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21話 向き合うことができた

 中断していた朝食を再開し、新たな一日を改めて始める。

 仲良く食事をする風景は、どこかぎこちなくて、でもそんなふわふわした気持ちもちょっと心地よく、みんなの目が真っ赤になっていたが、それがまた面白くて、三人で笑いあった。


「おかあ、さん……コーヒーのおかわりいります?」


 まだ慣れない単語。

 照れが入り、恥ずかしさも少し残っているが、それでも口に出すのが嬉しくて、ついなんでもないのに俺はその言葉を呟いてしまう。


「コーヒーはもう大丈夫。ありがとう、隆史君」


 いつか流暢に言える日が来るだろうか。

 いや、きっと来ると思う。今はまだ心が浮ついて淀みなく言えなくても、希さんをお母さんとして、家族として、出発することができた俺なら、いつかきっと来るはずだ。


「もう一回聞くけど、隆史君は本当にお母さんと仲直りしなくていいの?」


 食事の間も何回も聞かれた質問。

 お母さんは、よほどかあさんのことが気になるのか、しきりに何度も問いかけてくる。


「いいですよ、俺のことを産まなきゃよかったなんて言う親なんて、こっちから願い下げです」

「こら、そういうこと言わない」


 悪態を吐く俺に対して、お母さんが少し強い口調で叱った。


「どうしてですか。だって、向こうからそう言ってきたんじゃないですか」

「隆史君がお母さんと会うのは何年ぶり?」

「十二年ぶりとかだと思います」

「たしか、外ですれ違ったんだっけ?」

「はい、ルナと遊んだときにたまたま外でバッタリと」

「隆史、遊んだときじゃない、デートのときだ」


 ルナの訂正してくる声は無視して。

 確かあれは、ルナに思い出の場所を案内してもらった帰り道だったはず。夕暮れ時で、クレーンゲームで取ってあげたぬいぐるみを大事そうに抱えるルナと一緒に歩いていたときに、たまたま会ってしまった。


「お母さんは、十二年ぶりに会うはずの隆史君を、どうして気付くことができたと思う?」

「……それは」

「隆史君は小さいときに比べて、声も容姿も雰囲気も別人のように変わった。なのにお母さんは一目見ただけで気付いてくれた」


 昔の写真を見返すと、幼い時の自分の容姿に驚くことがある。

 丸っこい顔の形、目はつぶらな瞳をし、成長した自分とはまるで別人のように見えた。


「それって、本当にお母さんは隆史君のことを気にかけていた証拠だと思うの」

「でも、あの人は……」


 かあさんにはいつも殴られて、罵声を浴びせられて……。


「感情が昂ると、自分を制御できない人なんだと思う。けどそれって、隆史君を愛してないってことではないの」

「あの人は俺のことを、産まなきゃよかったって……」


 たぶん二度と忘れないと思う。そう言われたことはずっと心の中で燻ると思う。


「確かに言ってはいけないことを言った。それを許せなんて言わないけど、不器用ながらも愛してたってことは忘れないであげて」


 かあさんに連れられて行った公園。

 俺の記憶には全くないけど、昨日のように語ってくれたのを思いだした。

 砂場で遊んだこと、ブランコで背中を押してくれたこと。記憶にはないけど、かあさんはずっとそれを大切に仕舞っていてくれた。


「親は、初めから親だったわけじゃない。お母さんはお母さんなりに頑張ったけど、でもそれがちょっと疲れちゃったんだと思う」

「…………」

「別にだからってしてきたことを許せなんて言わない。それでもわかってあげてほしい、お母さんは隆史君のことを忘れたことはないって言葉は嘘じゃないってことを」


 親は、初めから親だったわけじゃない。

 抱きしめてもらった記憶なんてない、けど、ルナと希さんに優しく包んでもらったときに懐かしさを覚えた。もしかしたら記憶にないだけで、赤ん坊のころは、ちゃんと俺のことを抱いてくれていたのかもしれない。


「……かあさんは俺のことを許してくれると思いますか?」


 酷いことを言ってしまった。

 あなたは本当のお母さんじゃないなんて言ってしまった。

 俺にとってのお母さんは希さんだけど、あの人は、かあさんも俺のことを育ててくれたお母さんなんだ。


「許してもらえるまで、私と一緒に謝ろうね」

「……はい」


 もう二度と連絡が取れないかもしれない。それでも、もう一度会って謝りたい。


「隆史君にはお母さんが二人もいるって、贅沢でよかったわね」

「希、タカシのお母さんは三人だぞ」

「三人?」

「そう、私もタカシのお母さんだから」

「ルナが言ってるのはぬいぐるみのほうだろ!」


 ぬいぐるみと俺の名前を同じにしてるからややこしくなってるじゃん!


