20話 わがまま言ってもいいですか?
次の日、早朝にも関わらず、かあさんは家まで迎えに来た。確かに今日迎えに来ることになっていたが、予定では夕方以降だったはず。にもかかわらず、人の予定を無視してやって来るのは如何なものだろうか。
まだ朝ごはんを食べ終えていないし、なんだったら希さんはこれから出勤する予定だった。
おかげで、希さんは仕事を遅れさせてまで、俺を見送ることに。
家の前に止まる、かあさんが乗ってきた軽自動車が、アイドリング状態で待っていた。そのようすに、かあさんは一刻も早く家に招きたいというのが窺えた。
ルナと希さんが、玄関の外で肩を並べて見送ってくれる。
「隆史君、そっちの家に行っても元気でね」
希さんの目が少し真っ赤になっていた。
たぶん、最後のときくらい笑顔で別れたいと配慮してくれたんだろう、俺の前ではいつもの笑顔で、手を握ってくれる。
子供のときに感じた手の温かさ。
その手は、とても小さくなってしまったけれど、それでもその温かさは変わらず、俺の心を落ち着かせてくれた。
「もうあっちでは、あんたの部屋とか用意してあるから。気兼ねなんてしなくていいからね」
でも、そんなかあさんの心遣いも俺は無碍にしてしまう。
「ルナちゃんは、隆史君になにも言わなくていいの?」
「うん、私も準備ができたらそっちに行くから」
「……?」
もしかしたらルナは、力を使ってでもこっちの家に来るつもりだったのかもしれない。
「ほら、隆史。お別れの挨拶はすんだでしょ? さっさと我が家に帰るわよ」
相変わらず人の話を聞かない人だ。
俺の肩を押し、強引に車まで引っ張ろうとする。
怖い……正直、今から言うことを想像するだけで震えが止まらない……。
それでも、俺は言わないといけない。
「……すいません」
「……は?」
肩を押しているかあさんの手を振り払った。
突然の俺の行動に、かあさんの目が大きく見開き、なにを勘違いしたのかわからないけど、たぶん、肩を押されているのが嫌だったと思ったのだろう、今度は手を握って、車に連れて行こうとしてきた。
けど、俺はそんな手すらも強引に振り払った。
「……すいません」
言わないといけない。
緊張で喉がカラカラになるのがわかる。幼少の頃の辛い思い出がフラッシュバックされ、なにか異物が喉に詰まったかのような錯覚に、息苦しさを覚え、視界もどんどん狭まっていく。
それでも、俺は立ち向かわなきゃいけない。
「俺は、あなたとは暮らせません」
「何言ってんの……? もうあっちの家では準備が整ってるのよ」
「すいません、それでも行けないんです」
だって、俺の本当のお母さんはあなたじゃないから。
「俺は……」
嬉しいときは、自分のことのように喜んでくれて。
「ここで暮らします」
悲しいときは、自分のことのように泣いてくれて。
「いまさら何言ってんのよあんた!」
「だって……」
辛いときはそばにいて守ってくれた。
そんな、嬉しいときも、悲しいときも、辛いときも、ずっと側にいてくれた人が俺のお母さんだから。
「俺の本当のお母さんは希さんだから」
希さんこそが、本当のお母さんだから。
「あんたね、折角わざわざこうやって迎えに来てあげてる人に対して、馬鹿にするのも大概にしてちょうだい!」
ヒステリックに声を荒げて、思いつく限りの罵倒の言葉をぶつけてくる。
……怖い、やっぱりとんでもなく怖い。
でも、後悔なんてない。
言葉の暴力が際限なく降り注ぐも、目を瞑り、黙って耐える。
俺の体格がかあさんより大きくなったこともあってか、暴力に訴えてくることはなかったけど、それでも心無い言葉が次々と刺さり、ちくちくと痛んだ。
「あんたの為に部屋まで用意してあげたのに、どうしてくれるのよ!」
「すいません……」
覚悟はしていた。どんな暴言を言われようとも耐えられると思っていた。
「こんなことなら、一緒に住もうだなんて思わなければよかった!
