3話 信じられない
カタンッ、という金属音が家のリビングに響いた。ルナがスプーンをテーブルの上に落としてしまったらしい。
「…………」
「……ほら」
ルナが物を落とすようになっても、それを不思議に思わなくなった。それほど頻繁に物を落とすようになってしまったということだ。
箸のときはもっと酷い。あれほど上手く使いこなしていた箸も、今や最初のときより酷いことになってしまっている。
できるだけ持ちやすい、スプーンでも食べられるカレーを用意をしたのだが、そのスプーンも今のように落としてしまっている。
「……ありがとう」
俺の手からスプーンを受け取るも、上手く力が入らないのか、手から零れるようにスプーンがテーブルの上に落ちた。
「……なあ、病院行ったほうがいいんじゃないか?」
「…………」
「確かにルナは猫だから、病院行ったらなにされるかわからないけど、それでも今よりは……」
「大丈夫」
ルナの強い言葉に、俺はいつものように口を閉ざしてしまう。
何度も病院行こうと勧めたが、そのたびに拒絶された。けど、もうこれ以上は限界だ。
確実にルナの身体は不調になっている。
「大丈夫じゃないから言ってるんだよ。これだけ物を落とすっておかしいって」
「平気だから!」
「…………」
これ以上会話をすることを嫌ったのか、皿にほとんどカレーを残したまま、ルナは立ちあがった。
そのとき、足がもつれたのか、受け身を取らないまま彼女は床に倒れる。
「お、おい……大丈夫か?」
「…………」
「ルナ?」
床に突っ伏したままピクリとも動かなくなってしまった。
慌ててルナに近づき、その身体を抱き起こす。
「ルナ、ルナ……っ!」
「……ん」
微かに声を漏らすも、その瞳は開かれることなく、苦しそうな表情をしている。
これはどう考えてもおかしい。ルナは大丈夫と言っていたが、そんな言葉は信用できない。
救急車を呼ぼうとスマホを取り出した。しかし、それに待ったをかけるように細い指が俺の手首を掴んだ。
「隆史……聞いてくれ……」
「いや、もうルナの言葉は聞かない。なにを言われようが病院に連れて行くから」
もう何を言われようと、手足を縛ってでも病院に連れて行こうと思っていたが、ルナの言葉で俺の時が止まった。
「隆史……私は、もう死んでしまうんだ……」
「……は?」
死ぬ? なにを言ってるんだ?
「もう、なにをしようが無理なんだ……私は、死ぬ運命なんだ……」
「……笑えない冗談はやめろよ」
「冗談、なんかじゃない。私は、もうじき死ぬ……」
「ルナは医者か? 違うだろ、適当なこと言うなよ!」
「……隆史は、私に会ったときに何を願ったか覚えているか?」
ルナと会ったときに、願ったこと……?
彼女は、俺に恩返しをするために人間になったと告げた。そして、俺はなにを願った?
だめだ、昔のことすぎて覚えていない。
「ごめん、覚えていない」
「……隆史は、家族が欲しいと願ったんだ。そして、それは叶えられた」
そういえば、そんなことを言ったような……。
「それが、どうしたんだよ」
「私は、恩返しをするために人間になった。そして、それが叶えられると死ぬことになっている」
「…………」
なんだよ、それ……意味が全然わからない……。
第一、俺の願い事は叶ってないじゃんか。家族が欲しいってことは、家族が増えるってことだろう。
俺の状況はなに一つ変わっていない。なのに、叶ってるって……。
「家族が欲しいって願い事叶ってないじゃんか」
「……隆史は、希のことを母と思ってなかった。捨てられるかもしれない、愛されていないかもしれない。その葛藤が、希を母親と心から思えなかった。しかし、この間のことで、希のことを母親と認めて、ようやく家族になれたんだ」
「…………」
そ、んな……俺は、知らず知らずのうちにルナに恩返しをしてもらっていたのか……?
「……どうして……どうして、もっと早く言わなかったんだよ!」
「すまない……本当はデートのときに言おうと思っていた。最後に行った思い出の場所で……けど、隆史が辛そうな顔をしていて、どうしても告げることができなかった……」
ルナと最後に寄った場所。
あのとき、ルナが俺に告白するものとばかり決めつけていた。
けど、違ったんだ。彼女はそんなつもりはなくて、こんな大事なことを言おうとしていた。なのに、俺は……。
「……いやだ」
「……隆史」
「絶対にいやだ……ルナは絶対に死なせいから……」
彼女を抱きしめる腕に力を込める。
絶対に助ける……っ!
「病院に行こう。きっと治せるはずだから!」
やれることは全てやろう。まずは病院で診てもらったら、ルナの不調もきっと治せるはずだ。
そう意気込む俺とは裏腹に、ルナはゆっくりと首を横に振った。
「……もうなにをしても無理だ。診てもらっても、私を認識できないと思う」
「……どういう意味だ?」
「もう私を知らない人は、見ることも触ることもできない。私を知ってる人も、どんどん忘れていく……まるで夢から覚めるように」
「俺も……忘れるのか?」
苦しそうに、しかし、ゆっくりとルナは頷いた。
そんな……そんな、話……。
「信じられるかよっ!」
「……隆史」
今、俺の腕には確かにルナはいる。そんな彼女のことをどんどん忘れて行って、最終的には見ることも触ることも出来なくなる?
到底信じられない、信じたくない……っ!
「……明日、学校に行ってみたら分かる。もう私を忘れている人がいる頃合いだ」
「…………」
莉子たちも、ルナのことを忘れるのか……?
体育祭をあれだけみんなで頑張ったのに、そんな努力も友情も綺麗さっぱり失くしてしまうのか……?




