の微笑をした。それは何かを思い出させたが、はっきりしない。
私達二人は地球を見下ろした。全人類を吸収して地球を覆うほどの大きさになったカリュドゥスはこちらを見上げて滅んでいた。悲痛の目で「キアァァァ」と激しく絶叫し、身体の端からぐずぐずと黒ずんで崩れていくのが見えた。やがて唯一の特徴であった顔も「虚無」に蝕まれ、下あごが消失して叫びが止み、巨大な一つ目だけが残った。その一つ目も黒く充血してやがて破裂した。その腐った身体で青い地球は黒々と染まった。
カリュドゥスは死んだ。