――――あんたなんか産まなきゃよかった!」
その一言は、俺の心を折るのに十分だった。
産まなければよかったなんて、実の親に言われる中で、一番最低な言葉かもしれない。
あなたは親ではない。そう思っているし、俺のお母さんは希さんだと思っている。それでも、実際に言われるとこんなにも辛いものだとは思わなかった。
「……っ」
俺は……生まれてこなければよかったのか……?
そうすればみんな幸せだったのか……。
「やめてください!」
けど、目の前で俺を庇ってくれるように、守ってくれるように、盾になってくれるこの人だけはそれを否定してくれる。
「どれだけ子供に最低なことを言われても、親はその一言だけは言ってはいけないんです」
――――この人だけは違う。
「子供がその一言でどれだけ傷付くか考えてあげてください」
――――他の大人と違って、打算ではなく俺を守ってくれる。
「あなたが産まなければよかったなんて思ったとしても、私は隆史君を産んでくれたことを感謝します」
あのときのように、悪い大人から守ってくれる。
希さんの手は、温かくて、傷付けることなんてしなくて、いつだって守ってくれて、今も俺を守ってくれる。
「産んでくれたから、隆史君は私の子供になってくれたんです」
小さくなってしまった手で、それでも頼りになるその大きな手を広げて、俺を守ってくれる。
「……もういいわ! 二度と引き取ろうなんて思わないから!」
車に乗り込んだかあさんが、バタンッ、と思いっきり扉を閉める音を大きく響かせ、タイヤが悲鳴を上げさせながらその場を走り去ってしまった。
本当に嵐のような人だった。
「……隆史君は本当に後悔しない? もうお母さんには会えないんだよ?」
「はい、後悔しません」
充実感は……まだ無い。なぜなら俺にはまだやりたいことが残っているから。
希さん、わがまま言ってもいいですか?
他人から見たらとても簡単なことだろう、けれど、俺にとっては長年燻っていたわがまま。
「よかった。まだ朝ごはんの途中だったわね、家に入って一緒に食べましょう」
踵を返して家に入ろうとするその背中に向かって声を掛ける。
「あ、の……」
あのとき、ちゃんと言えなかったことがずっと胸に残っている。
俺にもっと勇気があれば、恥ずかしいなんて感情がなければ。たった一言だけなのに、その一言がとても重くて、ずっと言えなかった言葉。
最大のわがままを言わせてください。
あのとき最後まで言えなかった言葉を言わせてください。
「お、かあ……さん」
あのときのように、まるで自分の声じゃないみたいに、つっかえながら発する。
なんて不細工な声なんだろう。赤ん坊が初めて言葉を発したかのような、あまりに酷く、笑ってしまうくらいに不細工だった。
それでも、今度は最後まで言い切ることが出来た。
お母さん……。
ずっとそう呼びたかった。たった一言なのに、文字にするとたったの四文字なのに。
こんなにも簡単で、でも俺にとっては難しいことだった。
希さんは、どう思うだろう。お母さんなんて言われるなんて嫌だったかな。
「ん、なーに?」
振り返った希さんの笑顔は、あのときと同じように輝いていた。
そう呼ばれることが当然というか、当たり前のように、なんでもないような感じで振り向いてくれた。
「……っ」
それがとてつもなく嬉しくて、俺はまたもや泣いてしまった。
お母さんと呼ぶだけで、こんなにも世界が変わるのか。そして、それを受け入れてくれることが、こんなにも嬉しいことだったのか。
「俺……ずっと……呼び、たくて……っ!」
「うん、ありがとう隆史君」
ふわりと身体を包んでくれる温もり、ルナとはまた違う優しさがそこに含んでいる。
「おか、あさん……あり、がとう……っ……」
「うん、うん」
まるで小さい子供が泣くように、しゃくりを上げながら泣く姿は滑稽に思えたかもしれない。それでも、希さんは優しく抱きしめてくれて、頭を撫でてくれる。
やっと……やっと家族としてスタートを切れたと思う。
父さんがいなくなって止まっていた時間が、遅ぎる時間が動き出した。
「……ルナちゃんもおいで」
「私も、か……?」
「そうよ、ルナちゃんも私の子供だから」
「……うん」
体当たりするように、ルナが希さんに抱き着いた。
……そうだよ、ルナも家族に決まってる。
希さんが、泣きじゃくる子供二人を、慈しむようににずっと抱きしめてくれた。