「ルナちゃんも隆史君のお母さんなんだ。男の子はみんなマザコンだから、甘えたい放題だね」

「マザコンとはなんだ?」

「お母さんのことが大好きな子供のことかな」

「なるほど、じゃあ隆史はマザコンだな。私のことが好きで仕方がないから」

「やめて、マザコンじゃないから!」


 ルナにそんなことを教えると、外でも俺のことをマザコンを呼ばわりしそうだから!


「え、隆史君はマザコンじゃないの?」

「…………」


 お母さんの悲しい瞳。そのまなざしで見つめられると、俺の胸は張り裂けそうなほど苦しくなる。

 もしここでマザコンじゃないなんて言ってしまうと、お母さんを悲しませてしまう。それはだめだ。けどここで肯定してしまうと、ルナは俺のことをずっとマザコン呼ばわりするに決まってる。

 そして、俺がとった決断は。


「……マザコンです」

「隆史は本当に私のことが好きだな」


 俺の答えがよほど嬉しかったのか、ルナがウキウキで食パンに齧りつく。

 いや、別にルナのことが嫌いなわけじゃないんだけど、そんな風に食パンに齧りつく姿は、どっちかっていうと、お母さんというよりも妹というか娘というか、そっちに近いんだよな。

 それともう一つ、忘れてはいけないこと。

 母と言えば結婚。


「お母さんは再婚とか考えてないんですか?」


 今までも色々な男性に好意を寄せられていただろう。しかし、全てを断ってきた。俺のために、俺のことを考えて、自分の人生を犠牲にしてまで育ててくれた。

 でも、もういいんじゃないだろうか。

 今なら俺だって、新しく父親ができたとしても、温かく迎えることができると思う。

 お母さんは絶対に俺を見捨てない、それがわかっているから。


「うーん……隆史君が社会人になったら考えるかな」

「俺、大学行く気がないんで、再来年とかですよ?」

「じゃあ、隆史君がお酒を飲めるようになったら、かな」


 頬杖をついて、俺の顔を楽しそうに覗き込むその姿に、お母さんには再婚する意思がないことがわかった。

 もしかしたら、間違っていたのかもしれない。

 俺のために再婚しないと思っていたけど、そうじゃなかったとしたら。

 お母さんは、父さんのために、父さんのことが忘れられなくて再婚しないのかもしれない。

 ……そう、父さんだ。


「……ちょっと、仏間に行ってきます」

「……うん、わかった」

「隆史、仏間って?」

「……父さんが眠っている部屋だよ」


 お母さんは毎日のように入っている部屋。しかし、俺にとってこの部屋は開かずの間になっていた。


「私も一緒に行きたい」

「……うん」


 ルナにも来てほしい。父さんに新しい家族を紹介してあげたい。

 仏間に入ると、線香のかおりが、香水か何かのように漂っていた。たぶん、お母さんが朝に線香をあげたのだろう。

 小さな仏間の前に腰を下ろし、初めて線香をあげて手を合わせる。隣ではルナが俺に倣うように手を合わせていた。


「…………」


 今まで見ないようにしていた。無意識にこの部屋を遠ざけていた。

 父さんが死んだことを認めたくなかったから。

 頭の中ではわかっていたし、父さんはこの世にいないんだって認識していた。でも、どうしても認めたくなかったんだ。もし認めてしまったら、俺は一人になってしまうと、そう思って遠ざけていた。

 けど、今は違う。俺の隣にはルナもいるし、お母さんもいる。誰も俺を一人になんかにしない。

 ごめんな父さん、今まで一度も来てあげてない親不孝者の息子で。


「…………っ」


 父さんが亡くなったときも、葬式のときも、一度も涙を流すことなんてなかった。

 無意識に心の中で、拒絶していたんだと思う。


「……父さんはずっと俺の味方だった。かあさんから暴力を振るわれてるときも守ってくれてたし、仕事で忙しいのに、保育園の送り迎えやお弁当まで作ってくれていた」


 なのに、俺は一度もここに足を運ばなかった。

 ごめん、ほんとうにごめん……。


「遊園地に行ったときに、おんぶされたときの背中が大きかったのを覚えてる。まるでゆりかごのようで、気持ちよく寝ちゃってさ……」


 父さんの死と向き合うのことが怖かった。

 今でも思ってしまう、実は父さんが生きてるんじゃないかと。そんなことはないってわかっているのに。


「ずっと味方しててくれたのに……それなのに……俺、一度もここには……」

「隆史」


 ルナが俺の頭を抱きしめてくれる。


「よく頑張ったな。もうお父さんの死を悲しんで、泣いてもいいんだぞ」

「…………うん」


 やっと、父さんの死と向き合うことができた。


「うぇ……うぁぁぁ……ああ……ぁぁぁあああああっ!」

「…………」

「うわぁぁぁあああああっ! ああああっ、ああああぁぁぁっ!!」


 初めて父さんの死を泣いてあげることができた。

 これでようやく俺も前に進むことができる。止まっていた時間を、進めることができる。

 駄々っ子のように泣いている俺を、子供のように泣きじゃくるのを、ルナはずっと抱きしめてくれていた。

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